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『沈まぬ太陽(御巣鷹山篇)』:山崎豊子|決して風化させてはいけない

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 「沈まぬ太陽」は、取材に基づいた事実と創作が入り混じった小説です。「御巣鷹山篇」は、昭和60年に起こった日本航空123便墜落事故であることは明らかです。主人公の恩地のモデルとなった小倉寛太郎は、この墜落事故には関わっていません。彼をモデルにした小説であれば御巣鷹山篇はなくても良かったはずです。ただ、著者はどうしてもこの墜落事故を書かないといけない、と思ったのでしょう。この悲惨な事故を忘れさせてはいけないという使命感があったのかもしれません。

「沈まぬ太陽(御巣鷹山篇)」の内容

十年におよぶ海外左遷に耐え、本社へ復帰をはたしたものの、恩地への報復の手がゆるむことはなかった。逆境の日々のなか、ついに「その日」はおとずれる。航空史上最大のジャンボ機墜落事故、犠牲者は五百二十名―。凄絶な遺体の検視、事故原因の究明、非情な補償交渉。救援隊として現地に赴き、遺族係を命ぜられた恩地は、想像を絶する悲劇に直面し、苦悩する。 【引用:「BOOK」データベース】  

「沈まぬ太陽(御巣鷹山篇)」の感想 

本航空123便墜落事故の現実

  御巣鷹山篇ではどこが事実でどこが創作と言ったことは、物語の本質には全く影響を及ぼしません。飛行機事故の悲惨さを伝えるということ。飛行機を運用する航空会社に求められる資質。それらに関わる人間が持たなければならない真摯さ。それら全てを、現実の墜落事故をもって読者に訴えています。

  御巣鷹山篇は、「遺族」「遺族と向き合う航空会社職員や身元確認に従事する医療関係者などの現場の人々」「航空会社の経営陣」の3つの違った立場を軸に描かれています。 

 まず感じたことは、目を背けたくなるほどの飛行機事故の悲惨さです。多くの遺体が墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、ばらばらになったり焼け焦げ炭化したりしています。その様子が、ドキュメンタリーのように克明かつ生々しく描かれています。衝撃の圧力で2名の身体がめり込んだ遺体まであったようです。収容された遺体の中から別の人の体の一部が発見されることも。身体の一部だけが発見されることが当たり前と言う凄まじい惨状です。そのような想像もできない墜落現場の惨状が描かれています。 

文章で読むだけでも過酷で悲惨な状況が目の前に浮かんできます

 遺族はもちろん現場で救助活動に当たられた方々も、その光景を見てどのように感じたのでしょうか。とても想像できません。現場の様子を描くために遺族や救助活動に当たられた方々に取材をするのは、とても大変なことです。しかし、その取材をやってこられたからこそ、この事故の凄惨さを世に訴えることが出来ているのでしょう。 

説としての日本航空123便墜落事故 

 ドキュメンタリーでなく小説なので、国民航空と恩地の闘いが主題です。国民航空の経営陣は形だけの謝罪を行うだけで、原因究明や遺族に対する真摯な対応を全くしません。腐敗した組織として描かれています。現場を軽視し社内政治ばかり考えている経営陣が、この墜落事故の原因の一端を担ったのかどうかは分かりません。事故はたった一つの原因だけで起きたのではなく、いろんな要素が絡まりあっているのは確かです。

 ただ、どんな理由があろうと墜落事故を起こした航空会社が取るべき責任は途方もなく重いもののはずです。その重さを経営陣は全く理解していません。そのような中、恩地は何をもって遺族に対していくのか。恩地の人間としての生き様と腐敗した組織。その両極をもって、この墜落事故を描いています。

終わりに

 現実の墜落事故の原因は、事故機の後部圧力隔壁が損壊したことによる墜落という調査結果になっています。その損壊はボーイング社の修理ミスということです。ただ、異論もあり謎に包まれている部分は多いようです。御巣鷹山篇を読んで感じたことは、国民航空と恩地の物語は脇役だと言うことです。墜落事故に巻き込まれた犠牲者とその遺族こそが、この小説で語られるべき者です。

 風化してはいけない事故です。創作が含まれていようと読むべき本です。アフリカ篇を読んでいなくても、御巣鷹山篇は読んでいただきたい。

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)