第155回直木賞受賞作。表題作「海の見える理髪店」を含む6編から成る短編集ですが、それぞれの短編に関連性はありません。完全に独立した物語です。ただ、その中にテーマを求めるとしたら「家族」です。親子の物語。夫婦の物語。喪失であったり再会であったり和解であったり。様々な家族の関係を、詳細な描写と情景豊かな文章で描いています。
ただ、6編の独立した短編なので、全てに共感し納得出来るものではありません。読み終えた時に、心に響く物語もあれば疑問符の付くものもありました。それぞれの短編ごとに感想を書きます。
「海の見える理髪店」の内容
伝えられなかった言葉。忘れられない後悔。もしも「あの時」に戻ることができたら…。母と娘、夫と妻、父と息子。近くて遠く、永遠のようで儚い家族の日々を描く物語六編。誰の人生にも必ず訪れる、喪失の痛みとその先に灯る小さな光が胸に染みる家族小説集。 【引用「BOOK」データベース】
「海の見える理髪店」の感想
「海の見える理髪店」
主の腕に惚れた大物俳優や政財界の名士が通いつめた伝説の床屋。ある事情からその店に最初で最後の予約を入れた僕と店主との特別な時間が始まる。
表題作。海の見える理髪店を訪れた「僕」が主人公だと思いきや、店主の物語でした。店主が自らの半生を「僕」に語り掛ける。ほぼ一方的に。ただ、そうであっても押しつけがましい話には感じません。店主の半生は、平凡と言えるほど平凡ではありません。ただ、劇的と言えるかと言えば、それほどでもない。もちろん、ある事件の告白をするまでの話ですが。
物語は淡々と語られ続けます。その合間に、理髪店らしい理髪の様子が描かれています。理髪の様子は詳細に描かれています。理髪店を利用したことのある人なら、完全に頭に浮かびます。その描写が店主の話の合間のアクセントになり、物語が単調にならない。店主の話が、1時間程度の理髪の間に語られ尽くす。理髪とともに生きてきた店主らしい。
この穏やかな物語も、店主がある出来事を語った瞬間から先行きが分からなくなります。
- 何故、店主が「僕」に、これほどの秘密を語るのか?
- 他の客にも語っているのか。
その秘密が、最後に語られます。「僕」と店主の関係が分かった後での、店主の言葉はとても心に響く。「僕」も店主も、お互いの関係を知っている。それでありながら、店主が最後に放った言葉は、とても心を温かくさせました。
「いつか来た道」
意識を押しつける画家の母から必死に逃れて十六年。理由あって懐かしい町に帰った私と母との思いもよらない再会を描く
この話は、生々しく感じました。自己中心的で厳しい母親と、それに反発し続けてきた娘。その確執を描いているのですが、母親を悪者のように扱っているように感じます。確かに一般的な母親ではないのですが、娘からの一方的な視点に感じます。娘に期待する母親の気持ちも分からないではないのです。ただ、娘から見たら理不尽な話ではありますが。
母親が認知症を患い過去のことを忘れてしまっていることを知って、娘は母親を許す気持ちになります。母親が弱い存在になったことにより、許す気持ちが芽生える。何となくすっきりしません。お互いが過去を流すことを理解した上で和解した訳でないので和解ではない。
では、この結末は一体何を表現しているのか。娘の寛容なのか。母親の弱さなのか。後味の悪さを感じました。
「遠くから来た手紙」
仕事ばかりの夫と口うるさい義母に反発。子連れで実家に帰った祥子のもとに、その晩から不思議なメールが届き始める
前2編は現実的な話でしたが、「遠くから来た手紙」は非現実的と言いますか、ファンタジー的要素を感じます。夫婦の関係が物語の軸です。主人公の祥子は、育児を手伝わない夫に嫌気が差し実家に帰ります。夫婦喧嘩の原因は育児です。多くの夫婦間における喧嘩の原因は、家事と育児の分担なのでしょう。
夫婦喧嘩をして実家に帰る。夫が謝り、迎えに来るのを待つ。全く盛り上がりに欠ける内容を想像してしまいます。そこに過去からのメールが届く。一気にファンタジーの世界に引き込まれます。この非現実的な出来事がとてもいい。
夫婦間の本当の愛情、信頼、思いやり。全てが過去から運ばれてきます。それは、現在の過剰な情報、溢れる物のために忘れている心を思い出させてくれます。
「空は今日もスカイ」
親の離婚で母の実家に連れられてきた茜は、家出をして海を目指す
子供と大人の関係を描く。関係と言っても、子供は大人の都合でしか生きられない弱い存在だと描かれています。彼女たちが目指しているのは海ではなく、現状からの脱出なのでしょう。読んでいてとても辛い。
- 大人の都合で振り回される茜。
- 理不尽な虐待を受けるフォレスト。
彼らが目指す先に救いはあるのか?結局のところ、元いた場所に連れ戻され、救いは訪れない。タイトルの爽やかさに比べ、内容はとても救われない。
「時のない時計」
父の形見を修理するために足を運んだ時計屋で、忘れていた父との思い出の断片が次々によみがえる
時計は時を表す。それは、同時に人生を表しているのでしょう。ここに登場する時計屋の店主は過去を見て生きています。彼は時計を止めることで、人生をその瞬間に留め置こうとしています。すなわち、店主は過去に囚われています。
逆に「私」は止まった時計を修理して動かそうとしています。亡くなった父親との過去を思い出すとともに父親を理解し、自分は前に進もうということなのかもしれません。
- 過去に囚われた店主。
- 未来を見始めた「私」。
それを対比している印象です。
「成人式」
数年前に中学生の娘が急逝。悲嘆に暮れる日々を過ごしてきた夫婦が娘に代わり、成人式に替え玉出席しようと奮闘する
この「成人式」が一番心に響きました。娘を亡くした親。その喪失が、彼らの人生の全てを奪ってしまった。子供を持つ親なら、子供に先立たれることほど辛いことはない。その先の自分たちの人生が、どれほど空虚なものになってしまうのか。想像に難くないです。
ただ、それでも人は生きていかなければなりません。過去に囚われ続けることが、果たして生きていると言えるのか。亡くなった娘のために、娘を思い続け後悔し続ける人生を娘が喜ぶのだろうか。
現実は、亡くなった娘が喜ぶも悲しむもありません。亡くなっているのだから。その言葉の意味するところは、過去に囚われた心を解き放つ言い訳に過ぎないのかもしれません。その言い訳を受け入れるきっかけが欲しい。それが、彼らにとっては「成人式」に参加することだった。有り得ない行動を起こすことで、決して出来ないと思っていた娘の死を受け入れることが出来る。そのように考えたのかもしれません。
最後に
独立した短編集において直木賞を受賞した場合、その選考過程はどのようになっているのだろうか。全ての短編において、選考に値する内容であったと評価されたのでしょうか。それとも、直木賞に値する短編が含まれていたということでしょうか。物語として独立した短編ですが、その根底に流れるテーマ「家族」が素晴らしく描かれていたのか。
直木賞受賞作ですが、短編と言うこともあり、少し物足りなく感じた部分もありました。