こんにちは。本日は、サイモン・シン氏の「フェルマーの最終定理」の感想です。
約3世紀、多くの数学者が挑んで証明できなかったフェルマーの最終定理。存在することは知っていましたが、それほど意識したことはありません。どれほど難問なのか実感もなかったし、1995年にアンドリュー・ワイルズによって証明されていたことも知らなかった。知らないというよりは興味がなかったということです。
これほどの難問のノンフィクションを読んで理解できるのだろうか。疑問を抱きながら読み始めました。最初に感じたのは、数学の知識がそれほどなくても大丈夫だし面白いということです。ワイルズの証明を完全に理解できる読者はほとんどいないでしょう。著者もそのことは十分に理解しているはずです。
本書が伝えたいことは、フェルマーの最終定理に挑んだ数学者たちの人生です。数学の歴史やワイルズが証明に至る過程を描くことで、数に挑む数学者の人生を描いています。何かに全てを懸ける人生に引き込まれない訳がありません。
サイモン・シン氏はイギリスBBCTVで「フェルマーの最終定理」のドキュメンタリーを制作しています。TVでも文章でも視聴者や読者を飽きさせない有能な方なのだろう。加えて、素粒子物理学の博士号も持っています。数学に対する知識や理解も深いのだろう。
数学を理解できなくても、本書の面白さが損なわれません。
「フェルマーの最終定理」の内容
17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが―。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション。 【引用:「BOOK」データベース】
「フェルマーの最終定理」の感想
数学の歴史
本書の数学の歴史は、紀元前六世紀のピュタゴラスから描かれます。いきなりフェルマーの最終定理を提示され、ワイルズの証明の物語だけを描かれてもよく分からないままだろう。私のように数学と数論の違いもあやふやな知識しかない読者もいるのですから。
大きな謎には歴史があり、紀元前まで遡ります。人類が数とどのように向き合っていたか知ることで、数学に対する意識が変わります。数学において、ピュタゴラスがどれほど重要な役割を果たしたのかが描かれます。彼の知識や証明などを完全に理解することはできません。しかし、彼の人生を見ることはできます。数学が人を魅了することも分かります。
ピュタゴラスの成果は多いのだろう。その中でも、誰でも知っているのがピュタゴラスの定理です。三平方の定理という言葉で習ったような記憶があります。
直角三角形の三辺の長さの関係です。これが成り立つことを前提に数学の問題を解いていました。この定理が正しいかどうかを疑問に思うこともなく、こういうものだと盲目的に信じて使っていました。現実に証明されているのだから正しい。ただ、数学に興味や好奇心があれば、何故、この定理が成り立つのか考えるだろう。その違いが、数学に魅了される人とそうでない人の違いかもしれません。
本書では、ピュタゴラスから始まり、数多くの数学者が登場します。アンドリュー・ワイルズもその一人です。登場する数学者は難問に挑み、何かを成し遂げたり、成し遂げられなかったりします。彼らの仕事の内容を理解することは難しい。そもそも数学史に名を連ねる人々の成果を理解するには、彼らと同等の知識が必要です。
しかし、彼らの人生を理解することはできます。数学の歴史は数学者の歴史であり、数学の進歩です。人が関わる以上、その数だけ人生があります。歴史を見ることは、人生を見ることです。
証明が示すもの
数学者が求めるものは証明ですが、そこには美しさが必要です。そもそも完璧な証明には美しさが伴うのだろう。証明できていたとしても、美しさの伴わない証明は完全ではないのかもしれません。
どのような過程で証明するのかも重要なのだろう。ワイルズは頭の中で組み立てられた理論を紙と鉛筆で表現していきます。彼の頭脳が証明へ導き、美しい形で表現されます。数学の証明は人間の頭脳の結晶として結実します。紙と鉛筆があれば数学はどこでもできます。証明が全てであり、完成された証明は有無を言わせぬ存在になります。
ワイルズの行った伝統的な証明は、もはや現れることはないかもしれません。コンピューターの進歩が新しい可能性を広げる一方、美しさを遠ざけます。人間にはない高い演算能力で答えをはじき出します。いいことか悪いことか別にして、力ずくで出された証明に美しさはないのだろう。
コンピューターは数学者が導き出すことのできない証明をするのだろうか。ワイルズが行ったように、あらゆる予想を数学者が証明する日は来るのだろう。ただ、コンピューターは数学者が証明する日を待ってくれません。
本書で四色問題が取り上げられています。数学者を長年悩ませてきた問題です。平面上のいかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗り分けるには四色あれば十分だとする定理です。
有限個の基本単位の全てを四色で塗れるかどうかを証明するのにコンピューターの演算能力を使うことは美しい証明と言えるかどうか。証明されたとしても過程が問題なのだろう。コンピューターによる証明は数学の進化か退化か。数学者の主観によるところも大きい。
フェルマーが残した言葉
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
フェルマーの残した言葉が約3世紀に及ぶ数学者の戦いの始まりです。重要な点は、フェルマーが優秀な数学者だったことと問題が分かりやすいことです。フェルマーの最終定理は一見簡単そうに見えます。問題が理解しやすいからです。小学生のワイルズが興味を示したように、問いの意味は子供でも分かります。
フェルマーが本当に証明を持っていたかどうかは分かりません。フェルマーを疑うという選択肢もあります。「命題が間違っていることを知っていた」か「命題を証明していない」のどちらかです。「フェルマーが証明したと思っていた内容が間違っていた」ということも考えられます。正しいかどうかも含めて、後の数学者は証明に取り組んだのだろう。
フェルマーはどういう気持ちでこの言葉を残したのだろうか。何も語らずに世を去ったので分かりませんが、後の数学者に対する挑戦状なのかもしれません。ワイルズのように、この挑戦を心に刻み、人生を懸ける者も現れた。数学者たちにとってフェルマーの言葉は神の声か、それとも悪魔の声だったのか。
アンドリュー・ワイルズの人生
ワイルズの人生は、常にフェルマーの最終定理とともにあります。彼の人生そのものです。ワイルズはあらゆる数学のテクニックを駆使して証明しました。数学者の名誉は最初に証明した者に与えられます。ワイルズが独力で証明したのは名誉が欲しかったのだろうか。約3世紀に及ぶ戦いの勝利者として名を残したかったのだろうか。
人生を懸けた命題を証明することで、彼の人生に大きな意義を与えたかったのかもしれません。もちろん、人に譲りたくないという気持ちも大きかっただろう。
数学者の世界では常に情報交換をするようです。秘密主義者の集まりではなく、オープンな関係を築いています。数学という深淵な世界に立ち向かうために必要なのだろう。
10歳で出会ってから1995年の完全証明に至るまでの人生の全てを懸けた証明を独力で成し遂げたい気持ちは分かります。しかし、自身の研究成果を使われない代わりに、他人の研究成果も入手しづらい。独力は諸刃の剣です。7年間、一人でフェルマーの最終定理に挑み続けます。必ずしも証明できるとは限りません。過去の多くの数学者が挑み敗れています。ワイルズの孤独は計り知れません。
1993年のケンブリッジ大学での講演で証明を発表します。7年間の成果であるとともに、10歳からの人生の成果です。その証明に誤りを指摘された時の気持ちはどうだったのだろうか。フェルマーの最終定理の恐ろしさがワイルズに襲い掛かります。
約2年後に完全証明した時、彼は達成感とともに喪失感も感じています。人生を懸けてきたものがなくなったのだから当然です。しかし、彼の人生はこの瞬間のためにあったはずです。
終わりに
ワイルズは、現代の数学のあらゆるテクニックを駆使して証明しました。日本人の名前も登場します。谷山=志村予想は、証明のための重要な役割を果たします。日本人の名前が登場すると誇りを感じます。
17世紀から始まった数学者の戦いは終わりました。ワイルズの証明のインパクトを超えるものは現れないかもしれません。どんな難解な命題もコンピューターが証明してしまえば感動はない。そこには人生がないのだから。