道尾秀介『I』

ごきげんいかがですか。まんぱです。
「もし、あの時あっちの道を選んでいたら――」
そんなふうに、過去の選択を振り返って立ち止まったことはありませんか?道尾秀介さんの最新作『I(アイ)』は、そんな人生の不可逆性を、小説という形式そのもので体現した衝撃の一冊です。
本書の本質は「読者が物語の運命を握る当事者になれる」こと。どちらの章から読み始めるか、そのたった一度の選択で物語の真実が鮮やかに反転します。この記事を読めば、未体験の読書体験がもたらす感動の正体と日常の景色を変える「視点の魔法」に触れることができます。
- ページをめくる指が震える究極の「二択」
- なぜ「順番」が「真実」を塗り替えてしまうのか?
- 読者が「物語の主人公」になる瞬間
- テクニックの先にある「救い」と「人生の重み」
- 小説に仕掛けられた「新しい愛の形」
- 終わりに:あなたの「I」を今すぐ始めてほしい
ページをめくる指が震える究極の「二択」
私たちの人生は、日々繰り返される無数の「選択」でできています。朝起きて何を食べるかといった些細なことから、どの会社に入るか、誰と人生を共にするかといった大きな決断まで。けれど、一度選んでしまったら、もう一方の道に戻ることは二度とできません。
道尾秀介さんの最新作『I(アイ)』は、まさにそんな「人生の重み」を、ページをめくるという行為そのものに刻み込んだ恐るべき一冊です。
表紙をめくると、まず目に飛び込んでくるのは、著者からの挑戦状とも言える驚きのメッセージです。
本作は二つの大きな章で構成されています。しかし、一般的な小説のように「1章、2章……」と順番が決まっているわけではありません。「どちらの章から読み始めても構わない。それは、読者であるあなたの自由です」と告げられるのです。
この独特な構成に、2021年の話題作『N』を思い出した方もいるでしょう。あの「どの章から読んでもいい」という斬新な構造を、道尾さんは本作でさらに深化させました。単にバラバラに読めるというだけではありません。本作が「究極」と言われる理由は、「読む順番によって、物語の結末そのものが変わってしまう」という点にあります。
あらかじめ用意されたレールを走るのではなく、あなたが一歩目を踏み出したその瞬間から、物語はあなただけの「真実」に向かって分岐し始めるのです。
なぜ「順番」が「真実」を塗り替えてしまうのか?
「順番が違うだけで、そんなに印象が変わるの?」 そう思うかもしれません。でも、想像してみてください。私たちは日常生活の中で、無意識に「最初に得た情報」を世界の基準(前提)にしてしまう癖があります。これを心理学では「アンカー(係留)効果」と呼びます。
例えば、最初に読んだ章で、ある登場人物を「とても優しく、信頼できる人だ」と感じたとしましょう。すると、そのイメージが頭に強くこびりつきます。次に読む章で、その人物が少し怪しい行動をとったとしても、あなたの脳内フィルターは「きっと、何か深い事情があるに違いない」と、善意の解釈を自動的に作り上げてしまうのです。
逆に、もし逆の章から読み始めていたら? その人物が「冷酷な裏切り者」に見えていたかもしれません。同じセリフ、同じ風景、同じ結末。それなのに、それまでに積み上げてきた「あなたの記憶」というフィルターを通すことで、喜びが悲しみに、正義が悪に、鮮やかに反転してしまうのです。
この「情報の欠如」が生み出すリアリティこそが、『I』の醍醐味です。現実の私たちも、誰かの人生のすべてを知っているわけではありませんよね。断片的な知識や限られた時間の中で見せる表情から、「この人はこういう人だ」と想像して信じたり疑ったりして生きています。
家族のことでさえ、私たちはその人生の24時間をすべて把握しているわけではありません。自分が見ているのは、あくまで相手の「一面」に過ぎない。本作は、そんな不完全な世界で生きる私たちの姿を、物語の構造そのもので体現させてくれるのです。
目の前にいる「本当の姿を知らない誰か」と向き合っている時のような、あのもどかしさと緊張感。読んでいる章には書かれておらず、もう一つの章に書かれているかもしれない出来事を、自分の想像力で埋めていく作業。その余地を、道尾さんは最大限に用意してくれています。
読者が「物語の主人公」になる瞬間
本書は、読者を単なる「観客」から「当事者」へと変えてしまう力を持っています。
通常の小説は、最後には全ての謎が解けて、作者が言いたかったことがはっきりと分かるようになっています。いわば「正解」が用意された迷路です。しかし『I』では、片方の物語を読み進めている間、もう片方には何が書いてあるかを全く知らないまま進んでいきます。
この「知らない事実がある」という不完全な状態こそが、私たちの現実の世界に近いリアリティを生んでいるのではないでしょうか。私たちは常に情報の欠如を抱えながら、手探りで正解らしきものを選び取って生きています。
本作を読んでいる間、あなたは何度も自分自身に問いかけることになるでしょう。
- 「もし逆の順番で読んでいたら、私はこの登場人物を許せただろうか?」
- 「もし逆だったら、このシーンで同じように感動できただろうか?」
この問いかけこそが、本作に仕掛けられた最大の罠であり、ギフトでもあります。タイトルの『I』には、「私(一人称)」という意味が込められているのかもしれません。どちらを先に選んだか、その順番が「あなたという人間」を映し出す結果になるからです。
一つの物事には、必ず反対側の見方があります。そんな当たり前だけれど、忙しい日常の中でつい忘れがちな真理を、この本は鋭く突きつけてきます。こうした視点の切り替えを強制的に体験することで、読み終えたときには、他人の気持ちに寄り添う力が、以前よりもずっと豊かになっていることに気づくはずです。
選べる自由は、現代社会に対するメッセージのようにも感じられます。毎日ニュースやSNSで流れてくる情報を見て、私たちは「これが真実だ」と決めつけてしまいがちです。ですが、『I』を通してみると、情報の順番が変わるだけで、正義も悪も、愛も憎しみも、これほどまでに入れ替わってしまうのだと痛感させられます。
テクニックの先にある「救い」と「人生の重み」
道尾秀介さんの作品といえば、その精緻なトリックや驚きの仕掛け、いわゆる「どんでん返し」の魔術師として有名です。しかし、本作『I』を単なる「ギミックが面白いだけの本」だと思って読むと、その深さに溺れてしまうかもしれません。
道尾さんがこの複雑な形式を選んだのは、単に読者を驚かせたかったからではないでしょう。テクニックが「驚き」という一瞬の効果で終わるのではなく、長く心に残る「響き」になるために、この形が必要だったのです。
最初から最後まで決まった一本道だったら、本作は「よくある悲劇」や「ありふれたハッピーエンド」として消費されていたかもしれません。ですが、順番を自由にして、それぞれの終わり方がお互いに影響しあうことで、物語に計り知れない奥行きが生まれました。
人生は選択の連続です。「もしあの時違う道を選んでいたら」という後悔は、誰もが胸の奥に秘めている重石のようなものです。本作の構造は、その「選ばなかった未来」の存在を常に意識させます。選んだ未来と選ばなかった未来、その両方を否定せず、現在の自分として受け入れる。物語を読み終えるプロセス自体が、過去や未練を受け入れるための儀式のようにも感じられるのです。
読者に解釈を丸ごと任せるというのは、作家にとって非常に勇気がいることだと思います。物語のコントロール権を読者に手放すわけですから。ですが、道尾さんはあえてそのリスクを取り、受け取る結末を二つ用意しました。「あなただけの結末を見つけてほしい」という、読者への最大の信頼とプレゼントが、この1冊には詰まっています。
ネタバレ無しで少しだけ核心に触れると、本作は「人を許すこと」についての物語であるように思います。片方の章だけでは「共感できない嫌な奴」と決めつけていた人物が、もう片方の章を読むことで、実は深い悲しみや、誰にも言えない愛情を持って動いていたことが分かったりします。
それぞれは独立した物語ですが、その順番を自分で決めることで、あなた自身が物語の「編纂者」になります。その結果、登場人物たちに対して「どう考えればいいんだろう」という迷いが生じる。そしてその「迷い」こそが、他人を真に理解しようとする心の第一歩になるのです。
小説に仕掛けられた「新しい愛の形」
本作を読み終えたとき、私の心に最も強く残ったのは、仕掛けの鮮やかさではなく、そこに流れる「救いたい」という祈りでした。
道尾秀介さんは、かつて『向日葵の咲かない夏』などで読者の心を徹底的にかき乱してきました。しかし、近年の作品、特にこの『I』においては、人間の弱さや醜さを描きながらも、その奥底にある「誰かのために」という純粋な光を掬い上げようとしているように感じます。
仕掛けという仕組みはあくまで「器」であり、その中に注がれているのは、誰かの愛情や不器用な献身です。読み終えたとき、きっと言葉にできないような重厚な余韻が残ります。それは、単に「面白かった」という感想を超えて、自分自身のこれまでの歩みを肯定されたような静かな感動です。
「もし順番が逆だったら、何を感じていたのだろう」 この疑問は、そのまま私たちの人生にスライドします。「もしあの人と出会わなかったら?」「もしあの言葉を言わなかったら?」 決められた道筋をなぞるのではなく、自分の意思で選択する。その楽しく、かつ厳しい事実を、この本は物語を通じて再確認させてくれます。
自分だけの物語を見つける瞬間。それは、何よりも贅沢で、何よりも孤独で、そして何よりも美しいものです。 本作の迷宮のような仕組みを脱出したとき、あなたは人生における「自分の選択」の重要さを、これまでにない重みをもって感じることでしょう。
終わりに:あなたの「I」を今すぐ始めてほしい
道尾秀介さんの『I』は、読書という体験を「参加型」へと鮮やかに変貌させました。
「もし、あの時……」 そんな後悔を抱えて生きる私たちに、この本は優しく、時に鋭く語りかけてくれます。選んだ未来も、選ばなかった未来も、すべてを含めて「あなた(I)」なのだと。
一度読み始めてしまえば、もう「読む前のあなた」には戻れません。どちらの章から読み始めるか。その最初の選択から、あなただけの特別な物語が始まります。
あらかじめ決められた正解を探すのではなく、自分自身で道を選び、納得できる真実を見つけ出す。そんな贅沢で、そして少しだけヒリつくような読書体験を、ぜひ味わってみてください。
読み終えたとき、いつもの風景や、友達との何気ない会話が、昨日とは少し違って見えるはずです。なぜなら、あなたはもう、「物事の裏側にある、もう一つの真実」を、自分の手で選び取ったのですから。
あなたの「I(アイ)」は、どちらから始まりますか?




