ロバート・ラングドン教授を主人公にしたサスペンス小説の第4作目。「天使と悪魔」「ダ・ヴィンチ・コード」は映画化されており、当時はかなり話題になりました。この2作は小説も読みましたし、映画も観ました。かなり前なので再読した上で、いずれ感想を書きたいと思います。
このシリーズを読むと感じるのは、美術史・宗教学・歴史・文学など多くのジャンルの知識が要求されるということです。もちろん知っていなくても楽しめますし、読みながら調べればいいだけですが。
本作において重要な鍵になるのが、ダンテの神曲です。ダンテも神曲も名前は知っていますが、どんな人物なのか、どんな文学なのかはよく知りません。読み進めれば、ストーリーの進行を妨げない程度に解説されています。物語を理解する上で必要な知識は与えられる訳ですが、謎が解かれて初めて納得するというところです。ロバート・ラングドンは著名な宗教象徴学の教授です。彼と同じ知識、すなわち著者と同じ知識がないと謎解きは難しい。
「インフェルノ」の内容
「地獄」。そこは“影”―生と死の狭間にとらわれた肉体なき魂―が集まる世界。目覚めたラングドン教授は、自分がフィレンツェの病院の一室にいることを知り、愕然とした。ここ数日の記憶がない。動揺するラングドン、そこに何者かによる銃撃が。誰かが自分を殺そうとしている?医師シエナ・ブルックスの手を借り、病院から逃げ出したラングドンは、ダンテの『神曲』の“地獄篇”に事件の手がかりがあると気付くが―。【引用:「BOOK」データベース】
「インフェルノ」の感想
追うべき謎
追うべき謎が何なのか。それが分からない状況から始まります。謎めいたプロローグから始まり、何らかの大きな意図を感じさせるラングドンの夢へと続きます。彼が目覚めたことにより状況が把握できるのかと思えば、彼自身が置かれた状況を把握していない。読者が迷路の中に放り込まれた状況です。何をすべきなのかが分からない状態なので、物語が進むべき方向が見えません。状況は徐々に分かってきますが、そもそもの原因が分かりません。分からないまま物語が展開していきます。
ラングドンの混乱は読者の混乱を招きます。与えられた情報はあまりに少ない。しかもプロローグと彼の夢は抽象的過ぎて、現状把握のための材料には成り得ません。冒頭、彼が追うべき謎は自分自身です。自分自身に降りかかった状況と2日間の失った記憶。それを解明することが最も優先すべき事項です。所持していた理由が分からない円筒印章が映し出した〈地獄の見取り図〉に、彼の失われた記憶を取り戻すヒントがあります。円筒印章の所持に記憶がないなら、この2日間に入手したことに間違いないからです。
しかし、ボッティチェルリの〈地獄の見取り図〉を見た時、純粋な好奇心と興味から精査しているようにも見えます。記憶を取り戻す目的を見失っていないにしろ、逃げることよりも〈地獄の見取り図〉の秘密を探ろうとしています。病院で命を狙われたにも関わらずです。いかにもラングドンらしいが。
彼らは〈地獄の見取り図〉の中に隠されていたメッセージを読み解き、次なる目的地を見つけ出しますが、そこに何があるのか全く予想させません。謎の先に彼の記憶があるかどうかも確約されたものではない。少なくとも記憶のない円筒印章の謎を辿れば、何かに辿り着くと考えているだけです。道はそれしかないが、先行きは全く見えません。
一方、隠された大いなる謎は一体何なのか。プロローグで語れていた言葉とラングドンの夢はどこに繋がるのか。なかなか見えてこない全体像がもどかしい。ラングドンの逃走が描かれる中で、大機構も描かれていきます。大機構の目的は一体何なのか。ラングドンの消えた記憶の中には、とても大きな事態に巻き込まれていたことが含まれています。
複雑な人間関係
ラングドンの行動は彼自身が選んでいるのではなく、シエナに誘導されている部分が多い。たまたまラングドンの治療に当たっただけでは説明出来ないほどの行動です。問題は、ラングドンが彼女の行動に疑問を抱かないことです。命を狙われて記憶もなく当てもないラングドンが、シエナを頼るのは分かります。しかし、シエナが命の危険を顧みずラングドンと行動を共にする理由が見当たりません。シエナには理由はありますが、ラングドンは疑問に思わなかったのだろうか。彼女の意思決定は、何を根拠に行われているのか。それは謎として残り続けます。重要な謎であり、鍵でもあります。徐々に明かされていくことになりますが、冒頭の彼女の行動は少し無理があります。
大機構とWHOの行動も謎に包まれた部分が多い。大機構に属する人間とWHOに属する人間の両方がラングドンに接触しようとします。大機構が悪で、WHOが正義という印象を持ってしまいます。大機構が銃撃も辞さない行動でラングドンを追うのに対し、WHOは世界機関だからでしょう。しかし、WHO職員であるジョナサン・フェリスがマルコーニ医師であったりと何が真実なのかが分からなくなってきます。組織間の関係性が明確にならないので、そこに所属する人々の関係性も分からなくなります。シエナの正体が明らかになり、大機構とWHOが手を組み、ラングドンは真実を知らされます。
状況が大きく変わったのは、大機構がゾブリストの真意を知り行動を変えた事です。そのことにより、ラングドンの置かれた立場も変わります。ラングドンの立場が変われば、彼と行動を共にするシエナの行動も変わります。シエナの動向が、人間関係と物語を複雑化させていきます。記憶のないラングドンにとって拠り所となるシエナが行動を変えれば、彼も変わらざるを得ません。人間関係の複雑さは、ラングドンの記憶がないことに由来しています。記憶がないことにより、彼自身と周りの関係性が明確にならない。明確にならない関係性は、常に揺らぎ続けます。
知識が求められる
冒頭に書いたように、かなりの知識を要求される小説です。謎を意味を知るためにも解き明かすためにも、知識がないとイメージが沸きません。発端はボッティチェルリの〈地獄の見取り図〉からです。ヴァサーリの描いたヴェッキオ宮殿の「マルチャーノの戦い」へと続き、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のダンテのデスマスクへと繋がります。謎を追い、フィレンツェの街並みを逃走しながら巡ります。ボーボリ庭園からピッティ宮殿。ヴェッキオ橋からヴェッキオ宮殿。いずれフィレンツェからヴェネツィア、イスタンブールへと道は続きます。謎を解き明かすヒントはダンテの神曲に隠されています。
ラングドンやシエナの台詞・思考を通じて、随所に解説されています。それでも知識がないと臨場感を味わえない。絵画であればどんな絵なのか。どんな宮殿でどのような歴史を刻んできたのか。彼らが逃走している経路はどのような場所で距離は遠いのか。物語の本筋に影響はないかもしれませんが、知識と教養のなさを感じます。
歴史と宗教と芸術と文学は、どれも密接に関わり合っています。特に宗教は切り離すことが出来ません。単体としての絵画や建築物を知っているだけでは十分ではありません。それらが織りなす関係性が重要です。その関係性が歴史を作ります。表面的な知識だけでは追いつきません。
人口問題を提起
世界の人口は加速度的な増加を示しています。本作はミステリー小説でありながら、現在世界が抱える人口問題を提起しています。日本にいると少子化問題がクローズアップされるので、人口増加がどれほど深刻な問題なのかが実感出来ません。しかし、掲載されているWHOのグラフを見ると末期的な症状です。現実のグラフを掲載するのではなく、文章で表現できなかったのかなと思いますが。さておき、人口問題は喫緊の課題だということは分かります。それを前提にしないと、ゾブリストの行動が理解出来なくなります。
では、ゾブリストは完全な悪だったのかという問題が残ります。人口問題が人類の存続を脅かすことを理解している人間は多い。特にWHOは理解しています。どんな行動を起こすことが正義なのでしょうか。少なくとも人類を減らす必要があります。医学の進歩により乳幼児や病気による死者の数は減っていきます。そうなれば出生率を下げるしかない。その有効な方策が見つからないのが現状です。人口減少へと世界の意思を統一することは不可能と言えます。最も悪なのは何なのでしょうか。実情を知っていながら行動を起こさないことです。起こせる行動を持っているのに関わらず。
ゾブリストは行動を起こします。その行動は間違っていたのかもしれません。しかし、行動を起こさないことが悪なのであれば、彼を完全な悪と呼べません。現実問題をフィクションに取り入れると、現実の感覚で判断してしまう部分が出てきます。
映画との違い
小説を映画化すれば、どうしても変えざるを得ない部分が出てきます。時間制約もありますし、映像と文章では表現の仕方が違います。「インフェルノ」は小説と映画で結末も変わっていますし、シエナの役割も変わっています。多くの事柄が変わっていますが、そのいくつかを書き出すと、
- 小説ではシエナはウィルスの蔓延を止めようとしているが、映画では逆である。
- 小説ではウィルスは解き放たれていたが、映画では阻止している。
- 小説ではシエナは死なないが、映画ではあっけなく死んでしまう。総監も同じ。
最も大きな違いはウィルスが解き放たれたかどうかです。映画では善と悪を明確にし、分かりやすくしたのでしょう。映画ではウィルスの正体は明確にされませんでしたが、殺人ウィルスという前提です。それを阻止するか解き放つか。善と悪の対立です。そうなれば悪の側に立つ人間が必要です。そのためにシエナの役割が変わった。どちらがいいかという問題ではないでしょう。文章と映像の表現の違いが、必然的に原作を変えた。原作を読まずに映画を観れば、それはそれで納得するストーリーなのだと思います。
終わりに
ヴェネツィアやイスタンブールも舞台になりますが、中心はフィレンツェです。読めば読むほど訪れたくなります。歴史があり、世界的な観光地です。予備知識なしで訪れても十分楽しめるでしょう。しかし、本作を読んで感じたのは、何事も知識を仕入れておく方がより楽しめるということです。登場する文学や芸術・宗教に造詣が深ければもっと本作を楽しめたのと同じように、フィレンツェを訪れるならば知識を仕入れてから訪れるべきでしょう。
ダンテの神曲を始め、登場する芸術作品や建築物の歴史をもっと知ってみたいと思わせる作品です。その後、もう一度読み返せば、また違う感想を持つかもしれません。