小川哲 著 『火星の女王』

ごきげんいかがですか。まんぱです。
まず最初に、『火星の女王』というタイトルに目が引き寄せらせます。何とインパクトのあるタイトルだろうと感じてしまいます。単純に考えれば、火星とそこを支配する女王のSF小説なのだと想像します。
ですが、ワクワクするような冒険譚でもSFファンタジーでもありません。リーダーがどのようにして人々の手で作られ、利用され、特別な存在になっていくのか。それを描いた現代社会の教訓のような物語だと思います。
世界は単純で正直に作られていないということが、読み進めるほどに伝わってきます。誰かの言葉には必ず裏があり、その人の立場による偏りが混じります。立派なリーダーは大衆に望まれて現れるものだと思っていたが、実は周りによる演出で支えられているのです。
本作は、そうした冷めた視点をベースにしているように感じます。その上に立って、火星という壮大な舞台を用意して、新しな物語を作り出したのだと思います。その結果、作品に緊張感を生み出しています。
全体として、とても丁寧に作られた物語です。話の進み方はスムーズで、設定も整理されているので、最後まで一気に読み進められます。ただ、分かりやすさがあるからこそ、気になるところも浮かび上がってきます。
今回の記事は、『火星の女王』の良いところと、もう少し踏み込んでほしかったポイントについて、私の率直な感想を書いていきたいと思います。
火星:厳しい環境のイメージと描かれる生活感
本作が「火星と地球の関係」を軸にして、他者との関係性をどのようにして構築していくのかを描いている作品だと思っています。壮大な舞台の中で、人間という小さな存在の在り様を観察しているのです。
地球から物理的にも精神的にも切り離された遠い場所「火星」。そこは逃げ場のない閉ざされた空間です。生き抜くことが第一であり、それ以外のことは生活の中においては雑音と言っていいのかもしれない状況です。人間の生に対する純粋な部分が浮かび上がってきます。
政治のやり方や人間関係の力の強さが骨組みの状態で見えてきます。骨組みが晒された世界で、一人の強力なリーダーが生まれるまでの手順を細かく再現しようとしています。
注目したいのは、作者が読者に提供する設定や情報の内容です。SF小説では宇宙船のエンジンはどう動くのかといった細かい科学的な説明にページが割かれます。
ですが、そうした説明をほとんどしていません。火星の建物はどうやって作ったのか、酸素や食べ物をどうやって確保しているのかといったデータで読者を疲れさせることはほぼ無いのです。
科学的・技術的な解説を最小限にすることは、展開をテンポよく進めるのにとても役立っています。難しい機械やデータの話で読み進めるのが停滞することがありません。一番大事な核心、つまり社会のルールがどう変わっていくかという流れを迷わずに追いかけることができます。読者を退屈させない、とても効果的なやり方だと思います。
ですが、このスッキリとした書き方には、少し気になるところもあります。火星の厳しさが、実感として肌で感じるほどには伝わってこないということです。
火星は、一瞬のミスが命取りになるような恐ろしい環境のはずです。そこで暮らす人々は、日々、生々しい死を見続けているはずだと思うのです。例えば、いつ空気がなくなるか分からないという不安や、水や食べ物が足りなくなることへの恐怖です。
それについても書かれていますが、実感としてあまり伝わってきません。火星で生き抜くという必死な暮らしが、ただの生活の記録という日常に収まってしまっているような物足りない感じがします。私自身の感受性の不足のせいなのかもしれませんが。
環境が厳しすぎるせいで人々の性格が変わってしまう。生き抜くためにギリギリの選択を迫られたりする。そんな場面がもっと多ければ、火星の緊張感はさらに高まったと思います。
地球と火星の争いについても同じことが言えます。両者が対立する構図は分かりやすいのですが、なぜそこまで激しくぶつからなければならなかったのかといういきさつが少し物足りないように感じます。
考え方が違うことや、火星の人々が独立して自由になりたいという気持ちは分かります。ですが、どうしても避けられないものだったのかどうか。そこを納得させるだけの詳しい背景がもう少し欲しかった気がします。
地球の政治家が裏で何を企んでいたのか。大衆がどう思っていたのか。そうした階層ごとの考え方の違いがあまり描かれないため、物語が少し整いすぎているように感じます。
舞台は広い宇宙ですが、とてもコンパクトにまとめられていたなという感想が残ります。大きな歴史の転換点を描いているというよりは、冷静に進められる知的なパズルに近い印象です。
火星の重苦しさや不気味さがもっと生々しく伝わってきたら、本当に存在する世界として想像できたのだと感じてしまいます。
女王と登場人物:分かりやすい役割
登場人物たちは、とてもきれいに役割分担されています。「この人はこういう考えの人」「この人はこういう役割」ということが、驚くほどはっきり決められているのです。誰が何をやりたくて動いているのか、誰が味方なのかをだいたい理解することができます。
この分かりやすさは、読み進めやすい理由になっています。ややこしい話を迷わせずに読ませる強い推進力になっているのです。
「女王」という言葉が一人の女性を指すだけでなく、大衆が信じている象徴へと姿を変えていく様子はとても計算されていて見事です。場面の切り替えもスムーズですし、新しい情報が出てくる順番も退屈しないように配置されています。
読者は物語の勢いに乗ることで、知的なパズルを解くような楽しさと一緒にエンディングまで一気にたどり着くことができます。
スラスラ読めることは、小説にとって大事な要素です。登場人物たちの悩みも筋の通ったものばかりだと思います。ですので、彼らの行動に納得しながら、行く末を見守ることができます。混乱させないために、あえて余計な感情の爆発や演出を抑えた結果だと思います。
一方で、あまりにも設定が完璧すぎると、人間の不合理な行動が消えてしまうこともあります。登場人物たちが自分の決まった役割をしっかり演じれば演じるほど、彼らの行動が物語のための決まったルートをなぞっているだけに見えてしまう瞬間もあるのです。
「ここでこうなるのだろうな」という期待どおりの展開がぴったりのタイミングで現れます。それは物語の美しさですが、「まさかこんなことをするなんて」という予想外の驚きは少なめです。
登場人物が勝手に動き出して、作者が止めたくても止まらないくらい暴走してしまう。そんな得体の知れないエネルギーが、整った設定と展開の後ろに隠れてしまっているように感じます。監督が配置した登場人物が、台本から外れることがない優秀な役者のように見えてくるのです。
想定外のトラブルも、まるで精密な機械の部品がピタッと重なるように解決していきます。あらかじめ決まっているような安心感がありますがドキドキする緊張感は少なめです。
狙ってこのやり方を選んでいるのだと思います。激しい感情で物語を動かすのではなく、理屈の積み重ねで物語を組み立てていく。登場人物を一つの考え方の見本として扱うことで、人間社会の仕組みを分かりやすく見せているのだと思います。
ですが、計算が見えてしまうと、物語に入り込むのではなく完成されたきれいな箱庭を外から眺めているような気分になってしまいます。登場人物の心の底からのセリフというより、その組織を代表した意見に聞こえてしまうのです。彼らの生きている温かさではなく、機械が動くような冷たさを感じてしまいます。
この完璧な流れの中に、理屈では説明できない行動を突き通す人がいたら。正しい理屈をめちゃくちゃにしてしまうような熱い気持ちが描かれていたら。もっと違う景色を見せてくれたかもしれません。
人間らしい雑音をあえて消していることが、本作の持ち味であるクールな頭の良さなのかもしれませんが少しだけ物足りなさも残ります。
小さくまとまっていく物語

火星と地球をまたにかけた大きな設定ですが、最後に描き出すのはとても個人的な選択です。何万人もの人が歴史の渦に飲み込まれるような壮大な結末には思えません。特別なリーダーが生まれる瞬間をじっと観察するような小説です。
大きなキャンバスを用意しておいて、あえて筆の先で小さな一点を細かく描くような筆致です。物語の中身を濃くしているのも事実なのは否定しません。物語は宇宙の遠くへ行くのではなく、心の中や社会の仕組みの奥深いところへと入っていくのです。
宇宙の果てまで行くような長い冒険譚ではありません。リーダーという存在がどうやって作られていくのか。作られたストーリーというものがどうやって本当のことを塗り替えていくのか。そこに焦点を当てています。目的がはっきりした展開が緊張感を与えているのも事実だと思います。
火星と地球の争いをあえて詳細に描かないのも意図的なのかもしれません。特定の歴史の話にしないことで、我々の社会にも当てはまる例示になります。
現代社会のSNSでの盛り上がりや印象だけで決まってしまう政治。私たちの周りにある仕組みを、火星という遠い場所を使って描き出しているのだと思います。その意味では、我々に対する鋭い意見を提示しているのだと言えます。
一方で、火星での暮らしぶりをもっと詳しく見てみたかったという気持ちもあります。地球の大衆が、どんなふうに火星を見ていたのか。色々な人の考え方も描いてほしかった気もします。物語が寄り道をしたり、本筋とはあまり関係のない人の話があまりなかったことで無駄なく結末へ向かいます。その分、世界の広がりが少し小さくなっています。
結末に向かって物語の道筋が絞られていき、女王の存在に焦点が当たっていきます。まとまっていく過程はきれいですが、もっと不合理で泥臭い道のりもあったのではという気持ちにもさせられます。
物事が収束してまとまっていくのは、それが現実の姿だからかもしれません。結局は個人の勝手な目的や数人の話し合いで決まってしまう。その皮肉な現実を冷たい目で見つめているのだと思います。火星であっても、人間は物語を作って信じ込むという性質からは逃げられない。そんな事実を突きつけています。
本作は、読者を安心させてくれるような作品ではありません。むしろ、きれいに整った物語そのものを疑わせるものなのかもしれません。整っている心地よさに浸りながらも、きれいにできている展開に少しだけ怖くなっていく。美しさと怖さが同時に存在していることが魅力なのでしょう。
ハッピーエンドで終わったからといって、すべてが解決したわけではありません。自分の生活の中で新たに考え始めることが出てきます。
私たちは今、誰をリーダーに選んでいるのか。どんな怪しい話を信じ込まされているのか。その問いが頭の中で響き続けることこそが、私たちに与える一番の衝撃だと思います。
終わりに
『火星の女王』は壮大な宇宙叙事詩ではなく、精密に設計された教訓です。登場人物は明確に配置され、物語は迷いなく進んでいきます。読みやすさは分かりやすく、構造の美しさは心地よい。
一方で、火星の過酷さや地球との対立の歴史的な厚み、人物の予測不能な行動をもっと見てみたいという思いも残ります。舞台の大きさに比べて、物語が小さく感じられる瞬間もあります。
整然とした物語の奥に潜む不穏さをどのように感じ取っていくのか。読者はその技量を求められているのかもしれません。
