『ザ・バットマン』考察|画面が暗すぎる!泥泥なリアリズムに狂気を見た。なぜリドラーの恐怖はヒース・レジャーに及ばないのか:MANPA Blog

ロバート・パティンソン主演 『ザ・バットマン』

ザ・バットマン

ごきげんいかがですか。まんぱです。

アメコミ映画の歴史のなかで、バットマンというキャラクターは常に時代を映す鏡でした。そして、監督の個性をハッキリと映し出す映画でもあります。

ティム・バートン監督が作ったゴシックでファンタジーな世界観から、クリストファー・ノーラン監督がたどり着いたリアルで重厚な犯罪サスペンスまで、その変化は多くの観客を魅了し続けてきました。

そんななか、マット・リーヴス監督の『ザ・バットマン』は、大きな評価を得る一方で、これまでの作品とあまりにも違うため、賛否両論がありました。

私にとってバットマン映画の最高峰である『ダークナイト』を主な比較対象にしながら、本作が提示した新しい世界観の魅力や「バットマンらしさ」の核心について、考察してみたいと思います。

 

THE BATMAN-ザ・バットマン-(吹替版)

THE BATMAN-ザ・バットマン-(吹替版)

  • ロバート・パティンソン
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画面の闇と、引きこもりブルースの歪み

『ザ・バットマン』を観たとき、誰もが最初に圧倒されるのは、スクリーンを包み込む徹底的な暗さでしょう。

ゴッサム・シティの夜の闇は、これまでのどの作品よりも深く、重く、息苦しいものです。バットマンが夜を徹して活動する以上、画面が暗くなるのは当然です。

しかし、本作は、そのリアルさを限界まで突き詰めています。時には何が起きているか見づらいと感じるほどですが、その映像表現は単なるビジュアルのこだわりにとどまりません。

街全体に広がる退廃と絶望を、そのまま形にしたものだと言えます。じっと見入るうちに、観客をその暗闇の奥深くへと引きずり込んでいくような、独特の没入感を生み出しているのです。

この映像の暗さとぴったり重なっているのが、主人公ブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)のあまりにもダークで歪んだ精神性です。

これまでの映画に出てくるブルースは、昼間は華やかな大富豪やプレイボーイとしての仮面を被り、夜は闇の騎士になるという、2つの顔の使い分けが強調されてきました。

本作のブルースに、そんな器用さはまったくありません。彼は巨大な屋敷に引きこもり、日の光を拒み、他人との関わりを極端に避けて、自分の殻にこもり続けています。

幼い頃の悲劇によるトラウマや心に抱える狂気のような葛藤、そして復讐心だけで動く彼の姿は、私たちがよく知る「正義のヒーロー」とはかけ離れています。

観ていて痛々しいほどの陰気さが、とても際立っているのです。

ブルースの未熟さと異常さは、アメコミ映画というジャンルの色を完全に消し去り、一本の重みのある心理ドラマへと変えています。

ノーラン監督の『ダークナイト』のブルース(クリスチャン・ベール)も深い苦悩を抱えていましたが、彼はゴッサムのために自分の役割を理解し、理性と社会的な立場を使って戦っていました。

それに対して本作のブルースは、子供の頃の心の傷を癒やせず、夜の街で暴力を振るうことで自分の存在を証明する、精神的な迷子として描かれています。

ヒーローらしからぬ重すぎる精神性こそが、本作に新鮮な衝撃を与えると同時に、評価が真っ二つに分かれる最大の理由になっているのかもしれません。

 

弱さと執念の探偵劇、唸るバットモービル

ごきげんいかがですか。まんぱです。

もう一つの大きな特徴は、ストーリーの軸が派手なアクションではなく、地道なミステリー(探偵小説)に置かれている点です。

原作のマンガで、バットマンは「世界最高の探偵」と呼ばれていますが、これまでの映画ではハイテクな武器を使った戦闘や派手な活躍が目立ち、推理のシーンが前に出ることは少なめでした。

『ザ・バットマン』では、ヴィランである連続殺人犯リドラーが残した謎や暗号を解き明かすため、警察の鑑識と一緒に現場に立ち、証拠を調べ、論理的な推理を積み重ねていく姿が描かれます。

この展開は、上質なサイコサスペンスや刑事ドラマを観ているような感覚になります。ミステリーを重視したアプローチは、当然ですが映画全体のテンポや爽快感に大きな影響を与えています。

アメコミ映画らしいすっきりとしたカタルシスや、敵をいっきになぎ倒す派手な戦闘シーンを期待していた人にとっては、じわじわと進む捜査パートの長さが、退屈さや物足りなさとして映ったかもしれません

ヒーローとしてのシンボル的な姿をアピールするのではなく、事件を追う人間の執念を描く物語は、作品のムードを引き締め、これまでのシリーズにはない独自の魅力を放っています。

その一方で、エンターテインメントとしての評価を分ける二つ目の原因にもなっています。

圧倒的な強さの排除も、リアルさを際立たせています。今回のバットマンは、無敵の存在ではありません。殴り合いでは容赦なくパンチを食らい、痛みに顔を歪め、銃撃戦では防弾スーツに頼ります。

高いところから空を飛べば、着地に失敗して激しく地面に叩きつけられるなど、その戦い方はどこまでも泥臭く、常に死と隣り合わせの緊張感が漂っています。

圧倒的ではない強さは、キャラクターへの共感や緊張感を生みます。一方で、洗練されたアクションを見せた『ダークナイト』などと比べたときに、爽快感に欠ける原因にもなっているのです。

その泥臭いリアルさの中で、圧倒的な存在感を放ってくれるのが、本作に登場する「バットモービル」です。

これまでの作品のバットモービルは、特殊な軍用車両やハイテクな機能がつまった車が多かったのですが、本作は違います。

マッスルカーをベースにブルース自身がガレージで鉄板を溶接して作り上げたかのような、荒々しく武骨な姿をしています。このマシンの魅力が爆発するのが、中盤の激しいカーチェイスのシーンです。

エンジン音は野獣の遠吠えのように響き渡り、障害物を文字通り粉砕しながら突き進むタフさは、歴代の車のなかでも、ダントツの破壊力と実用性を誇っています。

圧倒的なカーチェイスは、アクションが控えめな本作において、唯一無二の満足感をもたらしてくれる見ごたえ十分な名シーンです。

 

現実のテロリストか、純粋な混沌か

バットマン映画の完成度を左右するのは、いつの時代もバットマン自身と同じか、あるいはそれ以上に魅力的な「悪役(ヴィラン)」の存在です。

本作の黒幕であるリドラーは、ゴッサム・シティの腐敗した権力者たちを次々と血祭りにあげ、その様子をインターネットで拡散して、社会を混乱させるテロリストとして描かれます。

SNSを使って自分の支持者を煽り、狂信的な集まりを作っていく姿は、現代的な社会の闇をリアルに反映しており、観ていて背筋が寒くなるような恐ろしさがあります。

彼はファンタジーの世界の住人ではなく、私たちの現実世界のすぐ隣に潜んでいるかもしれないという、強いリアリティを持った悪役です。

その完成度の高さを認めつつも、やはり私の心の中で不動の地位にある『ダークナイト』のジョーカー(ヒース・レジャー)と比べたとき、決定的なインパクトの差を感じずにはいられません。

ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、動機も目的もわからず、ただ世界がめちゃくちゃになるのを見て楽しむという「純粋な混沌」そのものでした。

彼の圧倒的なカリスマ性と画面に登場するだけで空気が凍りつくような狂気は、映画の枠を超えて観客の頭から消えないショックを植え付けるほどの破壊力を持っていました。

リドラーが「現実的な格差や恨みから生まれた悪」であるのに対し、ジョーカーは「人間の心の奥底に潜む本質的な闇」を形にした存在です。

そのカリスマ性と物語に与えた衝撃の大きさにおいて、やはりジョーカーの壁はあまりにも高かったと言わざるを得ません。

リドラーというキャラクターが描いた現代性は、十分に評価されるべきです。マット・リーヴス監督が目指した現実志向の世界観には、これ以上ないほどぴったり合っていました。

しかし、魅力という点においては、どうしても『ダークナイト』のジョーカーが放っていたあの凄まじい引力には及ばなかったというのが、私の率直な感想です。

 

おわりに:それでも私は『ダークナイト』に帰る

『ザ・バットマン』は、全体を包み込む徹底的な暗さ、ヒーローらしさを限界まで削ぎ落としたストーリー構成、社会の病理を映し出すリアリズムによって、これまでの枠組みを大きく超えた挑戦作です。

シリーズの新しいアプローチとして、これまでにない新鮮な感動を味わえたことは事実であり、その独創的な試みには深い敬意を表したいと思います。

しかし、さまざまな要素をよく考え、何度も思い返したうえでなお、私の中で「一番のバットマン映画は何か」と問われれば、答えはやっぱり『ダークナイト』になります。

映画における「らしさ」や完成度の定義は、観る人の数だけ存在します。私にとってのバットマン「らしさ」とは、ノーラン監督のダークナイトの姿にありました。

時代が変わり、新しい解釈のバットマンが誕生しても、ヒース・レジャーのジョーカーと渡り合い、夜の闇へと消えていったノーラン監督のバットマンが、最高の映画体験として残り続けています。 

 

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