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『ある男』:平野 啓一郎【感想】|愛したはずの夫はまったくの別人だった

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 こんにちは。本日は、平野 啓一郎氏の「ある男」の感想です。

 

 2019年本屋大賞第5位。過去が人を形作るならば、人を愛することは積み上げてきた過去も含めて愛することになります。偽りの過去であったならば、現在の愛はどうなるのか。そもそも愛の対象とは一体何なのか。現在だけでは駄目なのだろうか。

 偽りには二種類あります。偽りの過去自体と偽られた行為そのものです。それらの真相を知るために、里枝は城戸に依頼します。

 相手が生きている間は、その人に対して愛を抱いていればいいだけです。では、いなくなった後は何を支柱に愛し続けるのだろうか。過去が偽りだったことで、大祐(と名乗っていた男)に対し抱く感情が分からなくなります。里枝の愛がぼやけてきます。

 ミステリー要素を含みながらも、人として生きていくことの辛さや苦しみを描いています。死と生、死刑制度、家族の在り方など多くの要素が詰め込まれます。それでいて読みやすい。単なる恋愛小説ではありません。 

「ある男」の内容

彼女の夫は「大祐」ではなかった。夫であったはずの男は、まったく違う人物であった…。【引用:「BOOK」データベース】 

 

「ある男」の感想

することと過去を知ること

 誰かに愛情を抱く時、それぞれが生きてきた過去は重要です。里枝は大祐と名乗っていた人物を好きになります。店に来た時の態度や会話など、現在感じていることで好意は形成されます。現在は過去からの積み重ねの結果です。好きになれば過去を知りたくなるのは当然の感情です。大祐の過去を知っていくことは人生を共有することと同じであり更なる愛情と理解を生みます。

 過去を知らなくても愛は形成されます。大祐は過去を詳細に語りますが、あまり語らない人もいます。それでも愛は形成されるのだから、過去は一要素に過ぎないと言えます。過去を知ったことで壊れる愛情もあるかもしれませんが、全てがそうではありません。大祐の問題は過去を偽っていたことだと思います。不信感を生み、愛自体も偽っていたのではないかと勘繰ってしまいます。

 里枝は愛が真実であったことを信じたい。そのためには大祐の真の過去を知り、偽った理由を知る必要があります。大祐の愛が偽りでないことを突き止めなければなりません。望ましくない過去だから現在を愛せない訳ではありませんが、過去に大きな傷や負い目を持っている者にとっては切実なのだろう。 

 里枝も過去は恵まれていません。息子の死と父の死。父の死は早いですが、親から順番に死んでいくのは自然の流れです。だからこそ、息子に死の辛さが伝わってきます。

 大祐は里枝の過去に共感し、それも含めて愛してくれたはずでした。里枝はそう信じていました。里枝も同様に大祐の過去も含めて愛しています。過去の偽りは裏切りであり、里枝の過去に共感してくれたことも偽りになってしまうかもしれません。愛することに過去は重要です。しかし、唯一絶対のものではないと思うのは、辛い過去を経験したことがない者の気楽な考えだろうか。

 偽りの理由が納得できるものであるならば愛は消えず、そうでなければ愛は消滅してしまうのだろうか。

 

人の人生を生きる

 何故、戸籍を交換し過去を捨てるのだろうか。望ましくない過去が、現在の自分の評価に悪影響を及ぼすからだろう。人格や性質は生来のものと環境が影響します。どちらが大きいかは別にして、両者が影響することで人は形成されます。望ましくない過去は隠したいし、隠しきれない場合は捨てるしかありません。

 他人の人生を生きることで、現在の自分が変わる訳ではありません。他人の見る目が変わるだけです。しかし、他人の目も環境の一部であり、望ましくない環境を変えるために過去を変える選択肢もあるのだろう。

 元死刑囚の子供に罪はないのは当然ですが、周りの人々の感情はそれほど単純ではありません。殺人は遺伝しないことを誰でも分かっているのに、その子供に対する視線は厳しい。大祐が生きる辛さを味わうのは筋違いですが、それが現実です。起こった過去は変えられないから隠し通します。決して簡単なことではない。そもそも自分自身に対して隠すことはできません。常に殺人者の息子と自覚しながら生きていくことになります。

 大祐が戸籍を交換した理由は、もちろん殺人者の息子の過去を消したいからです。しかし、交換できる戸籍も幸せなものはないだろう。幸せな過去なら、誰もが手放さないはずです。

 父の死刑は執行されています。父はどのような思いだったのだろうか。殺人を擁護できる訳はなく言い訳もできません。だからこそ死刑の判決が下された。擁護できない過去の一部を宿命的なものとして背負わされます。

 過去を捨て、新しい過去を上書きすることでようやく心の安定が得られたのだろうか。里枝に対し他人の過去を詳細に語ったのは、細部に至るまで上書きしないとならなかったからだろう。大祐が過去を語った時には、すでに大祐の過去として昇華されていたのかもしれません。

 

戸が見ていたもの

 城戸の現在の生活は概ね順調です。彼が在日であることも、生活を脅かすほどではありません。直接的な被害をあまり受けていないから、それほど気にしていないのだろう。被害を受けないように注意を払っていますが。それでも意識せざるを得ないのは、現実的な問題になる可能性があり、理不尽な差別だとしても止められないからです。だからこそ妻にとっては極めて現実的な問題です。

 城戸は在日であることにどのような感情を抱いているのか。自身のルーツを自覚し認めているが共に生きていく覚悟があるのかどうか。

 城戸が大祐の過去を調査するのは依頼を受けたからですが、それ以上に自身が興味を抱いたからです。過去を捨て新しい過去を手に入れることで、人は違う自分になれると感じたのだろう。違う自分になりたい理由は現在の自分に満足していないからです。夫婦間の違和感や倦怠期は、お互いを理解しようとする努力を失わせます。距離を取り面倒から目を逸らします。

 要因は城戸のルーツだろうか。仕事だろうか。自然発生的なものだろうか。夫婦の関係性は一言では言い表せません。少なくともお互いに不満を抱いているのは分かります。城戸が大祐を通して見ていたものは、新しい世界・違う世界・違う自分への憧れです。美涼は新しい世界への象徴として存在しています。

 大祐が過去を入れ替えたことで幸せを掴んだとすれば、城戸は大祐を通じて過去を入れ替えた自分を投影していたのだろう。城戸は捨て去らねばならないほどの過去を持っていると思えませんが。

 美涼を見て、大祐を見て、里枝を見て、妻を見ます。城戸の結論は、何も変えず妻との生活を続けることです。ただ、妻と上司の関係(明確に示されていないがほぼ間違いなく関係はあるだろう)を知りながら見ない振りをすることは何故だろうか。城戸の生活は欺瞞の上に成り立つことになります。

 里枝と大祐の関係には過去の欺瞞があります。城戸の今後の生活も同様です。それでも幸せなのだろうか。関係が改善したからと言って、全てを信頼し愛情を抱くことができるのだろうか。

 大祐の正体が分かり、里枝の幸せは維持されます。城戸の今後は微妙で、幸せに辿り着けるのだろうか。割り切れない感覚を抱きます。

 

終わりに

 「ある男」とは誰のことだろうか。

 城戸から見れば大祐のことであり、読者から見れば城戸です。生きてきた過去が、現在の人生に与える影響の大きさに気付かされます。人を愛する時に、過去がどれほど重要なのか。過去が違った時、愛情を維持できるのか。

 隠したい過去と隠さなければならない過去は必ずしも一致しません。大祐が原誠として里枝と出会い、彼の過去を知った時、果たして彼女はどのような行動を取っただろうか。里枝の行動が同じだとすれば、愛情は過去に影響されません。きれいごとですが、そうであって欲しい気がします。