こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「AX」の感想です。
「グラスホッパー」「マリアビートル」に続く、殺し屋シリーズの第三弾。シリーズといっても物語が直接的に繋がっている訳ではありません。前二作の登場人物も物語の中で登場する、緩めのクロスオーバー作品です。
殺し屋の物語なので、人は死んでいきます。それでも恐ろしさは感じない。あまりに淡々と殺しているからだろうか。伊坂作品は人が死ぬことが多いが、死そのものの恐怖を感じることは少ない。圧倒的な悪の恐怖が登場することはありますが。
主人公は、恐妻家の殺し屋「兜」です。凄腕の殺し屋であり、まさしくプロです。殺し屋シリーズに登場する殺し屋たちは「超一流」のプロばかりですが、兜はプロの恐妻家でもあります。恐妻家にプロがいるのかどうかは分かりませんが、彼は極めています。その二面性が面白い。依頼を受ければ、プロとして感情を抱かず殺す。一方、妻の言動には敏感過ぎるほど反応します。一人の人間に二面性があることは不思議ではありません。
面白いだけでは終わらない。切なさもあり、結末は心に響きます。
「AX」の内容
「兜」は超一流の殺し屋だが、家では妻に頭が上がらない。一人息子の克巳もあきれるほどだ。兜がこの仕事を辞めたい、と考えはじめたのは、克巳が生まれた頃だった。引退に必要な金を稼ぐために仕方なく仕事を続けていたある日、爆弾職人を軽々と始末した兜は、意外な人物から襲撃を受ける。こんな物騒な仕事をしていることは、家族はもちろん、知らない。【引用:「BOOK」データベース】
「AX」の感想
プロの殺し屋
プロの殺し屋の条件は、依頼された仕事を確実に遂行することだろう。方法や過程は問題ではないかもしれません。前二作に登場した殺し屋たちは、バラエティに富んでいて個性的でした。
一方、「兜」の仕事に特徴的なところはありません。蝉や鯨や押し屋ほど独特の手法を持っていない。それでいて超一流なのは分かります。檸檬や蜜柑と対等に会話していることからも伺える。実際、美人教師を何の感情も抱かず殺して排除します。死体の処理を医師に依頼する姿は手慣れたものです。経験と能力を伺わせます。
殺し屋に最も重要なのは冷静さと決断力だろう。時期を逸せずやるべきことをする。感情を挟めば、一流と言えないだろう。兜は多くの仕事を的確にこなしてきました。だからこそ、医師は兜を引退させないし解放しません。優秀な人間ほど手放してくれないものです。
兜以外の裏社会の人間も登場します。爆弾テログループは一流ではないだろう。グループの一員の美人教師は、兜に瞬殺されます。そもそもグループは殺し屋ではないので、殺すことに関しては太刀打ちできない。
兜は一流だからこそ、即座に相手の力量を把握できる。見た目がパッとしなくても、手強い相手は瞬時に把握します。殺し屋はあまり多く登場しません。「グラスホッパー」や「マリアビートル」のように殺し屋たちが入り乱れることはありません。
- グラスホッパーは、殺し屋たちに一般人が関わってしまうことの恐ろしさ
- マリアビートルは、殺し屋同士の恐ろしさ(王子という別次元の恐ろしさもあったが)
どちらもプロの殺し屋の恐ろしさが伝わりました。兜の淡々とした仕事振りは別の意味で恐ろしい。彼の仕事に対する意識はすでに引退に向かっています。それでいながら、医師から受けた仕事は確実にこなす。感情と仕事を分離できるのがプロなのだろう。
プロの「恐妻家」
恐妻家にプロがあるのかどうかは分からない。しかし、兜の行動を見ると、恐妻家を極めているとしか思えません。また、彼はどこか楽しんでいるようにも見えます。滑稽に見えるほど徹底しています。
物語冒頭のエピソードで、兜の恐妻家振りが伝わってきます。兜と檸檬と蜜柑の会話です。深夜帰宅の心得というものだろうか。機嫌が悪くなるから、先に寝た妻を起こさない。まあまあ普通のことと言えますが、彼の行動の徹底振りに驚きます。
- 妻を起こさないように細心の注意を払う。
- カップラーメンですら危険で食べられない。
これは何となく分かります。すする音は意外と響きます。しかし、おにぎりやバナナも選ばない。なぜなら、妻が作った夜食(めったに作らないが)に備えなければならないからです。食べれない場合のことを考えて日持ちのしないものは選ばない。先を予測して動く兜の周到さに感心します。これこそがプロの恐妻家なのだろう。
行きつく先が「魚肉ソーセージ」です。これには思わず笑ってしまいます。魚肉ソーセージがプロの恐妻家のシンボルのように扱われていることも面白い。そこまでして夜食を食べる必要があるのかどうかですが、一仕事終えた後の空腹には耐えられないのかもしれません。
ここまでの恐妻家でありながら、兜は妻のことを愛しています。愛しているからこその行動だと思えば、兜には気の毒だが恐妻振りは微笑ましい。
家族の存在と罪の意識
「グラスホッパー」「マリアビートル」に登場した殺し屋たちは、金のためでもありながら金のためだけでもない。自身の仕事に美学を持っています。もしくはやり遂げることに自身の存在価値を感じています。
金のためだけに人を殺し続けるのは難しいのだろう。人は金で動くが、動き続けるには信念が必要です。もしくは、信念も何も持たずに機械的に動くことも一つの方法かもしれませんが。
兜が殺し屋として働いてきたことは金のためか信念のためか。明確には描かれません。しかし、家族ができ、子が生まれることで、殺し屋として生きることに疑問が出てきます。疑問は想像することから生まれます。
もし、自分が殺されたら家族はどうなるのかと想像する。自分の仕事のために、家族に被害が及ぶかもしれないと想像する。その想像を相手に重ね合わせてしまい、殺すことに疑問と躊躇が生まれます。自分が受けたくない状況を相手に負わせることを考えれば、自然と罪の意識に繋がります。
兜にとって、妻と息子は何としても守らないといけない大事な存在です。殺す相手も同じ境遇だと考えると、殺し屋から足を洗いたくなるのも当然だろう。
裏社会から足を洗う
裏社会から足を洗うことの難しさが、本作の根底に流れています。抜け出すことは家族のためだが、そのために仕事を続けなければならないという袋小路に陥っています。兜は仕事をしながらも、裏社会から抜け出すことを常に考えます。家族のためだからこそ、消えない思いです。しかし、医師に逆らえず、冷静な判断もできません。
裏社会は入るのはそれほど難しくないのかもしれないが、生き残っていくことは難しい。抜けることは最も難しい。抜け出す最短の道は死ぬことだろう。生き残るほど優秀さを見せることになり、さらに抜け出せなくなっていきます。組織は優秀な人材を手放さない。生き残ることと抜け出すことは両立できないだろう。
しかし、どれほど優秀でも、組織を相手に勝てません。円満に引退できないなら、一生逃げ続けることになります。一人なら可能かもしれないが、兜には家族がいます。だからこそ、医師に頼るしかない。
それでも、兜は引退することを宣言します。組織を相手に家族を守り続けなければなりません。途方もない決断です。しかし、兜は晴れやかさを感じます。不安はあるが、精神的な拘束から逃れたからだろう。結果として組織から抜け出すのに「死」を選ぶことになりますが、その死は決して絶望的なものではありません。彼が変わったからだろう。
終わりに
本作は、連作短編集です。「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「Fine」の5つの章で構成されています。「EXIT」「FINE」は書きおろしです。この2編がなければ、単なる恐妻家の殺し屋コメディに感じたはずです。「EXIT」「FINE」があるからこそ、家族の絆や繋がりが伝わってきます。
結末は、兜が望んだ形ではありません。しかし、バッドエンドではない。切なくて苦しくて悲しいが、それでも幸せのかけらがあります。
前半は面白いことがメインでしたが、後半はヒューマンドラマになっていきます。読後には、心に温かいものが染み込んできました。