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『ファーストラヴ』:島本理生【感想】|彼女たちは救われたのだろうか

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 第159回直木賞受賞作。恋愛小説をイメージさせるタイトルながら、帯には「なぜ娘は父親を殺さなければならなかったのか?」と書かれています。一体、どのような内容の小説なのか気になっていました。直木賞を受賞した話題性もあり、期待感が高まります。

 読後の第一印象は、人の心の闇の深さを突き付けられたという思いです。父親を殺した聖山環菜の心に潜む闇だけでなく、彼女の心を解き明かそうとする真壁由紀が抱える心の闇。庵野迦葉の心の闇。彼女たちは何故、心に傷を負ったのか。幼少期から大人になるまでの心の形成期に、彼女たちはいかなる負荷をかけられたのか。聖山環菜の心に潜む闇に迫る過程で描かれる真壁由紀の過去が、物語に重い印象を与え続けます。 

「ファーストラヴ」の内容

なぜ娘は父親を殺さなければならなかったのか?多摩川沿いで血まみれの女子大生が逮捕された。彼女を凶行に駆り立てたものは何か?裁判を通じて明らかにされる家族の秘密とは?【引用:「BOOK」データベース】 

「ファーストラブ」の感想

待と形成

 幼少期から10代前半にかけての未成熟な子供は、あらゆる意味で脆くて弱い存在です。肯定的な言い方をすれば多感と言えるかもしれません。しかし、多感の裏側には、感じたくないこと・受け止めきれないことまでを感じてしまうことも意味します。大人であれば折り合いをつけ消化できる程度のことであっても、子供には出来ない。大人であれば許容できることが、子供には出来ない。だからこそ、家庭で子供を育てることは難しいし、正解はないのかもしれません。

 ただ正解がなくても、子供を育てることに必要なことは分かります。それは愛情でしょう。愛情で全ての問題が解決する訳ではないし、歪んだ愛情も存在します。愛情だけで子供が真っ直ぐに育つとも限りません。 

真っ直ぐの意味もなかなか定義しづらいですが 

 しかし、両親からの無償の愛情を受けてこそ、子供は迷わず生きていけるのだと思います。幼少期の子供にとって家庭は世界の大半であり、両親は大人の象徴です。依存せずに生きていくことは出来ないし、見捨てられる訳にもいきません。そのことが子供の逃げ道を塞ぎます。聖山環菜に対する虐待は、疑問の余地の挟むことのない虐待に当たるのでしょう。彼女にとって、裸の男性と一緒に行うモデルや美大生との接触は明らかに不快であり耐え難い仕打ちであったはず。しかし、彼女はそのことを直接的に両親に訴えなかった。そこには多くの理由がある。

  • 母親と父親の関係。
  • 環菜に対し無関心を装う母親。
  • 誰も気付いてくれない自身の心。

 両親に見捨てられる訳にはいかないという思いが虐待を受け入れざるを得なくなる。そうなれば、自身の心が壊れるのを防がなければなりません。自己防衛とも言える彼女の行動が、自身の本当の心を封じることだった。心の奥底に沈めてしまい、もはやその心が存在しないと思うこと。それが彼女が取り続けた行動です。そのことが虐待を防ぐことから遠ざかることになってしまうにしても、彼女はそのように形成されてしまったのでしょう。子供にとっての自己防衛の方法は選択するものではなく、追い詰められて自然と行き着く場所なのかもしれません。そして行き着く自己防衛の方法は、不幸に向かうことになる。現実的で生々しい選択です。 

 積み上げられていく虐待は、彼女の精神を蝕んでいきます。そこで彼女が選んだ逃避が自傷行為です。実感として、自傷行為が精神的な安定に寄与する理由が分かりません。そこに行きつく過程を論理的に理解することは出来ます。しかし、自傷行為が及ぼす影響を実感できない。私に想像力がないのか。それとも、理解出来ないこと自体が幸せな証拠なのだろうか。

 彼女は、モデルからの逃避として自傷行為を行います。そこには目的があり、その方法としての自傷行為です。不幸な方法ですが、彼女の行動は理解出来ます。ただ、それを実現した後も自傷行為は止まない。彼女にとっての自傷行為の意味を真に理解することは、私には無理でしょう。読者の中には理解できる人も大勢いるのかもしれません。共感という意味で理解できるのであれば、とても悲しい現実と言えますが。現実に虐待のニュースは無くなることがありません。

  • 死に至るほどの暴力を与えられる子供。
  • 性的な虐待。

 身勝手な親は、それを躾けと呼びます。先述したように、子供には逃げ道がありません。虐待から自分自身を守る術を持たない。そうなれば自身の心を封じて服従・従属するしかない。本作における環菜の置かれた状況は、性的虐待としては特異です。しかし由紀を始めとする周りの大人は、彼女の置かれた状況を性的虐待だと迷うことなく断言しています。

 虐待から逃避しようとした時に、これほど心は歪んでしまうのか。そのことに我々は気付かなければならない。現実に虐待が無くならないのであれば、それに気付き逃げる場所を用意しなければならない。間違っても心の奥底に自分自身を逃避させることをさせてはいけない。 

がもたらすもの

 環菜の心の闇がもたらしたものは、一体何だったのだろうか。父親に対する異常な恐怖心だろうか。自傷行為でしか安定しない心の不安定さだろうか。嫌われないように、自身を殺して周囲に合わせ続けることだけを考えていたことだろうか。

 その全てが合っていて、違ってもいるのだと感じます。彼女の心の闇は、彼女自身には何ももたらさない。彼女の本当の心を覆い尽くし、彼女が感じるべき人生の喜びや充実・楽しさの全てをただ奪うだけだったのでしょう。心に形成された闇は無くなることはない。闇が何ももたらさないのなら、闇に覆われた彼女の真の心に何も届くことは無くなってしまいます。長い年月をかけて形成された闇を無くすことが出来るのだろうか。そのことの難しさが全編を通じて伝わってきます。 

者の心に踏み込むこと

 物語が始まるきっかけは、環菜が話したとされる言葉。

「動機はそちらで見つけてください」

 この言葉は誇張されており、実際の言葉は物語の前半で環菜自身から語られることになりますが。どちらにしても、彼女の真実の言葉と報道された言葉の意味するところはそれほど大差がない。

 彼女自身にも、動機が理解出来ない。そのことが彼女の心の闇の深さを表しています。真壁由紀が環菜の真意を問い、理解することは出来るのだろうか。心の闇を照らそうとした時に、由紀自身に影響を与えることがないのだろうか。人の心を探る時に、自身の心に影響を及ぼさない訳がない。

 由紀自身にも心の闇はあります。環菜と同じように、子供の頃に父親から受けたものです。環菜に比べれば、それほど深刻でないように感じます。しかし、程度の問題ではないのでしょう。問題は、心に傷が残るかどうか。由紀の心の傷に共鳴した迦葉も、また心に闇を持っています。環菜に関わる人々に同じような心の闇を持った人間が集まってくるというのは出来過ぎな設定ですが。小説なので、それは置いておきます。

 環菜と接し彼女の心の闇を解き明かそうとすることで、由紀自身の心の闇にも影響を及ぼすことになります。闇は共鳴し合うということでしょうか。由紀と迦葉がそうであったように。他者の心に踏み込み深層を覗き見することは、自身の心も晒しているということにもなるのかもしれません。自身の心を隠したままで、他者の心を理解することなど出来ない。その意味では、由紀は適任だったのかもしれません。決して彼女たちにとっていいことではないのですが。環菜と由紀と迦葉の考えや感情を理解出来ても、真に共感することは難しい。 

終わりに

 環菜は救われたのだろうか。由紀と迦葉も救われたのだろうか。彼女たちの過去は変えることが出来ません。心に潜んだ闇も簡単に無くすことは出来ない。しかし、闇は光を当てれば闇でなくなります。向き合うことで、未来は変わっていくのでしょう。

 殺意を認定された環菜にとっては、判決は事実と違います。しかし、彼女は受け入れます。彼女にとって判決よりも重要なことが、彼女自身の変化だった。彼女の現実の未来は明るくない。しかし、彼女の人としての未来は解放されたのでしょう。

 人の心を描くのは、とても難しいことだと思います。人の心は人の数だけ存在します。しかも同じものは存在しません。本作は、微妙な心の動きを、会話や行動・思いから表現しています。彼女たちの変化についても。難しい表現や文章を用いていないので読み進めやすい。だからと言って、心の機微が描かれていない訳ではありません。重く苦しい物語ですが読み応えがあり、直木賞受賞も納得です。