こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「ガソリン生活」の感想です。
車を擬人化していますが、仙台を舞台にした現実的(?)な物語です。登場するエピソードは、結構物騒なものが多い。普通に生活していれば到底巻き込まれないようなことばかりです。
しかし、伊坂幸太郎が書けば軽快なストーリーになります。一人称の語り手が車というのも大きな要因です。それも緑のデミオです。可愛らしくて控えめな車だからこそ、物語が何となくふんわりとするのでしょう。
直接的な暴力的なシーンがあまり登場しなかったことも理由のひとつです。第一期の伊坂幸太郎を思い出させるような小説です 。
「ガソリン生活」の内容
のんきな兄・良夫と聡明な弟・亨がドライブ中に乗せた女優が翌日急死!パパラッチ、いじめ、恐喝など一家は更なる謎に巻き込まれ…!?車同士がおしゃべりする唯一無二の世界で繰り広げられる、仲良し家族の冒険譚!【引用:「BOOK」データベース】
「ガソリン生活」の感想
語り手は緑デミ
何故、デミオなのか?何故、緑色なのか。特定の車種を選ぶ時に、何を基準に選んだのでしょうか。最も庶民的で特筆すべき点がない車を選んだのかもしれません(マツダに怒られそうですが)。ひとくちに車と言っても、車種によってイメージがあります。緑デミのお隣さんことザッパはカローラです。カローラも庶民的な車ですが、その歴史の長さを踏まえると落ち着きのある態度と言葉遣いが似合います。持ち主の細見氏が校長先生ということも影響しています。校長先生とカローラの組み合わせ。高級車を乗っているよりも身近な校長像を印象付けます。
人が人を評価する時には、様々な要素を基準に評価します。評価する人の価値観によっても変わってきます。本作の面白いところは、車を擬人化して、車独特の価値観を作り出しているところです。いい車もいれば、近寄りがたく意地悪な車もいます。それは車種によるところもあれば、持ち主によるところもあります。総じて言えるのは、本当の悪車はいないことです。何故なら、彼らは仲間意識が強い。人間よりもずっと人格(?)が出来ています。車を擬人化しながらも、単に人間を模倣せず、何とも不思議な世界を作り出しています。
緑デミはあまり個性的ではありません。物語の主人公というよりは、語り手であり観察者です。車なので、事件に対し何らかの手立てを講じることは出来ません。事件に直接介入できず成り行きを見守って推理する立場は、読者と同じです。だからこそ、車たちに共感出来ます。緑デミは最も読者に近い存在と言えます。一般市民としての立場が似合いますから。
制限された情報に伏線が・・・
車たちが情報を入手するのは、乗っている人や近くにいる人たちの会話と車たちによる情報交換だけです。真偽を確かめることは出来ません。様々な情報が輻輳する中で、限られた情報を入手して推理するだけです。緑デミは推理した結果を望月家に伝えることも出来ず、車同士で共有するに過ぎません。伝えたいことを伝えられないばかりでなく、自ら行き先を決めることも出来ません。当たり前だが、運転手の操作する通りにしか動けない。行ってはいけない場所と分かっていながら向かってしまう。トラブルに巻き込まれた望月家を助けたくても助けることが出来ない。有効な情報が入手できたとしても活かすことは出来ない。
しかし、制限された情報だからこそ読者は面白い。緑デミが与えられた情報を元に推理するのと同じように、読者も少ない情報から事件を推理します。車の中の何気ない会話から、その後の展開を予想します。緑デミは望月家の情報の全てを持っていません。あくまで彼らが車に乗っている時の会話から情報を得ているだけです。しかし、車同士の情報交換で望月家が知っていること以上の情報も得ています。
断片的に得られる情報は、パズルのピースのようです。うまく嵌まれば事件の真相に辿り着きます。しかし、全てのピースは揃っていません。存在しないピースをどのようにして入手するか。そもそも緑デミたちは自らの意志で情報を入手出来ません。揃わないピースは想像するしかない。存在するピースに多くのヒントがあり、それが伏線となります。新たなピースが表れた時に、既存のピースと合わさり絵が出来ていきます。
初期の伊坂作品のように、伏線に伏線を重ねて結末で一気に回収するといった展開ではありません。そのような構成だと、結末までパズルは全く出来上がらない。本作は徐々にパズルのピースが表れてきます。部分部分のパズルが徐々に組み合わさり、全体像が見えてくる。そういう意味では、優しいミステリー作品です。最後まで答えを予想し続けるのではなく、小さな疑問が表れては解消していきます。
新たな展開が起これば、そこに疑問が新たに生まれる。その疑問は、物語が進展するにつれ解消する。その繰り返しのような構成です。大きな謎のはずだった荒木翠の事故死の真相は、早々に亨が看破します。謎を引っ張り続けるよりは、少しづつ謎を解明し、爽快感を持続させるということでしょうか。
主人公は望月家族
主人公は誰でしょうか。物語を構成する人物や事件は、あくまでも望月家とその周辺です。荒木翠の乱入により物事は動き出し、望月家は事件に巻き込まれていきます。緑デミを始めとする車たちは、噂好きで推理好きの傍観者に過ぎません。彼らは事件の趨勢を動かせる立場にはない。
一方、望月家の人々も事件の趨勢を動かす立場ではない。事件を起こした張本人でもない。巻き込まれ体質の家系です。荒木翠と丹羽氏の交通事故に直接巻き込まれていませんが、直前に荒木翠を緑デミに乗せたことにより間接的に巻き込まれてしまいます。事故とは直接関係ないから知らないふりをすればいいし、車に乗せたことが公になったとしても関わり合いにならないことも出来た。しかし首を突っ込んでいってしまいます。野次馬根性というよりは、好き勝手に書かれる荒木翠を庇いたい気持ちと真実を明らかにしたいという正義感からからでしょうか。亨は好奇心も大きく影響していそうです。
望月家の長女「まどか」が厄介ごとに巻き込まれるのは、恋人の江口の揉め事に巻き込まれたからです。彼女自身の揉め事ではありません。彼女も揉め事から身を遠ざけるのではなく、関わっていこうとします。望月家は巻き込まれ体質に加え、おせっかいです。
荒木翠と関わった良夫と亨。江口を通じてトガリの子分と関わったまどか。玉田憲吾が全ての鍵を握っていることが徐々に明らかになり、トガリと荒木翠と丹羽が繋がっていきます。良夫・亨とまどかは全く違う入り口から事件に関わっていきますが、向かっていく目的地は同じだった。全てが繋がった時、都合の良過ぎる展開に感じる部分もあります。それでも納得感があります。
事件は解決していた
いつから事件になったのでしょうか。荒木翠と丹羽の交通事故は、事故に過ぎない。もちろん、玉田憲吾の執拗な追跡により事故が起こったことが真実だとすればです。当初、信じられていた事実が徐々に崩れていくことにより事故が事件化していきます。トガリが加わることで、更に事件化していく。事件として認識しているのは車たちの方が先んじていますが。
物語の早い時期に、亨は荒木翠と丹羽の交通事故の真相を看破します。仕組んだ玉田憲吾は、肯定しないが否定もしない。その段階で、交通事故は仕組まれたものだと分かります。仕組まれた事故にトガリたちがどのように関わっているのか。結末まで待たずに、明らかにされていきます。交通事故の真相は徐々に明らかにされます。伏線を仕込み結末で繋ぎ合わせるのではなく、徐々に繋げていく。どこまでが計算で、どこからが突発的な事態だったのか。玉田憲吾の思惑と、予想外の出来事が混じり合います。それも含め、事件は解決しています。荒木翠と丹羽を自由にしてトガリを排除することが目的なら、最初から事件は解決していたと言えます。
終わりに
エピローグがあってもなくても、ストーリーに影響はありません。しかし、エピローグがあるからこそ、暖かく優しい気持ちになるのでしょう。望月家を始め、人々は車の気持ちを考えていません。車が考え、会話を交わしているなどとは想像もしていない。だからと言って、車に愛着を持っていない訳ではありません。車は道具に過ぎない。しかし、長い間乗り続ければ愛着が沸くし、手放す時は寂しい気持ちになります。手放す理由は様々です。望月家にとって緑デミは掛け替えのない存在ではありません。ライフスタイルに合わせて買い替えています。しかし、緑デミに乗っていた記憶はずっと残ります。
亨が緑デミを買ったのも、緑デミに対する愛着と自分の人生の一部を一緒に過ごしたことによる思い入れもあったのでしょう。その緑デミが、かつての緑デミだったのは出来過ぎな展開です。でも、それもありなのかなと思わせます。少なくともほっこりさせてくれます。入り組んだ謎だらけの物語ではないですが、読み進めるほどに引き込まれていきます。