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『ICO -霧の城-』:宮部みゆき【感想】|ぼくが君を守る。だから手を離さないで

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 こんにちは。本日は、宮部みゆきさんの「ICO -霧の城-」の感想です。

 

 文庫の巻末にある米光一成氏の解説で、本作がゲームのノベライズであることを知りました。あまりゲームをしないので、初めて聞くゲームの名前です。ノベライズされるほどのストーリー性を持ったゲームなのでしょう。

 ゲームの「ICO」を好きかどうか。やり込んでいるかどうかで本作の感想は全く違うでしょう。ゲームがどれほどの人気で、どれほど売れたのか知りません。多くの人に知られているのなら、ゲームを知っていることを前提に執筆された可能性もあります。著者は大のゲームマニアらしい。「ICO」の大ファンのようでノベライズも自ら売り込んだとか。

 ゲームを知らない立場なので、小説単体としての感想になります。著者の描くファンタジー小説では「ブレイブ・ストーリー」や「英雄の書」を読みました。「ブレイブ・ストーリー」は大人でも十分に楽しめる内容だったと思います。「英雄の書」は観念的な表現もあり少し複雑さがあります。ただ、どちらも引き込まれました。

 ノベライズは完全な創作ではないので不自由さがあります。ゲームの世界を映す必要があるからです。好きなゲームを文章化することは、著者にとっては楽しい作業でしょう。問題は、それが読者に伝わるかどうかです。 

「ICO -霧の城-」の内容

霧の城が呼んでいる、時が来た、生贅を捧げよ、と。イコはトクサ村に何十年かに一人生まれる角の生えたニエの子。その角を持つ者は「生贅の刻」が来たら、霧の城へ行き、城の一部となり永遠の命を与えられるという。親友トトによって特別な御印を得たイコは「必ず戻ってくる」と誓い、村を出立するが―。【引用:「BOOK」データベース】 

 

「ICO -霧の城-」の感想

ームを知らない人

 ノベライズは誰に向けて書くべきか。

  • 原作を知っている人に向けて書く
  • 原作を知らない人に向けて書く

 もちろん読者に向けてですが、何を前提にすべきかは難しい。ゲームの世界観を知らない人に伝えることができるかどうかも重要ですし、小説単体としての完成度も求められます。知らない人を惹きつけ、さらに知っている人を納得させる必要があります。ゲームに対する思い入れが強いほど、ゲームを知っていることが前提になってしまう危険があります。自らノベライズを売り込むほどだから、ゲームに引きずられる可能性は高い。

 ゲームに抱いた思いを伝えることが目的になると、ゲームの良さを伝えるためだけの小説になってしまいます。伝えるだけの小説ならノベライズの意味がありません。ゲームの世界をベースにして新しい世界を作り出すことがノベライズだと思います。

 そもそもゲームには完全なストーリーがある訳ではありません。ゲームには無条件に受け入れないといけない前提と目的があることも多い。そういうものだと割り切る必要もあります。小説はそういう訳にはいきません。原因と結果の因果関係があり、過去と現在と未来が繋がり、全ての出来事に必然性が求められます。小説が人生を描くのならば目的はひとつではありません。生きていく目的がひとつだけとは限らない。

 小説「ICO」の世界は納得できるものでしょうか。ゲームは目的がはっきりしていれば、設定はある程度無条件に飲み込めます。しかし、小説は発端が大事であり「何故」が重要です。

  • イコが生贄になる理由
  • 角が生えている理由
  • 霧の城に行く理由

 これらは物語の謎であり霧の城で明かされていくのでしょう。また明かされなければなりません。ゲームはどうだったのでしょうか。

 本作の紹介で、次のようにあります。

いつだかわからない時代の、どこだかわからない場所でのお話

 ファンタジー小説だからといって何でもありではない。納得できなければ冷めていきます。本作はあまり引き込まれません。著者が無意識にゲームの前提に引きずられ過ぎているのではないでしょうか。ゲームを知っていることを前提にしてしまっているように感じます。

 

の内より事象と行動

 ゲームで大事なことは行動です。心の機微はそれほど問題ではないのかもしれません。もちろん動機があってこその行動ですが。

 私の勝手な印象ですが、

  • ゲームは、行動>動機
  • 小説は、動機>行動

 もちろん最近のゲームは昔よりストーリー性はあると思います。

 何故、霧の城に行くのかは物語の最も重要な要素です。小説のプロローグは著者の創作です。物語の方向を決定づけるために必要な設定を詰め込んだのでしょう。

 冒頭、トトはイコと離れたくないために行動します。しかし、イコが霧の城に連れていかれることは最初から分かっていることで、何故いまさら動くのでしょうか。トトだけに限らず、村長夫婦もここまで苦しむ理由がよく分かりません。来るべき時が来て、イコを手放すことに現実感が出てきたことで苦しんだのでしょうか。そうだとすれば、今までの時間の中で想像力がなさすぎる気もします。

 トトの行動は相当に危険であり、そこまでの行動を起こす強い動機が突然生まれたのでしょうか。トトが行動することは、物語の進行上、必要なことだったからに過ぎない気がします。イコが霧の城に連れていかれるまでに、彼が戦うための道具を手に入れなければなりません。また、生贄が代々続いてきたなら、イコだけが特別な存在になる必要があります。その為に必要な道具が「光輝の書」であり、それを入手するためにトトが使われたのでしょう。トトの心の内の描写が薄いので、内面から出た行動に感じません。

 村長の言葉は、次のようにあります。

かつて分かたれたし知と勇の、再び出会い結びあうとき、長き呪いの霧は晴れ、古の光輝は地に蘇るなり

 イコが何をすべきか目的を明確にしています。イコがどんな過程を経てもすべきことは明確になります。

  • 霧の城からの脱出
  • ヨルダとの出会い
  • 女王との対決

 イコの心は変化していきますが、定められた道を進んでいくだけの雰囲気があります。行動が先にあり、それに合わせてイコの心が変化します。ヨルダはイコの行動を変化させるための要因に過ぎないのかもしれません。過去を見せ、霧の城の正体を徐々に明かすための存在です。目的と行動が先にあるので、イコとヨルダの人間性が薄く深みを感じません。悪いとは言いませんがいかにもゲーム的な印象です。ゲームに沿ったノベライズの特徴かもしれません。

 

わりにくい城のイメージ

 ノベライズでは創作できる部分とそうでない部分があります。舞台になる霧の城はゲームの最も重要な要素であり、イメージを壊すわけにはいきません。もちろん壊すつもりもないでしょうから、小説もゲームと同じ霧の城を描きます。

 霧の城は複雑です。複雑さがイコとヨルダを城に閉じ込め、簡単に脱出させません。城自体が生きている雰囲気があります。霧の城の存在がゲームの核心であり、そのことを伝えたいのでしょう。著者の頭の中には、霧の城のイメージが確固として存在しているように感じます。

 イコが彷徨う城の状況や状態が詳細に表現され描かれます。詳細過ぎて伝わりにくいし、実際に伝わってきません。完全に出来上がった風景を完全に伝えきることは難しい。複雑な風景ならなおさらです。

 頭の中に浮かぶイメージは人によって違います。想像は、表現の受け取り方やその人の経験などが反映します。読者全員に同じ景色を見せることはできません。著者は詳細に描くことで、読者全員に同じ霧の城を見せるつもりでいたのでしょう。しかし、詳細に伝えようとするほど見えてこない。想像する余地がないほどの描写は伝わらないと何も浮かばなくなります。ゲームをした人は容易に思い浮かぶでしょう。思い浮かぶイメージと文章表現も一致するはずです。

 通常、風景描写は雰囲気と要点が伝われば、あとは読者が想像します。多少の余白があることで読者ごとに違いが出てきますが構いません。現実世界でなくファンタジーなのだから読者がある程度好きに想像することは許容範囲です。映像を見るのではなく文章を読み解くことで読者のイマジネーションが刺激されます。

 ゲームをした人の頭の中には確固たる映像があります。霧の城にこそゲームの本質があるとすればゲームをしたことのない人にも見せたいし、実際に描写できているでしょう。

  • イコとヨルダが通った道
  • 風の塔
  • 崩れた城

 何もかもが十分すぎるほど説明されているのかもしれません。十分すぎることで冗長に感じてしまいます。重要かもしれないが退屈さがあります。描写のために物語が停滞します。著者が伝えたいと思うほど、ゲームをしていない読者は置き去りにされます。読めば読むほど疲れ、読み飛ばそうとしても物語の大半は霧の城の描写です。

  

場の違い

 登場人物の善悪ははっきりしています。イコは生贄であり、ヨルダは鳥籠に閉じ込められている。女王は霧の城の支配者です。この状況からイメージするのは、 

  • イコは正義
  • ヨルダは被害者(一部では加害者)
  • 女王は悪

 女王と闇の魔人の関係性からも善悪は分かります。太陽神と闇の魔人では、どちらが悪かは明白です。 

 しかし、女王だけが悪なのでしょうか。人の力を超えた能力で様々な手段を用い国を守ります。手段の是非は別にして、国を守ること自体は悪ではありません。問題は国を守る為の目的です。闇の魔人の復活のために国を守り国民を守ります。来るべき時が来れば、国民からすれば悪になる。

 ザグレダ・ソル帝国は善なのでしょうか。オズマを尖兵にして好戦的に感じます。もちろん女王の企みを阻止するためですが、戦闘における善悪は立場によって入れ替わります。女王は悪かもしれないが、ザグレダ・ソル帝国が無条件に善になるとは思えません。

 

終わりに

 ノベライズの難しさを感じます。事前に知識がある読者とない読者の両方に向けて描かなければなりません。どちらも満足させることは可能なのでしょうか。本作はゲームプレイヤー寄りに執筆されている印象を受けます。小説が映像や漫画になると賛否が分かれるのと同様なのでしょう。

 ただ、伊藤計劃の「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」は面白かった。

 

 

 ゲームは知りませんが、それでも引き込まれました。ゲームのストーリーをどこまで反映しているかは分かりません。伊藤計劃自身もゲームの大ファンでした。「ICO」と何が違うのか。アプローチの仕方が違っただけかもしれませんが、違いは明確に感じます。