こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「マリアビートル」の感想です。
位置付けとしては「グラスホッパー」の続編です。続編と言っても、直接的なストーリーの繋がりはあまりありません。グラスホッパーで登場した人物が数人登場していますが、前作を読んでいなくてもストーリーを理解する上で支障はありません。「マリアビートル」だけを読んでも十分に楽しめます。
『グラスホッパー』:伊坂幸太郎【感想】|死んでるみたいに生きたくない - 読書ライフ
ただ、グラスホッパーを読んでいるのといないのとでは面白さは数倍違います。ストーリーは繋がっていませんが、時間は繋がっています。世界観も同様です。伊坂幸太郎作品の要素であるクロスオーバーとは違いますが、やはり順番どおりに読むことをお勧めします。前作で活躍した殺し屋が本作でも重要な役回りを演じることになりますので、前作の活躍ぶりを知っておいた方がいいと思います。
「マリアビートル」の内容
幼い息子の仇討ちを企てる、酒びたりの元殺し屋「木村」。優等生面の裏に悪魔のような心を隠し持つ中学生「王子」。闇社会の大物から密命を受けた、腕利き二人組「蜜柑」と「檸檬」。とにかく運が悪く、気弱な殺し屋「天道虫」。疾走する東北新幹線の車内で、狙う者と狙われる者が交錯する――。【引用:「BOOK」データベース】
「マリアビートル」の感想
閉じられた空間と限られた時間
東北新幹線「はやて」は10両編成で、東京⇔盛岡間は2時間強で到着します。かなりのボリュームの小説ですが、たった10両の列車の中のたった2時間強の物語です。新幹線で起こる出来事は、あまりにも濃密で目が離せません。密室ではないですが、動いている列車からは降りられないという点では密室と同じです。ただ、停車駅が来れば、当然、乗降できます。
新幹線は停車駅が少なく、在来線よりも停車する頻度が少ない。簡単に降りることができないので、物語に緊張感が出てきます。閉鎖空間でタイムリミットがあることが物語の重要な要素のひとつです。その点を見事にクリアしています。
蜜柑と檸檬は、目的地の盛岡まで降りる必要がない。木村の目的地は未定。中学生の王子は盛岡。途中下車予定は七尾だけです。彼を途中で降ろさずに盛岡まで引っ張り、物語に食い込ませておく。そのための設定が見事です。
七尾は腕利きの殺し屋です。彼を下車させないためには仕事を完了させなければいい。しかし、仕事が完了できない=失敗です。単に失敗するだけでは、能力がないだけと思われます。
著者が取った設定が、七尾が究極の「不運」ということです。その設定が面白い。七尾の下車が叶わないなら、彼にとっても新幹線は動く密室になります。逃げ道のない密室で制限時間内に仕事を終わらせようと企む男たちの行動が全編に渡って繰り広げられていきます。
何故、殺し屋ばかり
前作「グラスホッパー」の流れなので、登場人物は物騒な殺し屋ばかりです。中学生の王子だけが殺し屋ではないですが。王子の正体は次の項目で書きます。
- 元殺し屋の「木村」
- 凄腕の殺し屋コンビ「蜜柑」と「檸檬」
- 不運と付き纏われる「七尾」
蜜柑と檸檬が請け負った仕事と七尾が請け負った仕事は相対するものです。対決は避けられません。そこに全く関係のない木村が乗り込みます。新幹線の中に殺し屋が4人も集まります。殺し屋を吸い寄せるかのようです。しかし、彼らに恐怖心を感じません。不思議な感覚です。おそらく彼らがとても人間臭く描かれているからでしょう。
冷静な蜜柑と機関車トーマス好きの檸檬は気が合うようで、そうでもない。でもお互いに信頼感があります。コンビとして揺るがないものを感じるので、二人のやり取りは安心して見ていられます。トーマスのくだりに、蜜柑はウンザリしながらも付き合っているところが微笑ましい。七尾に至っては、あまりの不運と自信のなさが殺し屋ということすら忘れさせます。木村が一番殺意を漲らせています。
物語の前半で殺し合う場面がないことが、彼らの殺し屋としての物騒さを感じさせない要因です。蜜柑と檸檬の不手際で死体がひとつできますが、殺される瞬間の描写はありません。死体を見ても平然としている様子は、彼らが殺し屋であることを感じさせますが。
後半、七尾と蜜柑と檸檬の対決や王子の出番など物騒さや生々しさが際立ってきます。それでも前半で構築された彼らの人物像が、冷酷非道の殺し屋の印象を与えません。平然と人を殺していくのは殺し屋らしいですが嫌悪感を抱きません。1名を除いて。
絶対的「悪」の存在
社会常識から言えば、全員が悪人です。殺し屋は当然ですし、彼らに依頼をした峰岸も悪の元締めです。ただ、彼ら以上の絶対的な嫌悪感を抱かせ続ける「悪」が存在します。それが、中学生の「王子」です。胸悪くなる嫌悪感を抱かせる彼の存在は、あまりにも強烈なインパクトを与えます。彼自身が積極的な行動に出ずに、裏から糸を引くような振る舞いが猶更最悪の印象を与えます。
著者のデビュー作「オーデュボンの祈り」に登場した「城山」を思い出します。城山は警察官でした。
王子は無垢な中学生を演じています。社会的に安全と思われている立場の裏で、最悪の正体を隠し持つ。伊坂幸太郎に「悪」を描かせると、最悪の人間を表現することが出来ます。王子の存在が殺し屋同士の仕事の奪い合いを複雑にして、人間関係も複雑にしていきます。王子が直接手を下すのはわずかですが、彼の存在が蜜柑と檸檬を消し、木村も消します。中学生でありながら、彼の負の存在感は圧倒的です。これだけの悪なので、当然結末ではそれなりのものを用意していることを期待します。そうでないと、最後まで読み進むのも胸悪くなります。これだけの不快感を与えたのだから、相当の爽快感も与えてくれるものと信じて読み進めるしかありません。ただ、どのような結末を持ってくるのは想像できません。
伏線はどこに?
第二期の伊坂幸太郎作品は、第一期ほど伏線に拘っている印象はありません。ただ、前作「グラスホッパー」は第一期の作品です。作風を引き継ぐと言う意味では、伏線を張り巡らせ回収する作業は、第一期に相当するものを用意していると思います。伏線を結末で一気に回収するとなれば、結末までどれが伏線なのか分からないと言うことです。伏線かも?と思いながら読み進めていき、最後に予想どおりの回収のされ方をすると、それだけで爽快感を感じます。なかなか予想どおりになりませんが。
伏線の話を書くと、未読の人の楽しみがなくなってしまうので書きません。ただ言えるのは、物語中で起こる出来事の中で不要なものはないと言い切ってしまってもいいくらいあらゆることが繋がってきます。都合の良い展開もあります。しかし、許容できる都合良さと許容できない都合良さがあるとすれば、間違いなく前者です。新幹線の中の2時間強で、これだけの出来事を無理なく無駄なく詰め込み収束させ解決する。
七尾と真莉亜。蜜柑と檸檬。彼らの会話は第一期の伊坂作品を彷彿とさせる軽妙さと面白さがあります。しかも伏線込みで。どの場面も気を抜くことなく読み抜くくらいに気持ちで読み進めないと駄目かもしれません。
爽快な大逆転
物語の視点は一人ではありません。木村、蜜柑と檸檬、七尾、王子が主となります。視点が変わるので誰の立場で解決すれば爽快感を感じるのか、という問題はあります。
- 木村が目的を果たせば良いのか。
- 蜜柑と檸檬が仕事をやり遂げればいいのか。
- 同じく七尾も仕事の完遂か。
蜜柑と檸檬が完璧に依頼をやり遂げることができないのは、物語の最初で決まりますが。様々な見方によって違ってきます。たったひとつ、全ての読者が納得し爽快感を感じることが出来るのは、王子が罰せられることです。王子がどのようにして思惑に失敗し、どんな結末を迎えるのか。それ次第で読者のカタルシスの度合いが変わってきます。
王子の行く末は明確に描かれることはありません。ただ、相応の報いを受けるだろうことは明確にされます。王子を追い詰めるのは誰なのか。そのことも本作の大きな要素です。殺し屋たちが依頼を遂行すること以上に、王子の未来が気になります。意外な人物が王子を追い詰めることになるのですが、その爽快感は半端ありません。子供なのに世間を舐め切っている王子を罰するのに相応しい人物です。溜まりに溜まったフラストレーションが解消します。「オーデュボンの祈り」の城山の最後より気持ち良さを感じます。
終わりに
かなりの長編ですが、一気読みに近いスピードで読み終わりました。結末では前作との絡みも多少出てきますので、より楽しみたい人は先述した通り「グラスホッパー」から読むことを勧めます。第一期の最後の作品「オー!ファーザー」ほど登場人物の会話に凝っていたり洒落ていたりしている訳ではありません。第一期の要素を適度に盛り込んだ爽快感のある作品です。
伊坂作品には、人が死ぬ場面が結構あります。それでいながら悲壮感や残酷さ、生々しさをそれほど感じさせません。それがいいことか、悪いことかの議論はあるでしょう。簡単に人が死んでいきますので。しかし、エンターテイメント作品として考えれば問題はないと思います。命の大切さをテーマにした深刻な小説ではありません。楽しめるという意味では、映画やドラマと同じように考えればいいのではないだろうか。映画やドラマで事件のきっかけとして人が死んでも、それほど問題視されません。同じ感覚で楽しめばいいと思います。最後まで読まないと爽快感を感じることは出来ませんが、読み切るに値する作品です。