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『水底フェスタ』:辻村深月【感想】|偽りの平穏に押し潰される

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 読後の喪失感が胸を強く圧迫しました。村社会の実態が明らかになるにつれ、息が詰まるような閉塞感が襲います。ムツシロ・ロック・フェスティバル(ムツシロック)という開放的で躍動感溢れるロックフェスを始まりにすることで、その後の睦ッ代村の閉鎖性が際立ちます。外部から新しいものを誘致し受け入れている睦ッ代村と限られた人間だけで形成されている睦ッ代村の対比により、恐怖を覚えるほどのインパクトを受けます。

 村の真実を知った時に取り込まれていくのか。反発するのか。信じがたい現実を突きつけられ決断を迫られる。村の真実の先に何があるのか。何が真実なのか。閉じられた世界の閉じられた人間関係の巧妙な展開に引き揉まれていきます。 

「水底フェスタ」の内容

湖畔の村に彼女が帰ってきた。東京に出て芸能界で成功した由貴美。ロックフェスの夜に彼女と出会った高校生・広海はその謎めいた魅力に囚われ、恋に落ちた。だが、ある夜、彼女は言う、自分はこの村に復讐するために帰ってきたのだと。【引用:「BOOK」データベース】

「水底フェスタ」の感想

鎖社会

 「暗黙の了解」という言葉があります。睦ッ代村に潜む暗部の正体は、この言葉で言い表せる気がします。言葉に出してしまうと村が崩壊することでも、言葉に出さないことで共同体の運営が円滑に進む。いいか悪いかでない。村と住民の生活を維持していくために、言葉に出さないことが最も都合がいいだけなのでしょう。コミュニティが小さくなるほど、この傾向が強くなることは容易に想像出来ます。大きな世界であれば、どこかのグループから外されても他のグループに属することが出来ます。しかし、コミュニティが小さくなるほど自由は効かない。外されれば、行き場がなくなります。睦ッ代村は地区ごとで小さな集団があり、それらを構成要素として存在しています。睦ッ代村から外されることは、同時に地区の集団からも外されることになります。

 睦ッ代村が村長職を出す四家に支配されているならば、四家には逆らえない。四家もあからさまに権力を振りかざすことなく、巧妙に村を支配しているように映ります。彼らが腐心しているのは、村の円滑な運営です。 

言いようによっては彼らは村長としてすべきことをしているに過ぎない。

 ただ、波風を立てないこと=正しい選択とは限りません。閉鎖社会において長年積み重ねてきた不文律は、必ずしも健全ではない。そのことに気付いているから、閉鎖社会は外部の人間を極端に排除するのでしょう。自分たちの行いが正しいものでないと理解しているからではないだろうか。

 睦ッ代村はロックフェスを誘致したり移住者を受け入れたり、開放的な部分を見せつけています。物語が進むにつれ、その姿勢が見せかけのものだと分かります。不文律に支配された世界にとって、外部の人間は異質な存在でしかない。不文律の裏には、踏み込まれたくない秘密の積み重ねがあります。しがらみとも言えます。外の人間に見せることが出来ない秘密だからこそ、閉じられた村では有効に働くのです。

 村の秘密が徐々に明らかにされていくと、そこに住まう人間にも不快感が生まれてきます。閉鎖社会は流れのない湖と同じかもしれません。新しい水が流れ込まない湖は、やがて淀んでいきます。透明度のない淀んだ水は、何もかもを覆い隠し呑みこんでいきます。波風のない穏やかな水面であっても、底の見通せない水の中には見せることの出来ない闇が潜んでいます。  

りの調和

 偽りは常に悪なのか。睦ッ代村で蔓延していた偽りの目的は、村の円滑な運営です。村の円滑な運営は、村の人間同士の円滑な関係と同義です。人間関係に亀裂が入ると、元に戻すことは難しい。そのことを誰よりも理解しているのは村人です。だからこそ、関係を壊す事実をなかったことにする。気付いていても気付かないように装う。結果としてなかったことにしてしまう。積極的な偽りというよりは、真実を明かさないことで偽りの状態を生み出す。偽りの言葉を述べるよりも質が悪い。嘘を吐かれれば対抗することが出来ます。しかし、嘘を吐かれなければ戦い方が分かりません。何が真実なのか分からなくなります。

 広海が最も苦しんだのは、何が真実なのか見えてこなかったからことだろう。村人の間で共有されてきたのは、話さないことで真実を覆い隠すことです。覆い隠された真実を暴くには、広海は幼過ぎた上、外の世界を知らなさ過ぎた。

  • 由貴美と飛雄のどちらが正しいのか。
  • どちらが真実なのか。

 長年積み重ねられた村の偽りは、いつの間にか村にとって真実になっていた。話さないことはなかったことになり、自身が話したことは真実として他の村人が補完してくれる。事実は必要でなく、村人自身が真実を歪めて塗り直していく。睦ッ代村の中で偽りなど存在していなかったのかもしれません。あったのは村が円滑に存続していくために必要な事実のみ。悪意ある嘘よりも立ち向かい難い壁となっているのでしょう。 

された真実

 物語が進むにつれ、何が真実か分からなくなります。迷宮に迷いこんだような気持ちになります。由貴美の話す内容と広海が信じてきた村の姿が、あまりに違い過ぎます。由貴美が広海に近づいた理由は、一言で表現しづらい。

  • 由貴美と広海の関係。
  • 飛雄と由貴美の母の関係。
  • 由貴美と飛雄の関係。

 狭い村で起こった複雑な人間関係がもたらした生々しい現実。由貴美が事実と信じることは、あまりにも信じがたい。平穏な睦ッ代村で起こったことと思えないし、起こったことであれば問題になっていてもおかしくない。

 由貴美の話すことに真実味が帯びてくるのは、睦ッ代村の裏の顔が徐々に明らかになったからです。村は平穏さを崩しません。その態度に、村が隠し続けてきた真実の重みが伝わってきます。真実を掘り起こしに来た由貴美は、村にとって邪魔な存在のはずです。しかし、村は余裕をなくしません。村の結束力のためなのか。たった一人で村を暴くことなど出来ないと思っているのか。なかったことにしたことは、本当になかったことになっているのか。少なくとも由貴美が行動を起こせば起こすほど、村の存在が圧倒的な質量を持って立ち塞がります。

 由貴美と広海は姉弟だったのだろうか。否定する要素がありながらも、肯定する要素も出てきます。読者にとって二人の関係の真実を見極めるのは難しい。二人の関係はなかったことにしたことなのか、本当になかったことなのか。由貴美の話すことが、飛雄にことごとく否定されていきます。彼女が信じてきた事実がなかったことになっていきます。

 後半は、飛雄の話すことに真実が含まれているのかどうかも分からなくなってきます。隠された真実は、最後まで明確にされない。由貴美の話すことが真実なのだろうと感じますが。決定的な証拠は提示されなかった。 

終わりに

 睦ッ代村のように閉鎖された村社会は今も存在するのでしょうか。少なくとも、外の人間を受け入れないコミュニティーは存在するのでしょう。共同体として長年積み上げてきたものを壊すかもしれない異質な存在を受け入れることは難しい。

 全てが明らかにされても、納得出来る結末ではありません。尚且つ広海のみが生き残ることで、二人が共に死ぬよりも余計に喪失感を感じてしまいます。救いがあったのかどうかと言えば、なかったのでしょう。読後の気持ちはやりきれません。