織田信長×チェーザレ・ボルジア~二人の統治者が『君主論』で重なり合う~

ごきげんいかがですか。まんぱです。
山本音也著『信長の遺書』は、織田信長とチェーザレ・ボルジアの二人の統治者を「君主論」を基に相似点を探る挑戦的な作品です。戦国時代の日本と遠く離れたヨーロッパのルネサンス期を大胆に結びつけています。
一方で、読み終えたあとに納得感があるかどうか疑問を抱くのも事実です。あまりに壮大な構想に対して、物語の焦点が少し揺らいでいるように見えるからです。
複数人の視点から物語を語るので、話の軸が見えにくい。ボルジアの描き方も、信長に比べると少し物足りません。マキアヴェリの思想も、信長を引き立てるための道具のようになっている印象です。
それでも安易なストーリーに逃げない知的な探求と、歴史に対して誠実であろうとする覚悟がある作品だと思います。
視点の分散が生む豊かさと主軸不在の曖昧さ
最初に感じたことは、この物語は誰の目線で書かれているのだろうかという戸惑いです。主人公が誰なのかということです。
本作には、三つの異なる視点があります。宣教師アレシャンドロ・ヴァリニャーノの視点。信長のそばで記録をつける太田牛一の視点。信長自身の独白の視点です。
三つの視点を重ねる手法は、ある意味、とても強力な効果を発揮する可能性があります。織田信長という統治者をいろんな角度から眺めることができるからです。
・日本を客観的に見る宣教師。
・歴史の事実を書き残す近習の書記。
・信長自身の本音。
これらのパズルの断片を組み合わせることで、歴史の深みから信長の真の姿にたどり着けるはずでした。
ですが、正直なところ、これらの視点がぶつかり合って相乗効果をもたらすような展開は多くありません。視点が切り替わっても、物語の空気がガラリと変わったり、びっくりするような新事実が出てきたりすることはありません。
物語の温度感は、最初から最後まで驚くほど一定に保たれています。その結果、いくつもの視点を使うという仕組みが、物語を引っ張る強力な力になっていないように感じます。むしろ、内容を理解するのを難しくするハードルになってしまっている印象です。
歴史上の出来事は、とても丁寧に網羅されています。ですが、心が震えるような劇的な演出や手に汗握るような盛り上がりは抑えられています。
頭を働かせながら読む刺激は、確かにずっと続きます。一方で、物語の波に身を委ねる楽しさは、残念ながらそれほど多くありません。全体的な停滞感が少し重苦しいものに感じます。それぞれの視点が状況を説明することに一生懸命になりすぎているせいかもしれません。
ヴァリニャーノの報告も、牛一の記録も、結局は信長という底知れない存在に吸い込まれてしまっています。語り手たちの人生が、信長と出会ったことでどう変わっていったのか。そうした人間ドラマが足りないように感じてしまうのも否定できません。
三つの視点を順番に覗いていきますが、いつまでたっても全体にピントが合わないまま読み進めているような気分になってしまうのです。
視点を切り替えるという手法は、事実は一つでも真実は一つではないということを示すためにあると思います。ですが、それらがただ情報を並べているだけに見えることがあります。一つの力強いメッセージへまとまっていかないもどかしさがあるのです。
さらに考えると、視点のバラつきは、信長の本質と正面切って向き合うのを避けているようにも見えます。真正面からぶつかる代わりに、他人の目というフィルターを何枚も重ねる慎重さを感じます。
誰かの目を通した信長の姿を描き続ける。もちろん信長自身の独白もありますが、信長の心を直接描くことを大幅に避けているようにも見えます。
そのせいで、信長はいつも誰かに語られる対象として遠い場所に置かれたままです。彼の肌の温かさや荒い息遣いを感じる隙間が、他人の視点と理屈で隠されてしまっています。
この語り方の遠さが、歴史小説としての形は整っていても、小説ならではの瑞々しさを少し弱めてしまっています。バラバラな視点は、物語が終盤になっても一つにまとまることはありません。
クライマックスの本能寺の変に向けて、すべての視点が一つの大きな結末へと吸い込まれていくことを期待します。ですが、あの歴史的な事件のときでさえ、視点はバラバラのまま、それぞれの考えを口にするだけです。
ある意味では作者の誠実さの表れかもしれません。歴史の真実は、簡単に一つにまとめられるものではないということを示しているからです。一方で、小説としてのまとまりを期待すると少し物足りなさを感じる原因になってしまいます。
さらに語り手ごとの話し方や文体が、あまり変わらないことも気になります。報告書、記録、独白。これらは本来、まったく違うリズムで書かれてもいいと思います。ですが、全編を通して整然とした文章が全体を包み込んでいます。そのため、視点が変わっても新鮮さがありません。一人の語り手が、立場を変えて話しているような印象を受けてしまいます。
もっとも、平坦な書き方はわざと選んだ形なのかもしれません。あえて距離を置いて、冷めた目で書き続ける姿勢は、歴史を安易な物語にしないという考えの表れかもしれません。読者に分かりやすい快感を与えない。その代わりに、じっくりと考えさせる。ありきたりな物語になるのを嫌う非常に厳しい誠実さが隠れているのかもしれません。
信長を安易に楽しませないという強い意志が、本作を誰にも真似できない場所へと押し上げているのも事実だと思います。
信長とチェーザレ・ボルジア
注目すべき点は、日本の織田信長とイタリアのチェーザレ・ボルジアを新しい時代を体現する統治者として並べたことです。
世界の視点から、日本の歴史を見直そうとするアイデアは素晴らしいものです。日本のことだけを考える歴史観になりがちな歴史小説の中で、これほど広い視野を持ち込んだことは新鮮です。ですが、この壮大な比較が、物語の中で十分に活かされているかというと少し疑問が残ります。
チェーザレ・ボルジアの描き方はあくまで断片的です。信長に比べると、チェーザレの心や考え方の深掘りが少し足りないように思います。その結果、二人を並べて似ていると言っても、ボルジアは抽象的な象徴にしか見えないのです。もっと面白いドラマが作れたはずなのにというもったいなさを感じます。
比較の柱として出てくるマキアヴェリの『君主論』の扱いも気になるところです。作中では、信長のやり方とマキアヴェリの『君主論』を重ね合わせています。ですが、『君主論』から取り出されているエピソードが、信長のイメージに合うものばかりに偏っている気がします。
信長がルールからはみ出してしまうときの葛藤やルールそのものの矛盾。そうした理屈だけでは割り切れない心の闘いをもっと読みたかった気がします。
また、『君主論』が、信長の正体を暴くための鋭い道具になっていないように感じます。物語に説得力を持たせるための後付けの説明のような役割に留まっている気がします。考え方が人物の血や肉になって物語を動かす。そこまでの力強さが足りないように見えてしまいます。
さらに決定的なのは、二人が生きた環境があまりに違いすぎることです。ルネサンス期のイタリアと日本の戦国時代。宗教の力や軍事の仕組み、社会の作りが根本から違います。二人は似たような境遇にいたというより、まったく違う難しい問題に立ち向かっていた支配者です。
それなのに似ている部分ばかりを何度も強調するために、物語が次第に説明っぽくなり、少しくどい印象を受けてしまいます。
二人を比べるという手法は、何が違うのかをはっきりさせることも必要です。ですが、本書では似ていることにこだわりすぎて、歴史の複雑な部分を切り捨ててしまっている気がします。無理やりな重ね合わせは、チェーザレ・ボルジアを、信長のすごさを説明するための材料にしてしまっている心配さえあります。
チェーザレが直面した教会の権力やイタリアをまとめられなかった苦しみ。これらは信長とはまったく違うものであり、その違いこそ描くべきことだったようにも思います。
また、マキアヴェリの考え方が、単なる効率の良い独裁の勧めみたいに扱われているように感じます。
理屈が先走りすぎて、登場人物たちがその理屈を埋めるための駒のように動かされている。その不自然さが、歴史のエネルギーを理論解説に変えてしまっています。異質な統治者たちの魂を見るのではなく、作者の緻密な講義を聞いているような気分になってしまいます。
この知的な贅沢さと小説としての心の震えの少なさが同居しているアンバランスさは、本作の特徴と言えるでしょう。一方で、読者が入り込むのを邪魔する壁にもなっています。
私たちが生きている世界でも、これまでのルールが通用しなくなっています。そんな現代への問いかけとしての物語を期待していました。ですが、過去の出来事のつじつま合わせをすることに、少し力を使いすぎてしまったのかもしれません。少し心残りに感じてしまいます。
「遺書」という装置の意味

タイトルに入っている「遺書」は、読者の興味を引く言葉だと思います。
遺書は、あとに残された人間がどうしても読みたい心の声の象徴です。この言葉を使うことで、信長は単なる歴史上の人物ではなく、後の時代の人が解釈を重ね続ける存在へと高められました。
ヴァリニャーノや牛一は、結局のところ、「信長の本当の姿は誰にも分からない」ということを証明したのかもしれません。
そう考えると、弱点だと思っていたバラバラな視点が意味を持ち始めます。歴史の真実は一つに決まらないというテーマを表す仕組みに変わるのです。文章が最後まで安易な感情移入を許さない距離を保っているのもそのためかもしれません。
慎重さが物語の勢いを弱め、読者を見ているだけの観客にさせてしまうのは確かです。歴史を面白い娯楽として楽しませることを否定して、小説としての気持ちのよさを犠牲にしている気はします。
ですが、その不親切さこそが、本書の個性そのものなのだと思います。歴史の残り火を追いかけ、言葉を一つずつ積み上げていく。その作業が遺書の形になっていくのでしょう。
歴史の本当の姿は、往々にして沈黙の中に隠されています。本書が描こうとした「遺書」とは、紙に書かれた文字のことではないのかもしれません。信長という特別な存在がいなくなったあとに残された、埋められない喪失のことなのでしょう。
喪失を埋めるために、ヴァリニャーノや牛一たちが言葉を尽くします。ですが、信長の正体には届きません。説明が重なれば重なるほど、かえって影が薄くなっていきます。輪郭だけがはっきりして、中身が見えないような不思議な感覚です。
また、信長が「何を遺さなかったか」という問いが、読者の心にも響きます。天下を統一するという目の前の目標を、まるでどうでもいいことのように捨て去る静かな最後。理屈を超えたある種の覚醒、あるいはすべてを空っぽだと感じる心だったのかもしれません。
本書は、その説明できない沈黙に勝手な理屈を当てはめることを拒み続けています。分かりやすい面白さよりも、考え続けることを選んだ結果でしょう。きれいな完成度よりも問いかける深さを選んだのだと思います。読み終えたあと、ずっと残る重たい手触りこそが、作者が仕掛けた罠なのかもしれません。
歴史を知ろうとすることは、一生かかっても読み解けない遺書を読み解こうとし続けることです。そのことを身をもって教えてくれます。過去から現在へと繋がっている糸を強く手繰り寄せます。
最後に見えてくるのは、英雄の死ではありません。言葉が現実を捕まえきれず、理屈が状況に追い越されていく歴史を描くことの限界です。その限界をさらけ出すことで、歴史と向き合う人の誠実さを証明しました。
全部は分からないという不完全な状況こそが、歴史を学ぶことの本当の意味での重みなのでしょう。
終わりに
本書は、物語の盛り上がりが少なかったり、ページ数が多かったりと、読者にかなりの根気と我慢を強いる作品です。
視点が定まらなかったり、ボルジアとの比べ方が少し無理やりだったり、マキアヴェリの引用が少し教科書っぽかったりするところもあります。あまりに大きな目標を掲げたために、物語が完全に一つまとまり切れなかった証拠かもしれません。
楽しい娯楽としての歴史小説を求めている人には、本書の「考えるという試練」は重たくて報われないものに感じるかもしれません。ですが、歴史上の人物を格好のいい英雄のように描くのをやめ、「歴史とは何か」「誰が歴史を書くのか」という深い問いを投げかけています。
小説が答えを教えてくれるのをやめ、大きな謎そのものとして立ちはだかるとき、フィクションを超えた真実が宿ります。読み終えたあと、歴史を見る目を変えてしまうような誠実で厳しい作品です。
