ご覧いただきありがとうございます。今回は、原田 マハさんの「リボルバー」の読書感想です。
ゴッホの死の真相を描くミステリー小説で、史実をベースにしたフィクションです。
小さなオークション会社CDC(キャビネ・ド・キュリオジテ)に勤務している高遠冴が主人公です。彼女の元に、ゴッホを撃ったリボルバーが持ち込まれます。持ち込まれた品物の真贋を鑑定するのは、オークション会社の仕事です。果たして、それは本物なのか。偽物なのか。それ次第で、美術史の歴史が変わってしまいます。
冴は19世紀フランス絵画が専門です。持ち込まれたリボルバーの出所と真贋を確かめる仕事は専門違いですが、彼女は行動を開始します。ゴッホとゴーギャンの研究してきたからです。
彼女の視点だけで物語が進みません。リボルバーを持ち込んだサラの追想。彼女の母エレナの告白。ゴーギャンの独白。そして、冴の視点の戻り、オルセーの再会へと続きます。
リボルバーの謎解きというよりは、リボルバーにまつわる人々の人生を描くことで真相に迫っていきます。冴が推理と行動で謎に迫る訳ではありません。物語が進むにつれ、自ずと明かされていくのです。
物語の結末は、大体予想できます。しかし、登場人物たちの心象を深く描いているので引き込まれます。
「リボルバー」のあらすじ
パリ大学で美術史の修士号を取得した高遠冴(たかとおさえ)は、小さなオークション会社CDC(キャビネ・ド・キュリオジテ)に勤務している。週一回のオークションで扱うのは、どこかのクローゼットに眠っていた誰かにとっての「お宝」ばかり。
高額の絵画取引に携わりたいと願っていた冴の元にある日、錆びついた一丁のリボルバーが持ち込まれる。 それはフィンセント・ファン・ゴッホの自殺に使われたものだという。
「リボルバー」の感想
ゴッホの死の謎
ゴッホの死は謎に満ちています。だからこそ、彼の死に対して様々な想像や憶測、研究がされるのでしょう。
ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説です。しかし、目撃者はおらず、銃創や角度が自殺にしては不自然のようです。
拳銃で撃たれて死んだのは間違いのない事実です。しかし、誰が撃ったのかは分かりません。自分で撃っていれば自殺ですが、そうでないとしたら「誰が」「なぜ」という疑問が出てきます。本作のようなミステリーが描かれる理由でしょう。
ゴッホ自身は自分で撃ったのか誰かに撃たれたのかは明言していません。彼を診察した医師ガシェがテオ(ゴッホの弟)にあてた手紙の中で、「ゴッホが自分で傷を負った」と書いたようです。テオは死の際にいるゴッホと二人きりで過ごしたので真相を知っていたかもしれません。しかし、テオもまたゴッホの死について何も語らずにこの世を去っています。
今となっては、真相を知ることはできません。残されている資料を元に研究を続けていくしかありませんが、答えが出るかどうかは分かりません。分からないからこそ、誰もがゴッホの死の真相を知りたいと思います。
ゴッホの死が自殺であれば、彼がどのような動機で死を選んだのかを知りたくなります。ゴッホの晩年は精神的に病んでいました。突発的な自殺かもしれないし、何らかの苦しみの果てに自殺を選んだものかもしれません。何らかの苦しみであれば何だったのか。ゴッホの全てを知りたいと願う人たちにとっては永遠の謎になります。何故なら、彼の心の内を知ることはもうできないのですから。
ゴッホの死が他殺だとすれば、違った謎が登場します。先ほど書いたように、誰が、なぜという疑問です。ゴッホを殺すほど憎んでいた人がいるのか。それとも事故なのだろうか。2011年にスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスが記したファン・ゴッホの伝記には、地元の少年達との諍いの結果、彼らが持っていた銃が暴発して撃たれたという説も出ました。何らかの物的証拠や確定的な資料に基づいている訳ではなさそうですが、可能性としては十分あり得るのでしょう。他殺をベースに考えれば、どんな可能性もあり得ることになります。
その可能性の多さを利用して描かれたのが本作です。説得力のある仮説であれば、それが真実のように感じます。
ゴッホが自殺に用いたとされる拳銃が、1960年にオーヴェルの農地から発見されています。用いられた可能性があるということです。しかし、可能性があるということは真実かもしれません。様々な真実が想定されるからこそ、ゴッホの人生は人を惹きつけるのです。もちろん、彼の絵画が素晴らしいからですが。
ゴッホとゴーギャンの関係
ゴッホとゴーギャンは同時代を生きたポスト印象派の画家です。二人は短い期間ですが、アルルで共同生活を送ったことも有名です。そして、共同生活の終わりにゴッホが耳を切り落としたことも知られています。
実際の彼らの関係はどうだったのかは残された手紙や行動から類推するしかありません。残された手紙に本心が書かれていたかどうかは分かりませんが。良好な時もあれば、そうでない時もあるのが人間関係です。ゴッホとゴーギャンも同じだったでしょう。
「ゴーギャンの独白」の章で描かれるのは、彼の目から見た二人の関係です。ゴーギャンの主観的な要素が前面に出ています。彼がゴッホに対して、必ずしもいい印象を抱いていなかったことが分かります。良好な関係性に見えた時期も、ゴーギャンの計算の上で築かれて関係のようです。一方、ゴッホは純粋にゴーギャンを必要としていたように描かれています。
ゴーギャンがゴッホを疎ましく感じるようになった理由は様々でしょう。最も大きな理由は、ゴッホの才能に圧倒されたからかもしれません。ゴーギャン自身が偉大な芸術家だからこそ、ゴッホの才能が分かったのだと思います。
作中で描かれるゴーギャンは、自身が求める芸術のために苦悩し続けています。苦悩しているからこそ、不安を感じます。不安はさらなる不安と焦りを生み出すのでしょう。それはゴッホも同じですし、芸術家は皆同じだと思います。
ゴッホとゴーギャンの関係性が悪くなればなるほど、ゴッホの死にゴーギャンが関係しているのではないかと思わせます。それも悪い意味でです。リボルバーとゴーギャンに関係があるのか。ゴーギャンとゴッホの死には何か関係があるのか。様々な想像が頭をよぎります。
二人の関係性とゴッホの死の真相は、ゴーギャンの独白で明確にされます。あくまでフィクションの物語中の関係性ですし、描かれるゴッホの死もフィクションに過ぎません。しかし、それが真実であるかのように感じてしまうほど、ゴーギャンの心の内が深く描かれています。まるでゴーギャンと話したかのようです。著者は、それくらいゴーギャンにもゴッホにも思い入れがあるのでしょう。
史実とフィクションの融合
史実の中にフィクションを組み入れるのはなかなか難しいと思います。史実を否定することはできませんし、史実を意識しすぎると物語になりません。小説ではなく、美術史になってしまう可能性があります。
その点、本作は史実とフィクションがうまく混ざり合っています。私があまり史実を知らないということもあるので、矛盾が生じていても気付かないだけかもしれませんが。原田マハさんの「たゆたえども沈まず」も史実とフィクションが混じり合い、境目が分からなくなるほどでした。登場人物も実在と架空の人物があり、それらが違和感なく存在していました。
ゴッホがどのようにして死んだのかは、まだ確定的な結論は得られていません。ゴッホの死の原因に結論を出すことはフィクションだからできることです。だからと言って、史実を無視する訳にはいきません。史実に沿った状況をなぞりながらも、読者が想像しないような結末を用意しなければなりません。十分な説得力を持ってです。
本作は、物語の根幹部分からフィクションです。登場するリボルバーが1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃とは別物だと判明した時点で、展開は全てフィクションになります。だからと言って、史実を無視している訳ではありません。
ゴッホとゴーギャンの関係性が、本作の重要な要素です。史実として分かっている部分は変えることはできません。しかし、分かっていない部分は創作することができます。その中には、彼らの心の内も含まれます。心の奥底は誰にも見られないし、残りません。
また、彼らの行動が全て記録され残っている訳でもありません。空白の時期や時間もあります。そこをどのようにしてうまく描くかが重要なのでしょう。分かっている部分と齟齬がないようにしながらです。
私は美術史をよく知らないし、ゴッホとゴーギャンの人生や関係性に詳しくありません。どこまでが史実でどこからがフィクションか明確に判断できません。しかし、二人の関係を描いている部分について、全て真実であるかのように感じてしまいます。それくらい引き込まれます。
終わりに
原田マハさんの「たゆたえども沈まず」はゴッホを描いていました。「リボルバー」はゴッホの死が重要な要素ですが、どちらかと言えばゴーギャンに軸が置かれています。
冒頭でリボルバーが登場してから一気に物語に引き込まれます。その後、結末まで一気に読み切らせるほどの熱量を感じる作品です。
最後までご覧いただきありがとうございました。