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『少年と犬』:馳 星周【感想】|神が遣わした贈り物

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 こんにちは。本日は、第163回直木賞受賞作、馳 星周氏の「少年と犬」の感想です。

 

 犬(多聞)を中心にした連作短編集です。関わる人たちの人生を描いています。犬との関係ははるか昔から続いていて、人間にはかけがえのない存在です。犬が何をもたらすかは、人それぞれだろう。私は犬を飼ったことがありません。犬が飼い主にとってどのような存在なのかは想像するしかありません。そして想像の域を越えない。

 多聞は出会った人々に何かをする訳でありません。世話をしてくれる人々の側にいるだけです。多聞に何かを感じるのは、人がそう感じているに過ぎない。多聞は飼い主の内面を映す鏡であり、抱えるものが大きいほど映るものも大きいのだろう。 

「少年と犬」の内容

家族のために犯罪に手を染めた男。拾った犬は男の守り神になった―男と犬。

仲間割れを起こした窃盗団の男は、守り神の犬を連れて故国を目指す―泥棒と犬。

壊れかけた夫婦は、その犬をそれぞれ別の名前で呼んでいた―夫婦と犬。

体を売って男に貢ぐ女。どん底の人生で女に温もりを与えたのは犬だった―娼婦と犬。

老猟師の死期を知っていたかのように、その犬はやってきた―老人と犬。

震災のショックで心を閉ざした少年は、その犬を見て微笑んだ―少年と犬。【引用:「BOOK」データベース】 

  

「少年と犬」の感想 

聞が出会う人々

 多聞は何年もかけて東北から南西に向かい移動していきます。多聞の目的地ははるか遠い。自身の力だけで辿り着くことは不可能です。群れで行動していない以上、人間の助けが必要です。

 多聞に出会う人々は、人生に苦悩を抱えています。多聞とともに暮らそうとする理由は何だろうか。躾が行き届いていても、迷い犬を連れ帰る決断は簡単にはできません。それでも多聞を家に招き入れるのは、生きづらい世の中に疲れているからだろう。人と一緒にいるより、犬と一緒にいる方が安らぐこともあるのかもしれない。

 言葉が通じないことが、逆に安心感をもたらすこともあります。何かを理解して欲しいとか、共感して欲しいという欲求を抱かずに済みます。そこに多聞がいるだけでいいのだろう。

 犬と人の関係性は様々です。少なくとも関係が深まれば、信頼は築かれていくのだろう。しかし、多聞と出会った人々は信頼関係で結ばれているようには見えません。多聞は何も語らず、何もしません。だからこそ、多聞に自らが見たい姿を見ているのだろう。

 彼らは多聞だから側に置こうとしたのだろうか。彼らは多聞の躾の良さに気付きます。多聞の外見が汚れ、みすぼらしくても、凛とした様子に引かれます。犬が好きなのもあるだろうが、多聞だから連れ帰ったのだろう。

 躾が良くなければ、近くに寄せもしなかったかもしれません。もし、多聞が普通の迷い犬だったら、物語は成り立ちません。物語のために作られた多聞だが、作られ過ぎな気もします。

 

生を振り返る

 自分の人生に100%満足している人は少ないだろう。どれだけ前向きに生きようとしても、後悔や苦悩は増えていきます。今まで歩んできた人生をなかったことにはできません。現在の自分は過去の積み重ねだからです。

 満足できない原因はひとつではありません。様々なことが絡まり合った結果が現在です。どれだけ振り返りたくない人生であっても、振り返らずに生きることはできません。現在も過去も未来も全て繋がっています。

 多聞は何もしません。しかし、側にいるだけで救われるものもあるのだろう。孤独は外から見えるとは限りません。家族や友人がいたとしても、心は孤独に苛まれているかもしれない。当人しか分からず、誰も真に理解することはありません。

 犬の多聞が人の孤独を理解できることはありません。理解しないからこそ、側に置きたくなるのだろう。分かってもらおうという思いは最初から持たない。

 多聞を見て、自身の人生や境遇に思いを馳せる理由は分かりません。犬にはそんな力があるのだろうか。犬の存在があまりに大きく描かれ過ぎている気がします。それとも、犬を飼ったことがない者には分からないのだろうか。 

 

災を描く

 物語の発端は東日本大震災です。多くの人が亡くなり、住む場所も失いました。しかし、それ以外にも多くの不幸があったのだろう。多聞の境遇もそのひとつです。多聞は何も語らないが、震災で全てを失い、絶望を抱いたのかもしれません。その絶望を希望に変えるために南西を目指したのだろうか。

 震災が直接的に描かれるのは、最終章の「少年と犬」です。少年との絆を描くためにも震災が必要だったのだろう。心の傷が深いほど、そこから立ち直るには強い絆が必要です。

 ただ、震災である必要があったのかどうか。途中、出会った人々の多くは震災と直接的に関係しません。それでも、多聞との間に物語は作られます。小説であろうとノンフィクションであろうと、震災を取り上げることは悪いことではありません。多くの人の記憶に残さなければならない。しかし、震災と熊本地震を重ねることは物語に作為的な印象を受けてしまいます。 

 

蹟と現実

 帰巣本能と、本作の多聞の行動は全く別物です。遠く離れた場所に置いていかれた犬が、元の場所に戻ることはあるのかもしれません。しかし、本作は知らない場所に行く物語で、唯一の繋がりは少年だけです。熊本に縁もゆかりもありません。

 そもそもが奇蹟を前提にした物語です。現実には起こり得ません。多聞は震災のために東北を離れた飼い主を探しているのだろうと想像させます。だったとしても、犬の行動の可能性からは非現実的です。飼い主がすでに亡くなっていることで、多聞が誰に会いたいかは謎になります。それすらもすぐに明かされてしまいますが。

 多聞と少年は言葉で表現できない繋がりを持っています。人間と犬の関係としては説明できない魂の繋がりです。奇蹟であり、非現実な物語になります。震災という現実の悲劇の上に、非現実な物語を構築します。

 その組み合わせに納得するか、違和感を感じるかは読者次第です。非現実な物語は都合の良さを感じてしまいます。少年を回復させ、熊本地震から助けるために多聞は旅を続けたのだろう。全ての流れが、そのためだけに存在するように感じます。

 

終わりに

 冒頭に書いたように、私は犬を飼ったことがありません。人と犬がどのような関係性を築くのか実感を伴わない。

 多聞のように躾の行き届いた犬ばかりではないだろう。だから、多聞の特殊性が際立ち、非現実も浮かび上がってしまいます。犬と人の物語ではなく、多聞と少年の物語です。特殊な環境にある特異性に満ち溢れた物語に引き込まれるかどうかです。