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『太陽の塔』:森見 登美彦【感想】|すべての失恋男たちに捧ぐ

ご覧いただきありがとうございます。今回は、森見 登美彦さんの「太陽の塔」の読書感想です。

森見登美彦さんのデビュー作で、日本ファンタジーノベル大賞受賞作です。デビュー作でありながら、すでに森見ワールドが確立されています。まさしく森見作品そのものです。

著者の小説でしばしば取り上げられる京都大学生が主人公です。京都の町並みや雰囲気が手に取るように伝わってきます。京都をよく知る人はもちろん、あまり知らなくても京都独特の雰囲気を感じとることができるのではないでしょうか。京都大学生だった著者にとって、京都は特別な場所だったのでしょう。

ファンタジー小説ですが、通常抱くファンタジーのイメージとは全く違います。妄想の物語です。妄想もファンタジーのひとつと言えるのかもしれません。

登場人物に共感できるかどうかは、読者が今までどのような人生を送ってきたかどうかによります。ただ、結構な人数の読者が共感するのではないかと思います。

「太陽の塔」のあらすじ

私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった!クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。【引用:「BOOK」データベース】

 

「太陽の塔」の感想

れ大学生

腐れ大学生の定義は何かと言われると答えに窮します。ただ、主人公の「私」や周りに集う友人たちはかなり歪んでいます。世界をまっすぐに見ることができなくなっているようです。生き方は人それぞれなので、少しばかり性格や考え方がひねくれているからと言って、存在までも否定されるものではありませんが。

「私」は大学5回生で自主休学中です。勉学に励んでいるようには見えないので、大学生としていかがなものかと思ってしまいます。しかし、彼の周りにいる「飾磨」「高藪」「井戸」は、司法試験受験生であったり、大学の研究室で研究をしていたりとなかなか熱心に勉学に励んでいるようです。

「私」は休学中ですが、そもそも京都大学に合格して大学院にまで進学しているのだから、相当に努力してきたに違いありません。現在の状況だけで判断するのは早計でしょう。

しかし、彼らが一般人や一般社会とは隔絶された思考の持ち主であることは間違いありません。腐れ大学生の意味は、腐れた精神状態の大学生です。大学生として腐れているのではなく、腐れている人間が大学生だったということです。

彼らが周りの人々や社会に恨みにも似た感情を抱く理由は、女性関係に端を発します。男の悩みはだいたい異性関係が原因であることが多い。男の頭の中の大部分は女性で占められています。大学生ともなれば女性関係もある程度経験を積んで、人格形成にまで影響を及ぼすことは無くなっているものですが。

彼らのひねくれ方は、あまりにも常軌を逸しています。しかし、どこか共感してしまう部分もあります。「私」のストーカー行為まで肯定するものではないですが、憎めない存在です。絶妙な存在感を発しているのは、著者の表現力の力量でしょう。

 

己正当化と現実

人間関係で不都合が起きれば、その原因が何かを考えます。当然の思考過程です。相手に問題があるのか、自分に問題があるのか。それとも両方なのか。そういう経験を重ねることで、人間関係の築き方を学びます。

しかし、恋愛については、簡単に答えは出ません。感情の結び付きでできた関係性は、感情の変化で簡単に壊れてしまいます。そして、感情は論理的に分析しきれるものではありません。それでも答えを見つけ出したい気持ちは分かります。でないと、自分の気持ちの持って行き場がありません。

答えがないから、どんな結論も導き出すことができます。相手に責任を負わせることもできるし、自分自身の落ち度と考えることもできます。多くの人は納得できる結論を導き出し、気持ちに整理をつけるものです。

「私」が導き出した納得できる答えは自己正当化です。水尾さんが「私」を袖にしたことに対して、自分自身に全く責任はない。むしろ、彼女の判断ミスだ。そんな彼女の別れ話を納得して受け入れた自分の判断こそが正しいと思い込むことで心の平穏を保とうとしています。結果、円満に別れたと思うことができます。

しかし、現実は全く違います。一方的に別れ話を切り出されたに過ぎず、受け入れるかどうかを判断する権利など無かったのが事実です。男女の別れ話などそういうものです。円満な別れなどなかなかありません。どちらかが未練を残すのは自然なことです。時間をかけて心の整理をつけて、次に目を向けていくものです。

自己正当化は現実を真摯に受け止めさせません。また、現実を曲解していくことにもなります。冷静な判断力を鈍らせ、さらなる歪んだ自己正当化を生み出します。負のスパイラルです。そして負の感情は強い力を持ちます。「私」たちは、そのスパイラルに取り込まれているのでしょう。

 

らむ妄想

事実を素直に受け止めることができないのならば、自分に都合の良い解釈を作り出さなければなりません。それは作り物であり想像です。想像を現実だと思い込んでいるに過ぎません。

想像を信じ込んでしまい現実と区別できなくなると妄想になります。彼らの妄想は限りなく深い。あまりの深さに抜け出すことができないほどです。妄想は積み重なることで無限に広がり、自分自身を侵食していくのでしょう。

自己肯定を背景にした妄想は、周りの人々や状況を否定します。自分に都合の悪い状況は、全て相手のせいだと考えます。誰でも少なからずそんな思考を持っていますが、彼らの妄想は突き抜けています。突き抜けすぎて気持ち良いほどです。

「私」と遠藤正は、お互いの妄想の正しさをぶつけ合う戦いをしている。どちらの妄想にも「水尾さん」が関わっている。水尾さんを巡る恋の戦いなのだが、肝心の水尾さんは彼らの戦いを知らない。知らないからこそ、彼らは自己正当化しつつ戦いことができるのだろう。水尾さんが関われば、二人とも自己正当化できないのは間違いないのだから。
「私」も遠藤正も、水尾さんとの関係を妄想して作り出しています。「私」と水尾さんの関係は終わっています。遠藤正と水尾さんの関係は始まってすらいません。しかし、彼らの心の多くの部分を水尾さんが占めています。妄想することで、頭の中でさらに水尾さんの存在感が増してくるのでしょう。妄想は妄想を呼び、雪だるま式に大きくなります。

現実が妄想に追い付かないことで、歪んだ妄想へと繋がります。それが世間のカップルへの理不尽な怨念へと昇華されていくのでしょう。誰でも妄想しますが、ここまで妄想を膨らますのはむしろ清々しさを感じるほどです。彼らに対して嫌悪感を抱かないのは、突き抜けているからかもしれません。

 

終わりに

森見登美彦さんの原点のような作品です。何か生み出すわけでもなく、何かを解決する訳でもない。歪んだ思考の大学生のドタバタ劇であり、妄想とファンタジーが混じり合った不可思議な物語です。

しかし、読み進めるほどに引き込まれます。物語の重要な要素である水尾さんが登場しない(回想では登場しますが)ことも、彼らの妄想を際立たせています。彼女の視点や意見は全く関係ないところで、彼女に関わる妄想が膨らみ続けるところも面白みのひとつです。

最後までご覧いただきありがとうございました。