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『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』:リリー・フランキー【感想】|大切な人を失うことは誰もが経験する

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 第3回本屋大賞。リリー・フランキーが、母親との半生を描いた自伝的小説です。ドラマ・映画・舞台と映像化されています。私は映像化された作品を見ていませんし、小説も初読です。小説の帯には、福山雅治・みうらじゅんなどの著名人が感想を寄せています。人目を引く帯ではないですが、寄稿した方々の思いが伝わってくる独特の帯だと感じます。

 リリー・フランキーの肩書はあまりに多彩です。俳優、イラストレーター、小説家、絵本作家、作詞、作曲家など書き出せばきりがないほどです。やはりメディアに露出する俳優としての印象が強い。映画「そして父になる」を始め、多くの映画・ドラマに出演しています。好みが分かれるかもしれませんが、独特のインパクトが存在感を示します。「おでんくん」も印象深いです。

 著者が母親の死をきっかけに書いた小説です。著者が抱く母親への思い。その思いは彼のものであり他人が共有できるものではありません。ただ、家族として普遍的なものであれば自然と共感できるはずです。 

「東京タワー」の内容

オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。【引用:「BOOK」データベース】 

「東京タワー」の感想 

者の半生

 著者の人生は、順風満帆とは言えない。四歳の時に両親が別居。オカンが身を粉にして働き、日々の生活を送る。特殊かと言えば、そうでもないかもしれない。両親の離婚や死別、別居は決してめずらしいことではありません。ただ、話で聞くのと実際に自分の身に起こるのでは、全く受け止め方は変わると思います。私はどれも経験がないので、実際のところはよく分かりません。想像と実感の間には、天と地ほどの違いもあるでしょうから。

 著者が経験してきた人生は、一体どのようなものであったのか。描かれているボクを読めば想像は出来ます。共感できるかどうかと言うと難しいかもしれません。ただ、著者の場合、両親は別居していますが不仲のために別居している印象は薄い。オトンの女関係が一因のようにも感じますが、理由は明確には描かれていません。母親と父親の間に完全な亀裂がないから、父にも会えます。たまに会うだけなので、父親らしいことをしている訳ではありません。 

父親らしいこととは何なのかの問題はありますが。

 筑豊の寂れた炭鉱町で過ごす幼い著者は、不幸だったのだろうか。母親はボクに金銭的な不自由を全くさせていません。ボクが欲しいものを買ってくれ、進学も希望どおりにさせてくれます。ボクもそれに甘えていたのでしょう。親に甘えるのは、他の子どもも同じです。彼の学生時代の自堕落な生活ぶりはひどい気もしますが、特殊でもない。ボクの母親に対する思いは、彼の人生が特殊だからこそ生まれたものではなく、自然と育まれたものでしょう。そう思えば、ボクと全く違う環境であっても、ボクの気持ちに共感できます。 

カンへの依存

 小さいころから母親と二人暮らしなのだから、母親に依存するようになるのは当然です。経済的に自立出来ていない時は金銭的に依存せざるを得ない。どんな状況であっても最後まで見放さないのが親なのですから。ただ、著者の金銭的依存は度を越しています。幼い頃や学生の時は、欲しいものを買ってもらったり仕送りをしてもらうことは普通です。欲しいものを買ってもらえない子や働きながら学校に通っている人もいるので当然とまでは言いませんが、非難されることではありません。

 しかし、母親が必死で働いて稼いでいるのを理解していながら、いつまでも依存し続けているのが信じ難い。普通は母親が苦労しているなら、早く自立して楽にされてあげたいと思うのが普通です。無駄使いもやめようと思ってもいいはず。母親に欲しいものを買ってもらい続けたり、学費や生活費を仕送りしてもらいながらもブラブラして無駄に時間を過ごす。悪いと思っていても生活が変わる訳でもない。金銭的な部分では甘えているようにしか見えません。

 母親と二人で生活したのは、ボクが高校に入学するまで。再び、東京で暮らし始めるまでは別居です。幼い頃を一緒に過ごしているのだから、母親に対し精神的に依存するのは当然です。思春期になれば親との距離も離れていくものですが。ボクは反抗期を迎える前に母親と離れたので、精神的な距離が広がらなかったのでしょう。ボクの反抗期は、東京で一緒に暮らし始めてからやってきたと言ってます。ボクも自覚しているようです。母親と距離が離れても、金銭的に依存し続けたことが母親との距離を広げなかった一因かもしれません。別居すれば日常で会話をすることもなくなり、お互いの姿を見る機会も減る。自然と自立していくように思いますが、金銭的に頼り続ければ距離が離れることもないでしょう。常に母親の庇護下にいるようなものですし。

 親に頼るのは悪いことだとは思いません。いつか親孝行をして返してあげればいい。ボクは長い間依存していたかもしれません。ただ、母親に対し、やってあげたいことも多くあった。そう思ってくれることだけで母親は嬉しかったかもしれません。 

れる死

 誰もが逃れられないのが死ですが、日常生活で死を意識することはあまりありません。意識し続けながら生き続けることも難しい。しかし、身近な人間や自らに死が迫った時には考えざるを得ません。それが大切な人であれば、嘆き、苦しむことになります。事故や病気などの突発的な事柄がなければ、親から死んでいくのが自然の摂理です。いつか親が先に亡くなり、子供はそれを看取ることになるのは分かっていることです。ただ、理屈とし理解していても、感情として受け入れられるかどうかは別の話です。子供にとって親はいつまでも親として存在し続けているような気がします。理由はないのですが、明日も来年も再来年も同じようにいるように思ってしまう。有り得ないことなのに。しかし、死を実感させられるとどうなるのだろうか。 

病気で余命が残り少ないことを突きつけられたら、どうすればいいのだろうか。

 母親とボクが東京で一緒に暮らし始めてから、ボクは何を感じていたのでしょうか。苦労を掛けた母親に親孝行をしたい。楽をさせたい。ボクのためじゃなく自分のために生きて欲しい。多くのことを感じていたでしょう。年老いた母を見て、今までの母の人生を思い返しているはずです。加えて自分の人生も。

 母の人生に終わりが見えた時に、ボクはどれほどのショックと苦悩を抱えたのだろうか。いつか死が訪れるのを、誰でも理解しています。ただ実感させられた時、初めて人はその人に対する思いを深く思い知るはずです。ボクの母親に対する思いは、今までの二人の人生があるからこそ抱くものです。二人の間には、二人しか理解し得ないことがあります。また、普遍的な気持ちとして描かれている気もします。親に対する子の思い。強弱や程度の差はあっても、同じ気がします。だからこそ、読んでいて思い知らされる気がします。 

終わりに

 前半部分は、母親に対するボクの甘えが際立ちます。親に甘えるのは自然なことです。ただ度が過ぎる。金銭的な面では特に。後半、再び一緒に暮らし始めてからのボクの母親に対する気持ちは、子供の頃の依存があったからこそ生まれたものかもしれません。依存と愛情は違いますが、関わり合っています。母親を失うことの恐怖や辛さは愛情から発生するものですが、子供の頃の依存も影響しているでしょう。

 母親の気持ちは母親にしか分からない。親は子供のためにならどんなことでもしてあげたい。自分を犠牲にしても子供のために生きていく。自分が親になって初めて分かります。本作は、読む時のタイミングで感想は変わると思います。親に面倒を見てもらっている時と、自分が親になってからでは全く違う感想を持つと思います。