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『月と蟹』:道尾秀介【感想】|世界は大きくて理不尽だから、僕たちは神様を創ることにした

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 こんにちは。本日は、道尾秀介氏の「月と蟹」の感想です。

 

 第144回直木賞受賞作です。直木賞は大衆小説のイメージがあるので気軽な気持ちで読み始めたが結構重い内容でした。登場人物の心象に焦点を当てているからだろう。

 道尾秀介氏の作品を読むのは初めてなので、作風をよく知りません。主人公たちは小学生です。大人になってから小学生の悩みや気持ちを思い出すのは難しい。それを表現するのはもっと難しいと思いますが、道尾氏はそれを表現できる作家なのだろう。

 大人になってしまうと子供の心に共感しづらくなる。ただ、登場人物たちに共感できるかどうかは別にして、子供の悩みは大人が思うほど軽くありません。大人が想像する以上に悩みます。子供だから無邪気だと限りません。

 主要登場人物は三人です。慎一、春也、鳴海。それぞれが置かれた状況は様々です。ただ、三人とも特殊で複雑な環境で生きています。

  • 慎一と春也は家庭環境
  • 慎一と鳴海の関係
  • 変化していく三人の関係性
  • 変化していく心

 三人は一般的で平均的な環境ではありません。だからこそ、心を深く描けるのだろう。悩みの深さのため、彼らが小学生だと忘れてしまいます。彼らの行動に反感や嫌悪を抱く読者もいるはずです。それだけ、彼らの心が深く描かれている証拠だろう。 

「月と蟹」の内容

「ヤドカミ様に、お願いしてみようか」「叶えてくれると思うで。何でも」やり場のない心を抱えた子供たちが始めた、ヤドカリを神様に見立てるささやかな儀式。やがてねじれた祈りは大人たちに、そして少年たち自身に、不穏なハサミを振り上げる【引用:「BOOK」データベース】 

 

「月と蟹」の感想

味を求める

 慎一と春也はヤドカリを神様と見立て殺していきます。以前にもヤドカリをライターで炙り、殻から無理やり追い出す遊びをしています。逃げるヤドカリを見て楽しんでいる。

 子供は残酷な面を持ち合わせています。自身の行っている行為の残酷さに気付きません。想像力が不足しているからだろう。自分の欲求に従って行動します。ヤドカリに同情したり、ヤドカリの立場に立つ必要もありませんが。命を弄ぶことができるのは子供だからです。海から離れた場所で出たヤドカリは死ぬしかありません。

 目的もなく退屈しのぎにヤドカリを殺していく二人に嫌悪感を感じてしまいます。子供はこれほど残酷だっただろうか。人に寄るのかもしれませんが。慎一と春也にとって、ヤドカリを殻から出す遊びは日常です。もはや何かの感情を抱く行為ではないのだろう。私は共感できないし、気味が悪いし、受け入れられません。

 しかし、ヤドカリを殺すことに意味を持たせたらどうなるのか。ヤドカリを神様と見立てて殺します。遊びと決定的に違うのは、殺すこと自体を目的としていることです。殻から出たヤドカリがどうなろうと気にしないことと殺す意思を持って殺すことは明確に違います。

 慎一たちのヤドカリに対する仕打ちに気分の悪さを感じます。胸悪くなっていく。願い事を叶えるという目的とヤドカリを殺すことを関連付けることで正当化しているのだろう。もともと悪意を持って殺していた訳ではありません。しかし、一方的に正当化したことで気味悪さが増していきます。

 儀式としてより残酷に殺し、命を弄びます。より苦しみを与える死の方が、願い事が叶うということだろうか。儀式に意味を求めます。最初は儀式を共有すること自体に意味があったのだろう。それが、いつの間にか本当に願いを叶えるための儀式になってしまったのだろう。願いは必ずしも正しいものばかりではありません。負の感情から生まれる願いは闇を大きくします。

 物事の意味は最初から存在しているものではありません。意味は作られていきます。同時に意味は手を離れ、予想外の方向へ動いていきます。 

 

めるものと奪うもの

 慎一と春也と鳴海には、それぞれ求めるものがあります。現状が満たされていないからです。

 慎一の求めるものが見えてくると、春也や鳴海が求めているものも見えてきます。ヤドカリを殺す儀式を通じて祈る願い事が、彼らの求めているものです。最初は他愛のないものです。しかし、叶ってしまうと他のことも叶うのではないかと思ってしまいます。小学生だからだろう。願いが叶った結果ばかりに目が向きます。理由や原因を考えません。儀式を行ったからだと思いたいのだろう。現実逃避です。

 ヤドカリで願いが叶うと真剣に信じているのだろうか。偶然だとしても、偶然を引き起こしたのは儀式だと思ったのかもしれません。何かを求めることは悪いことではありません。しかし、求めることが奪うことに繋がることもあります。他人が持っているものや置かれている環境を求めることによって。

 慎一は、現在の望まない状況は周りの大人たちのせいだと思っている。母と鳴海の父が付き合っていることも望まないことだろう。嫌悪し壊そうとするのは、変わりたくないからかもしれません。慎一は状況が変わるたびに、悪い方向へと進んできました。父の死、転校、馴染めないクラスです。

 求めるのは現状の維持なのだろうか。しかし、ヤドカリの儀式に鳴海を誘うのは、鳴海との関係性の変化を求めているからです。過去に因縁のある二人ですが、純粋に好意を抱いているのだろう。小学生らしい一面です。春也以外に話しかけてくれる人だからかもしれません。

 慎一にとって、春也と鳴海は必要です。しかし、三人の関係は微妙に変化していきます。春也と鳴海の距離が近づき、慎一だけが取り残されていきます。求めていたものが、求めていた形から離れます。原因は春也だろうか。それとも鳴海だろうか。母と鳴海の父だろうか。

 思い通りにならないことの原因は、自分以外の誰かのせいだと考えます。慎一が求めるものは変化しないことです。そのためには奪わなければならない。変化して欲しいのは鳴海との関係だけだろう。鳴海との関係の変化も、慎一にとって都合の良い変化でなければなりません。

 春也と鳴海の関係。母と鳴海の父の関係。これらの変化は取り除かなければなりません。その思いは、ヤドカリの儀式を通して表出してきます。儀式を通じて願いが叶ったとしても、慎一が直接手を下したことにはなりません。しかし、実際に願いが叶うと、小学生の慎一には耐えがたい苦痛になります。

 求めることが奪うことになったことに気付いていません。気付いた時に愕然となります。三人の関係は元に戻ることはない。慎一たちは全てが終わった後で気付いたのだろう。 

 

邪気さと計算

 小学生らしい無邪気さがあったとしても、内面までそうとは限りません。悩みがなければ無邪気に生きることができる。慎一たちは悩みを抱かずに生きられる年齢ではありません。小学生と言えども周りの環境や自身の境遇は理解できます。

 無邪気さを出すのは、そうありたいと願う表れです。慎一は父を亡くしている。クラスでも浮いている。鳴海の母と祖父の関係も頭を悩ませる。唯一、無邪気さを交換し合えるのが春也だけです。春也と対等な関係だからこそ、お互いに無邪気でいられます。計算された関係かもしれません。どちらも対等でいようとする意識があるから、維持できる関係です。

 計算が狂い始めたのは、鳴海が儀式に参加し始めてからです。鳴海は対等でいようと意識していません。三人の関係は難しい。自分と相手だけの関係ではありません。自分以外の二人の関係があります。それはコントルールできないし、計算できない。無邪気さを取り繕っていても心中は穏やかではないだろう。

 慎一だけがそうなのだろうか。視点が慎一なので春也と鳴海の心は分かりません。分からないからこそ、慎一は三人の関係が変わっていくことに強い不満と不安を感じます。強い憎しみを抱くようになります。無邪気さは消え、計算が頭を駆け巡ります。

 自分の願いを叶えるために、他人の不幸を願います。慎一の心は闇へと塗り替えられていく。子供だからこそ自身の心をコントロールできません。。

 三人の関係が始まった以上、なかったことにはできません。春也と鳴海の関係を作ったのは慎一ですが、望まない方向へ変わっていったのは慎一の責任ではありません。どす黒い感情は伝染するし、周りに気付かれます。春也はどこまで分かっていたのだろうか。どこまで行動するつもりだったのだろうか。慎一のために行動したのだろうか。

 春也の計算は分かりません。ただ、三人の関係が変化するたびに、慎一と春也は何らかの計算をしたのかもしれません。無邪気さを装いながら。

  

終わりに

 想像していたよりも重苦しい内容です。誰もが通る道なのだろうか。友達同士の関係性が変化していくことは、誰もが経験することです。どうすればいいのか悩むことも誰もが経験することです。しかし、慎一のように闇の感情を抱くだろうか。慎一や春也のような境遇にならないと理解や共感はできないのかもしれません。

 ヤドカリの殺し方は子供の残酷さとして許容できる範囲を超えています。慎一と春也に共感できない。彼らの心象を理解できない。胸の残った不快感がなかなか消えません。