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『罪の轍』:奥田英朗【感想】|刑事たちの執念 × 容疑者の孤独

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 こんにちは。本日は、奥田英朗氏の「罪の轍」の感想です。

 

 600ページ近い長編の警察小説ですが、一気に読み切ってしまうほど引き込まれます。事件を解決するだけのミステリーではありません。登場人物たちの心象や人生の背景が見事に作り上げられています。ミステリーでありながら、重厚なヒューマンドラマでもあります。

 1963年に発生した現実の事件「吉展ちゃん誘拐事件」をモデルにしています。物語の舞台は昭和38年で、これも現実の事件と同じです。しかし、「吉展ちゃん事件」のノンフィクションではありません。

  • この事件が社会にどれほどの影響を与えたか
  • その後の日本に何を残したか

 それらを踏まえ、フィクションの小説として描いています。東京オリンピックは日本が大きく変わる象徴です。戦後18年が経過していますが、まだまだ戦争の記憶が残っています。しかし、戦争が遠のいていくのも事実です。

 当時の時代背景を知らないと理解しにくい点もあります。今では使うのがはばかれる言葉も多い。それについては断りがいれてありますが、だからこそリアリティがあります。

 近代化と人々の心の変化、発言力と情報発信、組織と手法、新しい意識の人々など、社会は変わりつつあります。善意と悪意が大きく絡まり合います。  

「罪の轍」の内容

昭和三十八年。北海道礼文島で暮らす漁師手伝いの青年、宇野寛治は、窃盗事件の捜査から逃れるために身ひとつで東京に向かう。東京に行きさえすれば、明るい未来が待っていると信じていたのだ。一方、警視庁捜査一課強行班係に所属する刑事・落合昌夫は、南千住で起きた強盗殺人事件の捜査中に、子供たちから「莫迦」と呼ばれていた北国訛りの青年の噂を聞きつける―。【引用:「BOOK」データベース】  

 

「罪の轍」の感想

独では生きられない

 外形的な孤独と内面的な孤独は違います。誰でも孤独を感じることはある。しかし、人との繋がりでそれを埋めます。宇野寛治は常に孤独だった。母や祖母がいるので孤児ではありません。しかし、愛情は注がれない。継父の行動を見ると、むしろ憎悪と苦痛のみが残されただろう。

 対等な人間がいないことは孤独を際立たせます。宇野寛治は記憶障害があることで、人と対等な関係を築けなかった。問題は周りの人間の態度です。障害を持った宇野を下に見ます。障害を持つ人間を差別することは許されません。

 しかし、昭和38年だと障害に対する意識も今とは違うのかもしれません。記憶障害を「莫迦」と呼ぶことに当時の状況が表れています。言われる側の気持ちは、今も昔も変わらない。言われ放題だと、いずれ諦めとなり受け入れざるを得なくなる。他人との関係が健全でなくなってきます。

 宇野は北海道にいる間は常に孤独でした。礼文島にいる時も、札幌にいる時も、誰も彼と対等に向き合いません。宇野が悪事に対して罪を感じない理由は孤独だからかもしれません。人の気持ちや痛みを想像できないのだろう。

 人は社会の中で様々なことを知っていきます。宇野は自分自身が感じる痛みを麻痺させて生きてきました。他人が感じる痛みを想像することも麻痺してしまったのだろう。空き巣を悪いことと認識していながらも感じていない。罪の意識は、孤独の中では醸成されません。悪意の中で生きてくればなおさらです。

 東京で出会った町井明男は、宇野と対等に向き合います。宇野を変わっていると感じていますが、下に見ることはありません。どこかおかしいと思っていても付き合いは続くし、親身になります。宇野が明男に対して何かをしようとするのは、明男が宇野に何かをしてくれるからだろう。

 しかし、明男と出会うのは遅すぎた。宇野が明男に何かを返すためには、罪を犯さなければなりません。もはや罪の意識すらない。あったとしても、明男に返すことを優先するだろう。宇野と明男の関係は悪くありませんが、お互いの人生がすでに変わりようもないほど進んでしまっていた。

 

わりゆく社会

 「吉展ちゃん誘拐事件」がモデルです。捜査手法を大きく変えた事件です。テレビ、電話の普及。鉄道などのインフラの整備。日本が狭くなり、情報はより早く大きく広がります。

 報道協定や逆探知、テレビでの情報提供依頼など、初めてのことが混乱を招いていきます。脅迫電話の音声を公開することが適切だったのかどうかも判断がつかないほどに混乱していたのだろう。

 当時、営利誘拐の事例は少なかったのだろう。捜査手法が確立していません。加えて、技術の進歩、社会の変化、人々に意識の変化が圧し掛かります。あらゆることが従来のやり方では通用しません。既存のやり方で解決しようとするのは無理があります。確立していない新しい手法は、失敗を招いたり後手になったりします。

 失敗はより早く世間に伝達されます。必要な情報だけでなく、不要な情報も溢れます。隠したい情報や隠すべき情報も漏れ出してきます。何もかもが警察の思い通りになりません。理由は警察が変わっていないからです。

 社会が変化した時、最初に変わるのは技術です。技術が変化するから社会が変わるのだろう。人々の意識や体制が変わるのは最後です。新しい技術を理解していても、意識や考えは簡単には変わりません。過去の実績があればなおさらです。

 警察は多くの経験や手法で事件を解決してきました。これらの手法が通用しなくなると考えたくありません。しかし、柔軟な人間もいます。これらの力関係が捜査に影響を及ぼし、一貫した捜査ができないのだろう。組織は人で成り立っています。人で構成されている以上、感情とは無関係でいられないし、間違いを犯さないとも限りません。

 時代は、戦争、終戦、復興、成長と目まぐるしく変化しています。打つ手が失敗するのは、変化のスピードに追い付けないからだろう。 

 

意と悪意

 誘拐事件には被害者と家族がいます。被害者は無事に取り戻さないといけないし、被害者家族も守られなければなりません。報道協定は捜査のためでもあるが、同時に被害者のためでもある。

 事件を公表することにより、事件に関係のない人々の善意と悪意が入り混じります。電話という匿名性の高い道具は、無責任に自身の意見を伝えられます。被害者の両親の家の電話には、善意と悪意が押し寄せます。人は自身の正体がばれないと分かると本性を出します。

 何故、悪意をぶつけてくるのだろうか。両親の弱りきった姿はテレビや新聞で流れています。それでいながら追い打ちをかける。人の不幸を嘲笑うかのようにどん底に突き落とします。他人の不幸を、自分のことのように想像できないのだろうか。想像できるからこそ悪意をぶつけるのだろうか。

 現在の状況と似ている気もします。現在では電話でなくSNSですが、どちらも匿名性が高い。そして悪意が横行しています。もちろん善意もあるだろう。しかし、悪意の方が広がるのが早い。安全な場所から放たれる悪意は容赦がありません。ぶつけられる人間の痛みは想像を絶するだろう。ただでさえ弱っている人間に、次から次へと追い打ちをかけます。

 人は本質的に弱い。多くの人間の悪意に耐えられるほど強い人間がほとんどいません。味方がいれば違うかもしれませんが、それでも強くなる訳ではありません。善意も寄せられますが、悪意の方が圧倒的な力があります。いつの時代も人は変わらない。その他大勢の人間が、人を大きく傷つけます。名もなき人々の恐ろしさを感じます。

 

は誰に?

 罪は犯罪を犯した者にあります。被害者は、無条件に被害者です。被害者の行状が犯罪を引き起こしたとしても、被害者に変わりはありません。被害者自身も犯罪を犯していて、それが原因で被害者になったのならば複雑ですが。

 罪を犯した人間は、無条件に罪の全てを背負うだろうか。罪に至る過程は考慮されないのだろうか。現在でも裁判においては、加害者の生い立ちや境遇が加味されます。必ずしも結果だけで、罰の大きさが決まる訳ではありません。被害者にとっては、たまったものではないだろう。どんな生い立ちだろうと、殺された者の無念は同じです。殺されたという事実に変わりはない。

 犯人の生い立ちに同情してよいのだろうか。犯人と接する刑事たちは、人間としての犯人を見ます。被害者の思いを背負って犯人と対峙しますが、それでも犯人の人間としての側面を見ることになるだろう。犯人の人生を無視することはできません。多くの犯罪者は犯罪に至る過程があります。それを考慮する必要があるかどうかは、意見が分かれるだろう。

 悪意を持って犯罪を犯す者と、悪意を意識せずに犯罪を犯す者。どちらが悪いだろうか。人が人を裁く時、絶対的な基準(ものさし)はありません。だからこそ、人は罪と向き合う時に悩みます。

 

終わりに

 読み始めると止まりません。事件の犯人は予想がつきます。最初の殺人事件と宇野の関わり合い方も予想の範囲内です。しかし、事件に関わる人々の思いが複雑に絡まり合うことで引き込まれます。

 宇野、落合刑事、町井ミキ子の全く違う視点で描かれることで、物語は多角的に進んでいきます。