映画『死刑にいたる病』レビュー|阿部サダヲの怪演は名演か改悪か~原作との違いから見えた分かりやすさの罠~:MANPA Blog

阿部サダヲ・水上恒司主演「死刑にいたる病」

ごきげんいかがですか。まんぱです。

今回は、映画『死刑にいたる病』の感想です。櫛木理宇の小説を原作にした作品になります。ですが、観終えたときに残る印象は、小説とはまったく違うというものです。

この違いは単なる改変の問題ではなく、物語のどこに焦点を当てるかという視座の差から生まれているのだと思います。

原作小説が持っていた底知れぬ静かな恐怖を、映画的な興奮のために大胆に削ぎ落としているように感じます。

高い満足感を与えるエンターテイメント作品であることは間違いありませんが、洗練された完成度ゆえに見落とされものの正体は何だったのでしょうか。

 

阿部サダヲの怪演が生んだ功罪

本作を語るとき、主演の阿部サダヲを無視することはできません。彼が演じた榛村大和は、強烈なインパクトを与えてきます。夜道を歩くのが怖くなるほどです。ですが、強烈すぎる存在感が、小説とは違う方向へ映画を導いた最大の要因だと思います。

小説の榛村大和は、もっと無機質な存在だったように思います。何を考えているのか分からず、感情の起伏も見えません。まるで心の中にぽっかりと黒い穴が空いているような不気味さです。彼の親切さはどこか機械的で、人間性が欠けています。決して安心を与えない得体の知れなさが恐怖の核でした。

一方で、阿部サダヲが演じた榛村は、驚くほど魅力的で人間的です。声のトーンは常に柔らかく、表情は穏やかで、言葉遣いも非常に丁寧です。観客の警戒心を簡単に解いてしまいます。「この人なら、自分の悩みを分かってくれるかもしれない」。そんな致命的な錯覚を抱かせる恐ろしいほどの人間性があります。

阿部サダヲの演技は、狂気を分かりやすく外側に出しません。一見すると、どこにでもいるいい人です。ですが、いい人の皮を一枚めくると、冷徹な計算と他人を操るための鋭い知性が隠されているのです。

この二面性の見せ方は非常に巧みです。特に、面会室で雅也を見つめる際の光を反射しない瞳は、映画ならではの素晴らしい恐怖の表現と言えます。ですが、魅力的な犯人像があまりに完璧だったために、本来持っていたはずの救いようのない虚無感が少し薄まってしまったように感じます。

阿部サダヲの榛村は、あまりに人間として成立しすぎています。そのため、彼を理解不能な怪物として認識する前に、理解可能な天才的なサイコパスという分かりやすい類型に当てはめてしまうのです。

映画を盛り上げる演出としては効果的だと思います。ですが、小説の「理解しようとすること自体が罠である」という絶望的な突き放しからは遠ざかっているような気がします。

阿部サダヲの怪演は、小説を良い意味で裏切ったと言えます。ですが、その裏切りによって、映画は悪の魅力を強調しすぎてしまいました。この変質が「功」なのか「罪」なのかは、観る側の受け取り方次第だと思います。

 

筧井雅也「薄くなった主人公」と書簡形式の変化

物語のもう一人の中心人物、筧井雅也の描き方についても考えてみます。

小説における雅也は、自分なりに榛村を疑い、自分の足で調査を行い、榛村の意図を読み解こうとします。思考する主人公として描かれているのです。その中で、雅也の心の声は非常に重要でした。榛村からの手紙を読み、どう揺れ、どう迷い、どう決断を下したのか。その細かい思考のプロセスが丁寧に綴られていました。

雅也の思考を追体験することで、読者自身が榛村の手紙を受け取っているかのような深い没入感を味わったのです。この思考の積み重ねこそが、物語の緊張感を支える柱でした。

ですが、映画版の雅也は、どこか出来事に振り回されるだけの受動的な存在に見えてしまいます。水上恒司の演技は素晴らしいのですが、雅也が自分の頭で考えて行動するシーンが大幅に省略されていたように感じます。出来事に巻き込まれ、苦しんでいますが、彼自身が何を根拠にどう決断したのかというプロセスが伝わりにくいのです。

このことは、物語の最大の特徴である書簡形式(文通)の意味も変えてしまいました。原作の手紙は、文字の一つ一つが相手の心を支配しようとする言葉の罠でした。

ですが、映画では手紙はストーリーを進めるための小道具になっているように感じます。手紙が読み上げられるシーンは、回想シーンへ入るためのきっかけにすぎなくなってしまいました。

その結果、原作にあった静かで知的な心理戦は、映画の視覚的なサスペンスへと置き換えられました。雅也がもっと能動的に動き、自らの意志で榛村に立ち向かう人物として描かれていたらどうなったでしょうか。結末はもっと重層的なものになったと思います。

映画では雅也の存在感が少し薄まったことで、榛村という太陽の周りを回るだけの存在になってしまった感があります。

雅也の存在感が薄いのは、単なるキャラクター描写の問題だけではありません。自分も雅也と同じように悪に取り込まれるかもしれない。そんな現実感を弱めてしまった構造的な損失とも言えます。

映画は分かりやすさを追求した結果、雅也の内面という最も複雑で興味深い部分を少しばかり手放してしまったのかもしれません。

 

過激な描写は本当に必要だったのか

映画を語る上で、避けて通れないのが目を覆うような暴力描写です。

白石和彌監督による拷問シーンや殺害シーンの演出は容赦がありません。爪を剥ぐ、皮膚を削ぎ落とすといった痛々しい行為を正面から映し出しました。直接的な映像表現は、観る者に強いショックを与え、映画的なインパクトとして成功しています。

ですが、これほどまでに過激な描写が、物語の本質を伝えるために必要不可欠だったのかどうか疑問を感じます。

原作小説が読者に与えた真の恐怖は、暴力そのものではありません。「なぜ、あんなに優しそうな人が、これほど残酷なことができるのか」という背景の不可解さ。膨らんでいく読み手の想像力の中に恐怖の本質があったのです。

映画は、その想像力を鮮明な映像という分かりやすい形で表現しました。画面に映る血の量や犠牲者の悲鳴。これらは観客に即効性のある生理的なショックを与えます。

ですが、あまりにも強い刺激は思考を停止させてしまいます。あまりに酷いシーンを見せられると、「これは異常者の話だ」「自分とは関係ない世界の話だ」と心に壁を作って、自分を護ろうとしてしまうからです。

その結果、映画は心理ミステリーというよりも、視覚的な刺激を追求するホラー・スリラーのようになってしまいました。榛村がどのようにして人の心を奪い、支配していくかという精神的なプロセスよりも、どのようにして肉体を壊していくかという物理的なプロセスに意識が奪われてしまうのです。

白石監督の持ち味は生々しい暴力の描写にあるのだと思います。ですが、本作に関しては、その手法が裏目に出ている印象を受けます。暴力が目立ちすぎてしまったために、小説が持っていた日常のすぐ隣にある静かなる狂気が見えづらくなりました。薄気味悪さが少し吹き飛んでしまったように感じます。

過激な描写は、観客を惹きつける強い引力になります。ですが、その力が強すぎると、本当に伝えたかったはずのテーマが、単なる残酷なショーとして消費されてしまいます。

映画は分かりやすさと刺激を選んだことで、小説が持っていた内面に潜む重い毒をいくぶんか和らげてしまったような気がします。。

 

終わりに

『死刑にいたる病』は、非常に高い水準にある映画だと思います。白石監督の演出、阿部サダヲをはじめとする俳優陣の演技、観客を飽きさせない巧みな脚本。最後まで目が離せないエンターテイメントに仕上がっています。

ですが、この映画が傑作になりきれなかった理由があるとすれば、分かりやすさと引き換えに、小説が持っていた考え続けさせる毒を薄めてしまったことだと思います。

阿部サダヲの榛村は魅力的すぎて、毒を飲みやすくしてしまいました。筧井雅也は奥行きを感じられず、深淵を覗くには足取りが軽すぎました。暴力描写は雄弁すぎて、沈黙の中に潜む真の狂気を覆い隠してしまいました。

これらの要素は、映画としての完成度を支える美点です。ですが、その結果、理解を拒む怪物の物語ではなく、理解できてしまう悪の物語へと着地したように思います。

 

 

死刑にいたる病

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