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『容疑者Xの献身』:東野圭吾【感想】|論理と感情。どちらに従うことが正しいのか。

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 第134回直木賞受賞作。ガリレオシリーズの第三作目で初の長編です。「探偵ガリレオ」「予知夢」は短編集なので、トリックに様々な仕掛けが施されていますが流れは一直線です。登場人物たちも立ち位置が明確で、あまり予想外の動きをしません。トリックは予想外のことはありますが。

 初めての長編ということで期待が高まります。事件のトリックに対する期待とともに、登場人物の心の機微や人間模様などが描かれていると思うからです。人が殺人を犯すには、相当の理由があります。突発的な殺人や快楽殺人と言った殺人自体を目的としている場合は別ですが。また、殺人を計画するのと実行するのとでは全く次元が異なるります。これまでの短編でも殺人に至る犯人の動機は示されていたと思います。しかし謎解きに重点が置かれ、それほど描かれてこなかった印象もあります。本作では、目に見える事象としての殺人事件でなく、事件を中心に登場人物たちの心の動きが描かれています。

 本作のトリックは最後に明かされます。結末を知ってしまうと未読の方には申し訳ないので、極力、ネタバレなしを心掛けます。その分、感想は薄くなります。 

「容疑者Xの献身」の内容

天才数学者でありながら不遇な日日を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、二人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。【引用:「BOOK」データベース】 

「容疑者Xの献身」の感想

場人物

 物語を動かす登場人物は少ない。シリーズ主要登場人物の湯川と草薙に加え、本作の鍵となる石神と靖子・美里母娘。この4人で物語は進んでいきます。殺人事件の被害者や草薙の同僚などの登場人物はいますが、それほど登場しません。

 湯川と草薙は、人物設定が既知のものとして扱われています。本作で、彼らの人物設定について語られることはあまりない。湯川と草薙の性質や性格について、読者はすでに知っている前提でしょう。本作だけを読んでも、湯川の特異性や草薙の捜査能力、彼らの関係性を詳細に知ることは出来ません。 

3作目なので、敢えて人物設定を説明する必要性もないのですが。 

 石神と靖子・美里母娘の人物設定は、物語の冒頭に描かれています。もちろん、物語が進展するにつれ、徐々に明らかにされていくこともあります。彼女たちは本作において最も重要な人物ですので、確かな人物設定が必要です。

 事件の発端は靖子の過去に伴うものですので、彼女の過去は重要です。事件の背景として夫の暴力はありがちですが、それが原因で起こった殺人事件は逆に現実味があるのかもしれません。彼女が殺人を犯す特異な人物でないと描いているのでしょう。石神は、靖子の犯罪を隠蔽するために動きます。その動機が最も重要です。彼が彼女のために行動する理由。そこに焦点を当てて書かれています。一方的な想いを描いていますが、その描き方が物語の進展と結末に大きな影響を及ぼします。

 靖子も石神も、冒頭では物語の進展のために必要な最低限の設定しかされていません。分かりやすい反面、物足りなさもあります。二人の人間のアイデンティティを知る上で少し淡泊過ぎる気もします。 

件の謎

 事件の発端は、靖子が元夫を殺してしまったことです。

  • 殺害は突発的なもので計画性がある訳でない。
  • すぐに事件が露見し、靖子たちは逮捕されてもおかしくない。
  • どれだけ巧妙に隠しても、一人の人間の消失を隠し続けることは出来ない。

 どんな人間でも、誰かと関係性を持ちながら生きています。実際、石神もそう考え、殺人自体を隠蔽しようとはしていません。元夫富樫の死体は、早々と河川敷で発見されます。顔と指紋を消された状態で。では、彼が企てたのは一体なんだったのか。靖子たちを警察に逮捕させないためには殺人を発覚させないことが一番妥当な考え方です。しかし、その方法を取らなかった。

 その後、警察は早々に靖子に目を付けます。しかし、靖子たちのアリバイを崩せない。彼女たちのアリバイは一体どのようにして出来上がったのか。石神が企てた完全犯罪の正体とは一体何なのか。何故、靖子たちに崩せないアリバイが存在するのか。それが本作の謎です。完全なアリバイでなく、崩せそうで崩せない。警察が追い詰めようとすればすり抜けていく。突発的な殺人に施した石神の策が全く読めません。読むだけの情報や伏線を読み取れないだけかもしれませんが。石神が天才数学者だという前提があるからこそ謎が深淵なものだと感じてしまい、更に迷路に迷い込むのかもしれません。 

神が守りたいもの

 石神は靖子・美里母娘を守りたい。彼にとっての守ることとは、彼女たちを警察に逮捕させないことです。富樫というろくでもない男のために、彼女たちが不幸になってはいけないと考えます。事件の発覚。警察による拘束。その後の人生に付き纏う殺人犯のレッテル。それらは彼女たちにとって不幸な出来事であり、耐えられるはずがないと考えた。確かに石神の考えている通りです。

 ただ、彼が見逃がしている点もあります。彼女たちが殺人を犯したと言う事実を無くすことは出来ません。彼女たちは殺人という重荷を背負って生きていかなければならないのです。ろくでもない男であったとしても、自らの行いを正当化できるものではありません。

 殺人の重荷を少しでも軽くするためにはどうすればいいのか。その一つの方法が、警察による逮捕かもしれない。自らの行いを他者によって裁かれ、適正な罰を受けること。罪の意識はなくならないにしても償うことが出来ます。石神の行っていることは、償いの機会を奪っています。彼は靖子たちのために行動していますが、現実に彼女たちの救いになているのかどうか。考えどころです。 

川の行動

 前作までの湯川は、草薙の依頼で捜査に協力していました。その協力も、自分の物理学的欲求を満足させたいことが理由の場合が多い。彼を捜査に引っ張るきっかけをどうするのかが、草薙の力量のひとつでした。しかし、本作では草薙は意図せず湯川を巻き込むことになります。 

石神の部屋で帝都大の郵便物を見たり、石神と湯川が学生時代に同窓であり親しかったというのは出来すぎな気もしますが。

 湯川は草薙の思惑で事件に関わった訳ではありません。石神と旧知の仲ということで湯川の行動は自由度を増した気がします。石神との接触も、草薙とは関係ないところで出来ます。ただ、石神を疑うことになるのも自分の意志です。そのことが湯川を苦しめます。疑うことで、湯川は石神と対峙することになります。

 本作の湯川は実験して検証しない。彼は推理します。対峙する相手が石神だからかもしれない。天才数学者の考えた完全犯罪です。頭の中で完璧に計画された犯罪を暴くには、湯川も思考で立ち向かわなければならなかったのかも。もちろん、天才物理学者としての観察眼は健在です。石神の綻びを見つけるのは、湯川の観察眼です。その綻びから推理します。 

終わりに

 石神と湯川の戦いはどちらが勝ったのでしょうか。どちらの勝ちでもないのかもしれません。石神の企てた完全犯罪は完全と言えるものです。湯川に推理されたことが正解であっても推理に過ぎません。それに、湯川は石神を逮捕するために事件の真相を推理したのでしょうか。物語の結末で、湯川の本心は語られます。物理学者の湯川が論理的思考でなく、感情的な衝動に動かされている印象です。どちらの方が優秀なのかが問題ではありません。どちらも同じくらい優秀でしょう。事件の決着は、どちらにも勝ちを与えません。

 ミステリーとしては、あまりに伏線がなさ過ぎます。靖子のアリバイの真相に関わる伏線はあったのだろうか。結末で明かされたアリバイの謎は、確かに納得できる筋書です。ただ、それを予想するのは難しい。謎解きをしながら読むのではなく、明かされた謎に納得するという作品でしょうか。叙述トリックに近いのかな。