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『慈雨』:柚月 裕子【感想】|渦巻く悔恨と葛藤

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 こんにちは。本日は、柚月 裕子さんの「慈雨」の感想です。

 

 タイトルから内容が想像できませんが、表紙を見ると重厚な小説をイメージします。

 冒頭、主人公「神場智則」の夢のシーンから始まります。悲壮感漂う悪夢は、神場が背負ったものの大きさを感じさせます。そして、舞台はお遍路へと変わります。神場と妻の香代子が歩きでのお遍路の旅に出る。神場が背負ったものが大きいほど、彼が何を求めているのかが気になります。

 人生は人それぞれだし、誰かの人生だけが特別という訳ではありません。しかし、警察官は人の不幸や死を間近に見る機会が多い。無念や憤り、悲しみなど、人間の負の面を見ることになります。決して慣れないだろう。

 神場がお遍路に行った理由は、人生を振り返り、被害者の無念を思い出し、供養するためです。忘れられない事件や未解決の事件もあっただろう。解決したとしても、失われた命は戻りません。

 犯罪捜査は、被害者が発生した段階から始まります。神場が事件を解決しても、事件前の状態には戻らない。刑事の時に染み込んだ被害者や遺族の思いは、神場の心に苦しみを与えたのだろう。

 神場の人生を振り返りながら人間の心を描くヒューマンドラマだと思っていると、七番札所「十楽寺」を終えた日のニュースで様相が変わります。群馬県遠壬山で起きた岡田愛里菜ちゃん殺害事件が、神場の過去を現在へと繋げます。神場は過去に向き合う覚悟を求められます。

 神場の過去が重要な鍵になるミステリーです。心象を深く抉った内容に引き込まれます。 

「慈雨」の内容

警察官を定年退職し、妻と共に四国遍路の旅に出た神場。旅先で知った少女誘拐事件は、16年前に自らが捜査にあたった事件に酷似していた。手掛かりのない捜査状況に悩む後輩に協力しながら、神場の胸には過去の事件への悔恨があった。場所を隔て、時を経て、世代をまたぎ、織り成される物語。事件の真相、そして明らかになる事実とは。【引用:「BOOK」データベース】  

 

「慈雨」の感想

 人生を振り返った時、後悔の念を抱かない人間はいるのだろうか。若い世代と言えども後悔はあるだろう。後悔自体が悪いことではありません。人生と後悔が切り離せないものならば、どのように向き合うかが大事です。後悔には様々な理由があります。自身の行動が原因であり、避けることができたのならば大きな後悔を抱えることになるだろう。

 神場の四国巡礼は事件被害者の供養のためです。事件が起こったことに対して、神場に責任はありません。犯人逮捕ができれば、被害者に対する思いは辛くても後悔はないだろう。犯人を逮捕できなければ後悔は残るかもしれません。しかし、未解決の事件は警察全体の話であり、神場一人で背負うものではないように感じます。だからと言って責任を感じない訳はないだろう。

 ただ、神場の背負った後悔の種類は違います。冒頭の夢が、神場の後悔の大きさを物語ります。力が及ばなかった訳ではありません。事件の本質から逃げ出したことによる後悔です。神場の態度次第では違う未来が訪れたかもしれません。愛里菜ちゃん殺害事件も防げただろう。

 事件被害者の供養は大きな目的のひとつです。しかし、四国巡礼で全ての心の重荷を下ろすことができると考えていただろうか。供養するために唯一できることが四国巡礼だったのだろう。愛里菜ちゃん殺害事件を知り、後悔が目の前に立ち塞がります。後悔がより大きくなって現れます。

 神場の人生の背景が分からないと、彼がどれほどの後悔を感じているか分かりません。どれほどの重荷を背負って苦しんでいるかも。駐在所時代からの人生を描くことで、神場の人物像が見えてきます。神場は刑事であると同時にひとりの人間です。そのことが神場をより深く人間的に見せます。

 

去を見つめる

 過去を見つめ直すことは、現在の自分を見つめ直すことにも繋がります。現在は過去からの積み重ねです。神場は四国巡礼で警察官人生を振り返り、現在の自分の在り方や人生が正しかったのかどうかを問います。あくまでも自分の過去として。

 しかし、愛里菜ちゃん殺害事件が過去を現在に持ってきます。後悔が現在の苦しみになります。神場の後悔は取り返しがつきません。過去に冤罪を引き起こしているかもしれないことが心の重荷ですが、愛里菜ちゃん殺害事件が心の重荷を増します。

 後悔の上に現在の事件が積み重なります。事件の概要を聞き知った時、神場の胸に去来したものは何だろうか。冤罪の可能性?。犯人を野放しにしたこと?。悲惨な事件を再度引き起こしたこと?。それら全てを背負うことになります。

 必ずしも冤罪とは限らないし、純子ちゃん殺害事件と愛里菜ちゃん殺害事件の犯人は違うかもしれません。しかし、問題はそれだけではありません。可能性のあることを再捜査せず、組織の論理に屈してしまったこと。納得できずとも受け入れてしまったこと。自己保身と諦めと逃げがあったこと。後悔は数え切れません。

 神場は過去に二度逃げています。

  • 子供の頃、イジメられていた友人を見捨てたこと。
  • 純子ちゃん殺害事件の真相から目を背けたこと。

 どちらも今となっては取り戻せません。後悔を背負い続けるしかないのだろうか。それを見つめるための四国巡礼でもあるのだろう。

 神場は本能的にふたつの事件の繋がりを確信したのだろう。神場は退官しています。すでに刑事でも警察官でもありません。元刑事としてできることは限られていますが、できることをするしかありません。それが過去と向き合うことになるのだろう。

 四国巡礼で過去と向き合い、愛里菜ちゃん殺害事件で現在と向き合う。彼の巡礼の旅は、進行形で起きている事件とともに進んでいきます。事件の捜査が進むとともに、巡礼の旅も進む。巡礼が終わり結願した時、事件の結末は何をもたらすのだろうか。神場の人生は何を迎えるのか。彼の人生に救いは来るのか。

 事件の行く末と神場の人生の行く末が重なり合います。巡礼の旅が終わりに近づくにつれ、神場の人生はより深く抉られていきます。 

 

織に生きる

 神場の後悔の原因は組織の論理です。純子ちゃん殺害事件に真犯人がいる可能性があった。可能性であることが再捜査への決心を揺るがせたのだろうか。

 DNA鑑定と自白で八重樫を犯人にしたが、当時のDNA鑑定の精度は高くない。数百人に一人の割合で他人と一致する。容疑者が数百人いれば、同じDNAと鑑定してしまう人間がいるということです。それでも状況証拠の積み重ねや自白で犯人を特定していくのだろう。八重樫を犯人と判断したのは仕方のないことかもしれない。

 八重樫のアリバイを証明する目撃情報は確実性がなかった。そのことが問題をややこしくします。組織は波及効果を考えます。ひとつの事柄がどのように拡がっていくのか。どう影響するのかを重視します。

 現場にいない幹部が考えるのは全体のことです。冤罪の可能性を追求することは当然しなければならないことですが、その結果引き起こされることはDNA鑑定を決め手として犯人を割り出した事件の再捜査です。警察や検察の信用も失墜します。もし冤罪が証明されれば、引き起こす影響は大きい。それだけ冤罪は許されないことだということだろう。

 神場の後悔の原因は、再捜査しない方針に従ったことです。同意も納得もしていませんが、動かなかったことも事実です。八重樫が犯人だと確信できるならば、再捜査すればいい。しないということは、冤罪の可能性を否定していないということです。

 神場はどう行動すればよかったのだろうか。組織に生きる者は、個人を押し隠さないといけない時もあります。しかし、それは正義のために行われるべきであり、そうでないならば心に闇を背負います。

 神場の苦しみは逃げ出したことであり、考えないようにしたことです。愛里菜ちゃん殺害事件は、組織の責任と同時に神場の責任でもあるのだろう。

  

去との決着

 四国巡礼は今までの人生を振り返るためです。後悔を背負った人生に意味を求めたのかもしれない。過去をやり直すことはできません。過去の自分を肯定するか否定するかです。

 神場の人生は後悔ばかりではないはずです。駐在所時代に泥棒を逮捕したことは、彼の警察官としての正義と正しさを表現しています。それらがあったとしても、後悔が帳消しになることはありません。負の出来事がより思い出され、忘れられない。神場は逃げたことを決して忘れないだろう。

 しかし、神場は人生を一人で歩いてきた訳ではありません。四国巡礼を共にする香代子。捜査一課長の鷲尾。須田。幸知。彼女たちは神場と共にいました。神場が苦しんでいる姿も見ているだろう。神場の理解者たちです。

 神場は何もかもを一人で背負おうとします。確かに、純子ちゃん殺害事件で逃げた。それは鷲尾も同じです。鷲尾が未だに純子ちゃんの夢を見ていることを知った時、神場は驚きます。過去を背負っていたのは自分だけではないと知ります。一人で生きて、一人で背負ってきた訳ではない。そう気付くことで、周りの人間に意識が向きます。

 人は一人で生きていけるほど強くありません。そのことを悟ったのだろう。過去に向き合う時、現在を見つめる時、一人では背負いきれないものもあります。その時に、周囲に気付けるかどうかで人生は変わるのだろう。

  

終わりに

 神場の後悔を描くことで、彼の人生と心の内が深く描かれます。愛里菜ちゃん殺害事件の犯人は誰なのか。16年前の事件と同一犯人なのか。ふたつの事件がミステリーとして描かれます。それ以上に神場の心象が物語の最も大きな要素です。

 ミステリーですが、ヒューマンドラマの色彩が強い。神場の生き方を見て、自分の人生をどのように生きていくか、生きてきたかを考えてしまいます。