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『何もかも憂鬱な夜に』:中村文則【感想】

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 こんにちは。本日は、中村文則氏の「何もかも憂鬱な夜に」の感想です。  

 

 タイトルから想像するのは暗く重い小説です。実際、全編を通じて重く苦しい。死をテーマにした小説に明るさを求めるのは難しいのかもしれない。しかし、死だけに焦点を当てている訳ではありません。「死」は「生」の行き着く先であり終着です。死を考えるためには、生について考えなければなりません。

 冒頭の主人公の夢は死刑制度の暗喩だろう。赤い鳥を被害者、蛇を加害者、人々を世間や執行者に見立てているように感じます。主人公は心の奥底に何を隠しているのか。夢となって現れる状況は何を示唆しているのか。闇を眺め、憂鬱な心を抱き続ける彼らは救われるのだろうか。  

「何もかも憂鬱な夜に」の内容

施設で育った刑務官の「僕」は、夫婦を刺殺した二十歳の未決囚・山井を担当している。一週間後に迫る控訴期限が切れれば死刑が確定するが、山井はまだ語らない何かを隠している―。どこか自分に似た山井と接する中で、「僕」が抱える、自殺した友人の記憶、大切な恩師とのやりとり、自分の中の混沌が描き出される。【引用:「BOOK」データベース】 

 

「何もかも憂鬱な夜に」の感想

罪と死刑制度

 死刑について滔々と語られるシーンが登場します。現在、日本には死刑制度がある。存在するからには執行者がいます。人を殺せば、法の定めるところにより死刑判決が下されることがある。

 殺人者は自己の意思(突発的なこともあるが)で他人に死を与えます。刑務官は自己の意思ではなく、職務上の命令で死刑を執行します。命令だからと言って気が軽くなるはずはありません。刑務官の真の思いは実際に死刑を執行する立場にならないと決して分からないだろう。

 死刑制度の是非については、人それぞれの立場によって様々です。先進国で死刑制度を存続させている国は少ない。世界の流れは死刑制度の廃止なのだろう。しかし、日本では約80%の人たちが死刑を容認しています。積極的か消極的かの違いはあるだろうし、終身刑が存在すれば変わる可能性もあります。しかし、残虐な犯罪には相応な罰が必要だと考える人も多い。

 死刑制度の廃止の理由は様々です。

  • 国家が死を与える権利があるのか
  • 刑罰として残酷
  • 冤罪だった場合、取り返しがつかない

 全て正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。立場次第です。被害者や被害者家族としての立場と第三者としての立場では全く違います。何人もの人を残虐に殺した人間は、どのような刑罰を受ければ罪を償えるのだろうか。人間が人間の命を裁くことに完璧な正当性や根拠を求めることはできないのかもしれない。

 犯罪と刑罰を法律で決めている理由は、国家が刑罰を与えることで個人の復讐を認めないためです。全ての国民が納得する刑罰でないと、国が代行する意味がありません。約80%が死刑制度を容認しているのは、死刑に変わる刑罰が存在しないことを意味しているのだろう。

 では、冤罪の可能性をどうするのか。死刑が執行された後に冤罪が発覚すれば取り返しがつかない。しかし、数十年の服役後に冤罪が発覚した時に取り返しがつくのか。人生の大半を刑務所で過ごした人間に対して、金銭的な補償をすることで取り返せるとは思えません。また、死刑判決には明確な基準はない。同じような犯罪を犯していても刑罰の軽重が出ます。

 同じ犯罪でも背景は違います。だからこそ人が裁くのだろう。人が裁く以上、明確な線引きは難しい。判決に納得できない事件もあるだろう。それに対して死刑を執行しなければならない刑務官の思いは想像できません。だからと言って、機械的な線引きで犯罪と刑罰を決めることはできないだろう。 

 

害者の生はどこに

 死刑制度を考える時、被害者の存在が忘れられてはなりません。被害者や遺族の思いを考えると、死刑制度の存続はやむを得ないのかもしれない。もちろん冤罪の可能性がある以上、無条件に賛成という訳ではありません。冤罪を無くす方法は考えなければならない。

 死刑制度の廃止の理由で最も多いのは冤罪だろう。また、罪の償いは生きてさせるべき。死刑制度が犯罪抑止にならない。国家が人を殺すことは許されない。更生の可能性がある。こんなところだろうか。

 殺された者の遺族が、加害者に死を求めるのは極めて普通の感覚です。どんな罰であっても被害者は生き返りません。遺族は当然承知している。それでも犯人に死を求めるだろう。

 刑罰は被害者の復讐のために存在する訳ではありません。国家を安定させ、安全に維持するためにあります。刑罰の目的は、被害者のためにあるのではない。犯罪抑止が大きな目的です。犯罪抑止だけでなく、国家は国民の信頼を必要とします。犯罪に対して適切な罰が与えられないと国家に対し信頼がなくなるだろう。

 被害者の命が突然理不尽に奪われることに対して、どのような罰を与えればいいのだろうか。どんな罰だろうと被害者の悲しみは無くなりません。だからと言って被害者を無視してはいけないだろう。殺人に対する罰として死刑があるのは自然なのかもしれない。

 

間の命

 山井は控訴しませんが、主人公は控訴させようとします。刑務官に控訴を促す役割はないだろう。そもそもそんなことを言っていいのかどうかも疑問です。山井には死刑判決が出ています。主人公は、山井が世界の多くのことを知らずに罪の償いとして死を選ぶことが納得できないのだろう。

 主人公は山井に「お前とお前の命は別物」だと話しかけます。殺したお前に罪はあるが、お前の命に罪はない。生物が生まれてから脈々と受け継がれてきた命は、お前の命でありながら世界の必然としてお前の命として存在していると言っています。

 長い時間の繋がりとして、過去の全てを背負っているということです。繋がれた命のために生きて多くのことを知っていくべきだから、控訴して命のためにやるべきことをやるべきだと主張している。

 「お前」と「お前の命」の違いは抽象的です。「お前」は意思決定をして、自分自身の人生を決めていきます。死刑になって当然のことをしたのも「お前」です。しかし、「お前の命」は過去からの繋がりとして存在し、罪に対する責任はない。しかし、お前とお前の命は不可分です。命があるから山井が存在します。山井が存在するのは命があるからです。山井は命の上に成り立っています。

 山井が死刑で償うなら、不可分の命も償うべき対象です。不可分のものを可分にしてしまうことができるのかどうか。責任のない命のために、山井自身が生きて世界を知っていく。山井の責任の取り方は命に引きずられます。分けられていながら、分けられていません。

 被害者の苦しみはどうなるのだろうか。被害者の命には罪がありません。命だけでなく、被害者自身にもです。被害者についてはあまり語られません。語られるのは、お前(山井)の責任だということだけです。被害者も世界を知り、命を繋げていく存在ではないだろうか。生きている山井の存在だけを真剣に考え、人間としての生き方や在り方を論じています。山井の命に罪がないなら、被害者の命は何なのだろうか。不可分だからこそ、人間は意思を持つ者として生きています。命だけを分けて考えるのは無理があるのではないだろうか。

 主人公は過去に闇を抱えているのだろう。闇自体が明確ではありませんが、自分自身の闇と向き合わなければならない。その時に、自分自身と命は違うと考えれば、自分の命のために世界の中で生きていくことができます。

 山井に語り掛ける内容は、自身に語り掛けているのだろう。だからこそ、主人公の主観的な主張になり、違和感が残ります。

  

終わりに

 生と死に対する向き合い方や死刑制度について、著者の主張が大いに反映されているのだろう。登場人物の言葉を借りて、著者が伝えたいことを話させている印象です。それはそれで構いません。ただ、主人公や山井などと違う考えの人たちが登場してこないことが、一方的な印象を受けてしまいます。考えさせられる内容でしたが。