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『海辺のカフカ』:村上春樹【感想】|「僕」が立ち向かう先にあるものは・・・

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 少年カフカとナカタさんの2つのパートが交互に語られていきます。奇数章は一人称で少年カフカが描かれ、偶数章が三人称でナカタさんが描かれています。ふたつの世界が交互に描かれているのは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を想起させます。著者も続編として執筆しようと考えていたとの話もあります。そうならなかった訳ですが。

 ふたつの物語が交互に描かれるからと言って、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と同じ構成かと言えばそうではありません。全く違うとも言えます。何故なら、「世界の終り~」はハードボイルド・ワンダーランドという現実に非現実が入り込んだ世界と世界の終りという非現実の世界が描かれています。一方、僕とナカタさんはどちらも現実世界に住む人間です。ただ、二人の現実世界を非現実世界が取り巻いています。それぞれが現実と非現実の間を行き来します。四つの世界から構成されているとも言えます。

 読後に感じたことは、本作の解釈をどのように考えればいいのか途方に暮れたということです。著者は読者の数だけ解釈が許されるストーリーだと言っています。それだけ多様な解釈が生まれる作品ということです。それは読者としては難しい。私の感想は私自身のものに過ぎません。しかし、それも許されるものだと思っています。ちなみに感想であり、書評や考察ではありません。  

「海辺のカフカ」の内容

「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」―15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけじゃない。古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真…。 

四国の図書館に着いたカフカ少年が出会ったのは、30年前のヒットソング、夏の海辺の少年の絵、15歳の美しい少女―。一方、猫と交流ができる老人ナカタさんも、ホシノ青年に助けられながら旅を続ける。“入り口の石”を見つけだし、世界と世界が結びあわされるはずの場所を探すために。謎のキーワードが二人を導く闇の世界に出口はあるのか?【引用:「BOOK」データベース】

 「海辺のカフカ」の感想 

「僕」の物語 

まれた呪縛

「お前は父親を殺し、母親、そして姉と交わるだろう」

 父親から愛情を受けることなく、このような予言を受けます。予言は装置として僕に埋め込まれていると表現されています。装置が意味するところは、然るべき時に然るべき形で動くということでしょう。装置はただ決められたとおりに動くだけです。僕にとって予言は刻み付けられた避けがたい未来です。そうは言っても、僕はその未来から逃れるために、15歳という時期に家出をします。15歳より前では早すぎるし、それより後になると手遅れだと。15歳より前に家を出ると、すぐに警察に連れ戻されるという現実的な問題だろうか。手遅れというのは、予言が実行されてしまうということを意味するのだろうか。

 この呪いの言葉は、ギリシア悲劇の「オイディプス王」に登場する予言と同じです(姉が含まれている点が違うが)。何故、この予言から逃れようとするのでしょうか。父親を殺すことも母や姉と交わることも人の倫理に反することです。殺人は社会的制裁も課されることになります。彼はそのことを恐れたのだろうか。もちろん、人の道に外れたことを避けたい気持ちは十二分にあったはずです。それ以上に父親の予言に縛られ、その予言が装置のように自らの行動を決めてしまうことに恐れを抱いたのでしょう。

 僕は予言が避けがたいものだと認識していたのだろう。避けがたいと考えていたので、家出という手段で父親から離れることを決意した。避けられないものという認識を当初は持っていなかったのだろう。ただ、何もせず父親と住み続ければ、この装置は必ず作動すると感じています。それほどまでに、父の呪いは彼を縛っています。どこに彼をここまで脅かすものがあるのでしょうか。父の姿が徐々に明らかにされていくとその理由が浮き出てきます。父が「絶対的悪」そのものだからです。

 彼は呪いから逃れるために家出をします。二度と戻らないつもりだったのだろうか。予言では期限は決められていません。彼が予言を実行するのがいつとは明確でない。そうなれば、家にいつ戻れるのか分からない。予言から逃れるためには、二度と東京に戻れないかもしれません。二度と戻らない家出なら、15歳が最も良い時期と言い切るのは早い気もしますが。 

源的な悪

  村上春樹の小説には、しばしば根源的な悪(絶対的悪)が登場します。本作における絶対的悪は、カフカ少年の父親です。ただ、カフカの父親は直接的に登場しません。カフカ少年の言葉で表現されています。カフカ少年に呪いの予言を与えたことで、彼の父親は悪として描かれます。根源的な悪を表現する時、人間としての姿だけで伝えるのは難しいのかもしれません。

 父親と顔を合わせないようにするカフカ少年。父親も工房に籠りっきりの状態。父親とカフカ少年の間に普通の親子関係が存在しないことは明確ですが、幸せな家庭でないにしろ有り得ない家庭でもありません。ただ、呪いの予言が存在します。その予言がどのようにしてカフカ少年に与えられたのかは描かれていません。ただ、埋め込まれています。

 父親という実体には、根源的な悪を感じません。「呪われた予言=父親」という繋がりが、父親を根源的な悪として認識させています。一方、父親の特異な行動(家庭を顧みないということは別にして)が突出していないからこそ、呪われた予言が強調されています。根源的な悪については、後述するジョニー・ウォーカーでも少し書きます。 

15歳と現在の佐伯さん

 佐伯さんには多くの謎があります。

  • 図書館に現れる15歳の佐伯さんは何なのか。
  • 彼女はカフカ少年の母親なのか。
  • 現在の佐伯さんは何をしようとしているのか。

 佐伯さんとナカタさんはともに影が薄い。比喩でなく物理的に薄い。彼女たちは自らの半身を失っています。ナカタさんは昏睡から目が覚めた時に記憶と読み書きを失い、知的障がい者になります。ナカタさんは違う世界へと引き込まれ、戻ってくる時に半身を失ったということです。同様に佐伯さんも半身を失っているということは、違う世界へ足を踏み入れたことになります。

 彼女は、過去、恋人と恋人との世界を守るために入り口の石を開きます。それが正しい道だと信じたからです。その時に根源的な悪が現実世界へ出てくることにより、恋人を失う(死)ことになります。図書館に現れる15歳の佐伯さんは入り口の石を開いた時の佐伯さんなのでしょう。佐伯さんにとって最も幸せな時期だったことは間違いありません。向こう側の世界へ足を踏み入れた時、根源的な悪が出てくる代わりに15歳の佐伯さんは向こう側に取り残されたのだろうか。そうだとすれば、現実世界にいる佐伯さんは15歳の過去を失い、現実の恋人も失っていることになります。

 向こう側の15歳の佐伯さんは過去の記憶と共に生きています。現実世界の佐伯さんは恋人を失い、過去の記憶も向こう側にあります。現在の佐伯さんはナカタさんと違い、過去の出来事の全てを覚えています。しかし、記憶と共に生きるということと知っていることは違うのでしょう。現在の佐伯さんは、15歳までの佐伯さんとは違う存在です。

 佐伯さんはカフカ少年の母親なのかという疑問もあります。結論的には、彼の母親ではないと思います。カフカ少年の呪いを解くために、彼女をメタフォリカルな母親と考える必要があったということでしょう。さくらも同様に実の姉ではないのでしょう。彼女もメタフォリカルな姉として存在しているのです。  

島さんと山の中の小屋

 カフカ少年にとって、大島さんは理解者として描かれています。また、大島さんは佐伯さんの理解者としても描かれています。佐伯さんに対しては大島さんの一方的な理解なので、佐伯さん自身は大島さんを理解者だと考えていませんが。

 大島さんは、何故、性同一性障害のゲイとして存在しなければならなかったのでしょうか。その理由はよく分かりません。男性のカフカ少年と女性の佐伯さんの両方の理解者になるためでしょうか。こちら側とあちら側という世界の有り様の表現のひとつとして、大島さんが存在しているのでしょうか。男性と女性をこちら側とあちら側に重ね合わせていると考えるのは、あまりに安易で単純な発想だとは思いますが。少なくとも、大島さんは性別で言えばどこにも属していないと言えるし、どこにも属しているとも言えます。それは観察者として存在しているし、当事者として存在している。極めてニュートラルな存在です。

 彼は、カフカ少年を森の小屋に送り届けます。一度目は、図書館で生活させるための準備をするため。二度目は、警察からカフカ少年を隠すため。どちらもカフカ少年の現実的な問題を解決するための一時的な避難です。ただ、そのために森の奥の小屋にまで行く必要があるのかどうか。大島さんもカフカ少年の頃に、森の小屋で一人で過ごした経験があります。最初に森の小屋にカフカ少年を滞在させたのは、自らの経験をカフカ少年に経験させるためでしょう。

 何故、カフカ少年に自らの経験を体験させる必要があったのでしょうか。大島さんの意図は読み取れません。少なくとも大島さんにとって必要不可欠なことであり、カフカ少年にとっても必要不可欠なことなのです。一度目の経験があるからこそ、二度目に訪れた森の小屋でカフカ少年は森に入っていくことになります。二度目の彼の行動のためには、一度目は必要であったということです。物語の展開上の必要性だったのかもしれません。 

いを解く

 僕が家出した目的は、父親の予言から逃れるためです。少なくとも父親と離れれば、父親を殺すことはありません。父親を殺さなければ、母と姉と交わることもないということです。カフカ少年がいつまで家出を続けるつもりだったのかは分かりませんが。15歳という年齢と持ち合わせていた現金から推測すると、二度と家に帰らないというほどの決意は感じられません。予言が現実になる期限が決まっている訳ではないので、カフカ少年の家出にそれほど必然性は感じられない。ただ、逃げないといけないという恐怖が彼を支配していただけなのでしょう。 

父親を殺すという物理的な行為から逃れるには、物理的な距離を取ればいいというのは理に適っています。

 ただ、ナカタさんがジョニー・ウォーカー(父)を殺した時、カフカ少年の手は血に塗れています。高松にいるカフカ少年が父親を殺すことは出来ません。ナカタさんがジョニー・ウォーカーを殺した経緯は後述します。ジョニー・ウォーカーはナカタさんに殺されましたが、殺された行為をカフカ少年に付け替えたのでしょう。そう考えれば、カフカ少年は次のように悟ったのかもしれません。

物理的な逃亡では、予言から逃げられない。

 このままでは、母と姉と交わることになります。それを回避するために予言を実行するしかないと考えた。逃れられないなら予言を遂行すればいい。ただ母と姉と交わるのではなく、メタフォリカルな母と姉と交わることで予言を遂行します。その母と姉が、佐伯さんとさくらということでしょう。 

 佐伯さんもさくらも彼の実の母でも姉でもありません。そのことは誰もが気付いています。それでいながらも、カフカ少年は彼女たちを母や姉として交わることで呪いを解くのでしょう。  

 

「ナカタさん」の物語 

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梨県の集団昏睡

 ナカタさんの物語は三人称で語られます。そのためか、一人称で描かれる僕の物語のための物語と感じます。ナカタさんの物語は山梨県の集団昏睡事件から始まります。ナカタさんは、この事件で記憶と読み書きを失います。同時にあちら側の世界に半身を置いてきてしまいます。彼が自分のことを中身が空っぽと言うのは、中身である半身を失ったからでしょう。

 彼があちら側に行ってしまったのは何故でしょうか。事故のようなものだと思います。そもそもあちら側に行く入り口を開いたのは誰だったのでしょうか。引率の女性教師の告白の手紙に答えがあります。彼女は、ナカタさんたちをお椀山に引率する前の晩に夫と夢の中で極めて現実感のある性交をしています。おそらくその時に入り口の扉が開かれたのでしょう。彼女が開いたのか夫が開いたのかは読み取れませんが、彼女たちが性交したまな板のような岩は、僕が出会った軍人たちが座っていた岩と同じなのではないでしょうか。まさしく入り口にいたのでしょう。

 彼女は、入り口を通りあちら側に行くはずだった。彼女の夫がそのように望み、彼女も望んだのでしょう。しかし、あちら側に行ったのはナカタさんでした。彼があちら側に行った理由は様々あります。家庭内での虐待や女性教師の暴力などが複合的に作用したのでしょう。ただ、彼はあちら側に行くべき人間ではありません。ナカタさんは帰還できましたが、既にナカタさんではなくなってしまいました。 

ョニー・ウォーカー

 ジョニー・ウォーカーはカフカ少年の父親であるとともに、根源的な悪として登場します。カフカ少年の父親でありながら、ジョニー・ウォーカーの姿で登場する意図は何なのか。また、ナカタさんに自分自身を殺すように仕向けるのは何故なのか。これは父親と根源的な悪は可分の存在と言うことです。ジョニー・ウォーカーが登場することで「カフカ少年の父親=根源的な悪」でありながら、ふたつは可分な存在だということが分かります。

 佐伯さんが開いた入り口から根源的な悪が出てきたのならば、別次元の存在でないと辻褄が合いません。父親は根源的な悪に乗っ取られたか、もしくは招き入れたのか。予言が実行される時期が近づくということは、根源的な悪にとってカフカ少年の父親は不要な存在になってきているということです。

 悪は承継されなければなりません。承継されるためには、予言が実行されなければならないということです。根源的な悪がカフカ少年に与えた予言の遂行に拘るのは、彼に承継されるためです。カフカ少年の父親である肉体が殺されても根源的な悪には影響がない。予言の通りカフカ少年に殺されなければならない。しかし、カフカ少年はいない。そこでナカタさんに白羽の矢が立った。ナカタさんを介在しても予言を遂行できるのはナカタさんがあちら側に行った人間であり、中身が空っぽだからなのでしょう。あちら側からやってきた根源的な悪とあちら側から帰ってきたナカタさん。ふたりの共通点はあちら側ということです。そのことがどのように作用したのかは読み取れなかったですが。 

野くんとカーネル・サンダース

 星野くんは、僕の物語においてもナカタさんの物語においても部外者です。ナカタさんに自身の祖父の面影を抱き行動を共にします。ひとりで行動することが難しいナカタさんのための存在です。彼がいなければナカタさんは思うように行動出来ません。

 一方、カーネル・サンダースは「デウス・エクス・マキナ」です。伏線もなく物語を強引に解決に導く手法をどのように感じるか。必然性や論理性のない都合の良過ぎる展開を是とするか非とするか。今更、必然性も論理性もないのですが。

 星野くんは、現実世界の行動を手助けするために存在しています。カーネル・サンダースは、非現実世界との繋がりを手助けするために存在しています。星野くんは「デウス・エクス・マキナ」ではありませんが、カーネル・サンダースに対する姿勢を見ると星野くんも都合の良い存在です。彼は最初から最後まで物語の本質に気付かず行動しながらも、本質に係わり続けます。そのことが、彼の都合の良さを更に意識させます。 

終わりに

 僕と佐伯さんとナカタさんが高松に集結することで物語は結末を迎えます。ただ、出会うべき人と出会ってはいけない人が混在しています。僕とナカタさんは出会ってはいけない。彼らが出会うということは、悪の承継が完成するということです。大島さんによって阻止されますが。

 一方、ナカタさんと佐伯さんは出会う必要があります。そもそも出会うことは佐伯さんによって予言されていたように感じます。 

 本作で登場する人物。起こる出来事。物語の方向。何もかもが複雑に絡まり合うとともに何かが暗示されています。一方向から見れば、呪われた予言から逃れるための「僕」の物語に過ぎません。結果的に予言は完遂されなかった。僕は予言から解放され、新しい人生を歩み出すことになります。成長の物語というよりは、新しいスタートの物語です。著者が意図する解釈に辿り着くことは難しい。ただ、読み手が感じたことを素直に受け止めればいい。村上作品を読むたびに同じことを感じます。