第6回大藪春彦賞、第25回吉川英治文学新人賞、第57回日本推理作家協会賞の三賞を受賞した垣根涼介の代表作です。戦後の南米移民政策をベースに、ハードボイルド・ミステリー・ヒューマンドラマと言ったあらゆる要素を含んだ作品です。スピード感溢れる展開に引き込まれていきます。
本作で戦後の日本政府と外務省の移民政策の非道さを初めて知りました。もちろん、小説内で描かれている移民政策(物語中では棄民政策と断じています)の全てが真実かどうかは自分で調べて判断する必要があります。それは別にして、移民政策を告発するためだけの小説でないことは明白です。それに留まらない圧倒的なエンターテイメント作品です。コロンビア麻薬シンジケート・殺し屋と言った不穏な存在から、著者の車好きの側面も見せてくれます。
「ワイルド・ソウル」の内容
その地に着いた時から、地獄が始まった―。1961年、日本政府の募集でブラジルに渡った衛藤。だが入植地は密林で、移民らは病で次々と命を落とした。絶望と貧困の長い放浪生活の末、身を立てた衛藤はかつての入植地に戻る。そこには仲間の幼い息子、ケイが一人残されていた。そして現代の東京。ケイと仲間たちは政府の裏切りへの復讐計画を実行に移す!【引用:「BOOK」データベース】
「ワイルド・ソウル」の感想
移民政策
戦後の南米移民政策が物語の発端になっていますが、私自身あまり知識がありません。移民の経緯や裏にある政府の思惑についても知りません。ブラジルなどに日系人が多いのは戦後の移民によるものだと認識はしていても実態はよく知らない。苦労はしたのでしょうが、現地に根付くことができたのだと思っていました。戦後の貧しい日本を出て新天地を目指した結果、現在は日本の方が圧倒的に豊かになっているのは皮肉を感じてしまいます。
フィクションの小説なので脚色されている部分もあるのでしょう。しかし、移民政策は本作の根幹を成す前提です。下地となる南米移民政策について、著者は相当に調べ、取材しています。実際現地に足を運んでいます。だからこそ真実味があります。相当に事実に基づいていると考えていいのかもしれません。もちろん、移民政策を理解するには自分自身で史実を調べてみる必要はあります。それは今後に置いておくとして、著者の描く移民政策は真実の一面を見せていると考えていいと思います。多くの入植者の真の姿なのでしょう。
移民政策は、にわかに信じられない気持ちになるほど残酷です。当時、情報を得る手段は限られています。国民にとって南米ははるかかなたの国であり、情報は手に入らない。国が喧伝する姿を盲目的に信じてしまったのは仕方ないことです。移民先の国によってかなりの差もあったようです。
本作で描かれているブラジルが一番悲惨だったのだろうか。
成功者も存在するが、例外的な存在です。衛藤も結果的に成功を収めていますが、アマゾンで妻と弟を亡くし人生の多くを苦しみの中で過ごしています。社会的な成功を収めたからとって、そのことで全てが報われる訳ではありません。外形的な成功と真の幸せは必ずしも一致しない。
戦後の日本も悲惨な状況でした。その悲惨さから逃れるために南米に渡った結果が、更なる悲惨な状況だったのでは何と言っていいか分かりません。日本は高度成長を遂げるが、一方の移民はその恩恵を受けられない。
何故、日本で戦後の移民政策の結果が伝わってこないのでしょうか。伝わっているのかもしれませんが、多くの人々にとって他人事のように捉えられているのかもしれません。過去のこと。遠い国のこと。それでは済まされない。
緻密に描かれたアマゾンへの入植者の状況は、著者の執念のようなものを感じます。緻密で現実感のある描写は、その後の東京での復讐劇のためには必要不可欠です。復讐には相応の動機が要ります。移民政策は動機として十分過ぎます。アマゾンでの生活は、読み進めるほどに心が苦しくなります。
フィクションの小説がきっかけですが、戦後移民のノンフィクションを読んでみようという気持ちになります。事実を描いているのか、誇張されているのか。誇張がないとすれば、あまりに酷い。
爽快な復讐劇
衛藤に復讐を決意させたのはケイです。ケイに促された結果、彼は復讐を実行します。彼の人生の中で復讐は必然だったのだろうか。復讐は積み重ねられた恨みから行われます。恨みが深いほど、復讐は凄惨になるはずです。妻のエルレインと娘のマリアが惨殺され犯人に復讐したケイ。彼の凄惨な復讐劇こそが復讐と呼べるものでしょう。
衛藤の復讐は少し違います。移民の苦しみと死に対する復讐は、ケイが起こした復讐と同等の凄惨さを伴ってもおかしくありません。日本で実行できるかどうかは別にしてですが。しかし、衛藤は命を奪うことだけを目的としていません。日本政府と外務省に過ちを認めさせることを目的にしている。その過程で命が失われても仕方ないと考えてもいますが、それでも無関係の人を巻き込まないよう配慮しています。ストレート過ぎる復讐でないからこそ難しさがあり緻密な計画が要ります。ケイの南米気質が緻密な復讐と場違いな雰囲気を醸し出しますが。
エルレインとマリアの復讐と日本での復讐劇。ケイは復讐を成し遂げるためにはどんなことでもする姿を見せておきながら、日本では南米の陽気な雰囲気を纏い続けます。どこかゲームのような雰囲気が続く。直接的に死を与える復讐でなく、緻密に計算された復讐劇だからだろうか。だからこそ、計画通りに事が運んでいくと爽快感があります。
ケイと松尾
彼らは同じ入植地で育ち、両親を亡くします。両親を失った過程は違いますが、放り出された状況は変わりません。その後の育ち方が、彼らの人生を大きく変えてしまうことになります。どちらが幸せなのかを比べることに意味はない気がします。社会的にはケイは日の当たる道を歩み、松尾は裏社会を生きています。引き取られた(拾われた)相手の違いと育った国の違いが、彼らの性質を大きく変えてしまいました。生き延びたという意味では同じですが。ケイも両親の死とアマゾンの記憶という消えない苦しみを抱いていますが、現在の状況はあまりに違い過ぎる。運命は優しくありません。
ただ、松尾にとってケイは羨望の存在に違いない。思ったことをそのまま表現できる世界に生きるケイは、松尾にとって羨ましい存在に見えたのだろう。麻薬シンジケートに組み込まれた松尾は、自分自身の人生を生きることができません。この先の人生もずっと変わらないことを自覚しています。諦観を滲ませながらも、人の心はそれほど簡単には割り切れない。生き残った幸運が、そのまま人生の幸運に繋がるとは限らない。
復讐劇は表の世界に生きる衛藤が計画し、ケイが軸となって動いていきます。ブラジル気質で表の世界に生きているケイが中心だから、復讐が生々しくない。松尾が軸でシンジケートのやり方で復讐が行われれば、もっと生々しく残酷だったでしょう。そもそもの計画が、凄惨な復讐を意図していないことも大きな要因ですが。
ケイも松尾も同じ怒りを抱いていますが、ケイの方が自己表現が分かりやすい。思う通りに生きることは難しいが、ケイは実行しています。復讐を通じ、松尾はケイを見続けます。住む世界の違いを思い知らされていくことになります。
爽快なのは思う通りに行動しているケイのためだろうか。人を殺すことを第一義にしていないためだろうか。それとも流されないためだろうか。全てが複合的でしょう。その複合の中には、ケイと松尾の違いも含まれています。松尾が抱くケイへの羨望は、爽快な行動を起こすケイを更に際立たせます。
個性が際立つ
ケイと松尾の個性は前述のとおりですが、彼ら以外の人物も個性が際立ちます。登場人物たちの背景がとても現実的で、生々しく描かれているからです。衛藤は荒れ果てた入植地に送り込まれた棄民政策の被害者です。被害者という一言で片付けてしまっていいものかどうかは別にして、彼の人生は移民後から現在に至るまで詳細に描かれています。ブラジルという国家を背景に生き延びる苦労が伝わります。衛藤の半生は、物語の大半を占めるほどです。衛藤の人生を追体験できるからこそ、彼の行動に共感できます。
衛藤と出会い、人生を共にすることになるエルレインも幸せな人生を送っていません。ブラジルの国民性を生き映した彼女の性質は、必ずしも表向きに不幸を感じさせません。しかし、決して幸福ではないはずです。だからこそ、衛藤は彼女と共に生きることを選んだのでしょう。自分を重ね合わせたのかもしれない。衛藤とエルレインの人生は、彼らの現在に色濃く影響を及ぼしています。だからこそ、現実のように感じられる。
もう一人の重要な人物が、貴子です。仕事は別にして、内面は標準的な日本人です。自己表現の下手さ、不満を溜め込む、我慢する。典型的な日本人気質です。だからこそ南米気質のケイの影響を受けやすい。ケイの外見が日本人だから余計に影響を受けたのだろう。自分と同じ姿であっても違う人種がいることが、自分自身も変われることを意識させたはずです。
松尾も貴子もケイに大きな影響を受けています。育てたはずの衛藤もそうです。影響を受けるのは自分が持っていないものを持っているからであり、その理由は個性の違いから発生します。松尾も貴子もケイに反感を覚えることがあるのは、彼を意識しているからです。松尾は次のように言っています。
「本当に嫌うなら怒らず無視する。」
まさしくその通りです。ケイの個性はそれほどまでに強烈です。ただ、ケイだけが個性を際立たせている訳ではありません。強烈な個性に対抗するには、個性を持った人物が必要です。松尾も貴子もケイに敵わないが個性があります。山本はケイたちに深く関わらないことで個性を表現しています。全ての登場人物が記憶に残るのは、個性が光るからです。
正義はどこに
人間の関係性の中で、絶対的な正義や悪は存在しないと思います。そもそも正義と悪は主観的で相対的なものです。戦後の移民政策は間違っているにしても、そこに関わる全員が悪という訳ではないし、ケイや松尾の復讐が正当化されることもありません。
ケイは母と妹を殺した人間に復讐をしています。残虐な殺され方をした復讐として残虐な方法でです。母と妹の命を奪った人間は悪だから、ケイの復讐は正義として許されるのだろうか。彼女たちの殺され方が悲惨だから、ケイの復讐も凄惨でいいのだろうか。実際、法律論を抜きにすれば人間として正しいのかもしれません。正義はケイにあるように見えます。罪が明確であり、復讐との繋がりがはっきりしていれば正義に見える。
日本政府と外務省に対する復讐も、移民政策の間違いが悪という前提で成り立ちます。移民政策に関わった人間と衛藤たちの不遇は直接的な繋がりがあるのだろうか。組織の中に生きてきた役人たちは現状を知っていながら見ない振りをしました。意図的な不作為です。組織 対 個人なのか。個人 対 個人なのか。前者であれば、ケイたちの復讐はやり方次第で善にも悪にもなります。外務省のビルに銃撃を加えたことが世論に許容されたのは前者の考え方として捉えられたからです。ただ、誘拐及び拘束に至ると様相は変わります。政策において、個人 対 個人の直接的な繋がりを示すのは難しい。
衛藤やケイたちにとっての復讐は、正義と悪の問題ではないのかもしれないが。
ケジメの問題なので、正義と悪の所在はあまり関係ない。復讐のやり方の是非も彼らには問題ではない。松尾が麻薬シンジケートの人間だとしても、復讐とは直接的に関係ないのでしょう。正義と悪を明確にするなら、松尾は微妙な存在になってしまいます。松尾の裏の顔は、移民政策を非難することを許さないはずです。松尾も復讐されても仕方のない立場です。復讐も正義と悪の関係と同じで、主観的で相対的な立場で考えられるものかもしれない。絶対的な正義の中で居続けることはできないのだろう。
貴子もジャーナリストとして正義の中に居続けていません。山本も過去の罪に苦しんでいます。誰もが正義と悪の狭間で苦しんでいます。正義の所在が明確になることはありません。ケイたちが絶対的な正義でないからこそ、人間味に溢れます。
後味の良さ
計画通りでなかったが、復讐は当初の目的を達成します。死者が出なかったことは、衛藤にとってある意味いい結果です。死を与えることで報われるものではないように感じます。死者の出ない復讐劇だったからこそ、後味の良さがあるのでしょう。明確な正義と悪の戦いでない以上、被害者は少ない方がいい。
ケイたちの引き際の良さも清々しさを与えます。松尾の絶体絶命からの生還も手に汗を握ってしまいます。後半の展開は息をつく暇もありません。計画通りの結果でないが、計画以上の結末をもたらしています。
松尾は麻薬シンジケートを抜け出す。山本は死を選ぶことで生に勝る充実・満足を得ます。エピローグでの貴子とケイと再会も、気持ちのいい風が吹き渡るようです。計画は失敗ですが、全てが丸く収まる気持ち良さで物語は終わります。
終わりに
読み始めるとページを捲る手が止まらない。移民政策を告発することが目的か。それともエンターテイメント作品の要素のひとつにしたのか。著者の詳細な調査は、移民政策を真剣に捉えようとしている証拠です。単なる小説の要素として使っているだけではないのだろう。しかし、押し付けがましい告発ではない。極上のエンターテイメント作品として仕上がっている。本作を読めば、移民政策を調べたくなる。