こんにちは。本日は、伊藤計劃氏原作小説の映画「虐殺器官」の感想です。
「虐殺器官」は、彼の名を一気にメジャーにした作品です。伊藤計劃のオリジナル長編は3編しかありません。「虐殺器官」「ハーモニー」「屍者の帝国」です。「屍者の帝国」は執筆中にガンで早逝したため、ほとんどの部分が円城塔の執筆です。3作とも映像化されましたが、制作会社の倒産もありデビュー作の「虐殺器官」が一番最後に公開されました。本当は映画館で観たかったのですが、行く機会を逃しDVDで観ることになってしまいました。楽しみにしていた作品ですので、かなり期待して鑑賞しました。
正直な感想は、やはり物足りなさを感じます。原作に忠実に製作しようとする意志は感じられます。大きく原作から外れた部分はなかったと感じます。ただ、長編小説を映像化すると、どうしても2時間程度という枠が足枷になります。小説内で描かれていたことが省略されるのは仕方ありません。私は小説を読んでいたので、小説と比較しながらの感想になります。原作を読まずに観るのとでは、全く感想が違うかもしれません。重要でありながら省かれたり簡略化されたと感じる箇所を書きたい。
「虐殺器官」の感想
戦闘適応感情調整
カウンセリングと薬物投与で行う感情抑制プログラムです。特殊部隊員が戦闘に赴く際に受けます。戦闘行為による心理的ストレスの軽減とPTSDの発症を抑制する。これがあるから戦闘で子供を殺傷することが出来るし、尚且つアメリカに帰れば普通の生活に戻れる。
戦闘適応感情調整は、痛覚マスキングとともに重要な要素です。クラヴィスの一人称で描かれる虐殺の現場は、調整された感情下で映ります。悲惨な殺戮ですら、平常心で受け止められていく。
死に対する不感症です。
そのおかげで、彼らは作戦終了後にアメリカの自宅でTVを見ながら平然とピザを食べることが出来る。世界は、戦闘適応感情調整を施さないと活動できないほど悲惨で生々しい戦場で溢れている。彼らは地獄を見ながらも、実際は見ていない。見たいものだけをみる。そのことの表現でもあります。
また、感情調整と痛覚マスキングは脳に対する働きかけです。解明された脳のモジュールに対し、干渉できることを表しています。そのことが、ジョン・ポールの言う虐殺器官にも繋がります。中盤にクラヴィスが作戦前のカウンセリングを受けますが、全体的にあまり重要視されていない印象を受けます。
人工筋肉
物語の導入部分が、小説と違います。小説では、侵入鞘(イントルード・ポット)で作戦地域に降下するところから始まります。人工筋肉で構築された装備です。人工筋肉は、飛行機や鳥脚ポーターなど日常生活の中にも溶け込んでいます。人工筋肉も物語の展開上、重要な役割を担っています。
実は、人工筋肉と言いながら人工でない。養殖されたイルカ・クジラの筋肉を使用しています。それを生産させられているのは、貧しい人々。そのことをルーシャス(計数されざる者)から聞かされます。途上国の虐殺を阻止するために使われている人工筋肉が、途上国の搾取によって生産されている。人工筋肉が養殖されているヴィクトリア湖は最終目的地にもなります。
人工筋肉があまり表現されていない。侵入鞘が使用後に分解したり、飛行機の着陸で一瞬描かれたり。どの程度、日常や軍備に取り込まれているのか。先進国にとって欠かせないものに違いないのですが、それが伝わりません。
アレックスの死
小説では、アレックスの死は自殺でした。しかし、映画では作戦行動中にPTSDを発症し、クラヴィスに射殺されます。アレックスは敬虔なクリスチャンです。その彼が自殺をする。戦闘適応感情調整で調整されているにも関わらずです。彼は地獄は頭の中にあると言っていました。調整を受けていても、彼の心には人を殺すことに対する罪の意識が積もっていったのでしょう。しかし、クラヴィスに罪の意識はない。罪の意識を感じていないことから、彼は罪を背負う必要性を感じていくことになっていくのでは。
映画でのアレックスの役割は何だったのか。いまいち理解できなかった。
クラヴィスの母の死
過去、クラヴィスの母親は、交通事故で生命維持装置により延命していました。クラヴィスは、その生命維持装置を止める決断をしました。戦闘適応感情調整のされてない状態で、母親を死に至らしめる。それしか道がなかったとしても、クラヴィスにとって唯一、罪の意識を感じさせる死です。クラヴィスは戦闘でどれだけ人を殺しても、罪の意識を感じることはない。しかし、ある意味で母親を殺しています。そのことはクラヴィスにとって、最も生々しい殺人であり罪なのです。それが、全て削除されていたのがびっくりです。彼がルツィアに対して抱く感情は、この過去の出来事が大きく影響しているからです。
クラヴィスは自分が下した決断が正しかったのかどうかについて苦しんでいます。罪の意識があるからです。ルツィアは、彼の行為を肯定します。ルツィアも、サラエボでの事件で取り返しのつかない罪の意識を感じています。同じ境遇に共感を覚え、惹かれていく。ルツィアに深入りしていくのです。単にルツィアに恋愛感情を抱いただけではないのですが、映画では表現されていなかった。
エンディングの曖昧さ
映画では、クラヴィスが公聴会に出席している場面で終わります。小説での結末部分を完全にカットしています。クラヴィスがアメリカで虐殺の文法を広めたことは、映画の中でも暗に表現しています。しかし、その結果何が起きたのか。クラヴィスがもたらした未来はどのようなものだったのか。クラヴィスは、何故、英語圏で虐殺の文法を広めたのか。
クラヴィスの母親の物語がカットされているので、クラヴィスが背負っている罪と背負っていない罪が明確でありません。ジョンがアメリカを守るために罪を背負ったように、クラヴィスもアメリカ以外を守るために罪を背負う。本来背負うべき罪を背負ってこなかったから、新たなる大きな罪を背負うことを選んだ。その罪がどの程度のものなのか。クラヴィスが虐殺の文法を使ったのは微妙に表現されていますが、小説で描かれている結果がカットされている。その意図は何だったのか。それほど時間を割くほどのことではないので、理由がよく分かりません。
終わりに
最初に書いたように、原作に忠実に映像化しようとしています。なので、新しい解釈を付け加えるとか改変するとかは少ない(アレックスは完全に変えられていましたが)。ただ、省略されたり簡素化されたものが多いことも事実です。物語の本質に係わる部分においても。映像で表現することが難しい部分であることは理解できます。おそらく表現しようとすると相当の時間を要するであろうし、2時間の枠内で表現しようとしたら猶更混乱するかもしれない。原作を知っているから物足りないと感じるだけで、映画を先に観た人はそれほど違和感がないのかもしれません。
別の部分で残念なのは、映像に美しさと迫力を感じない。生々しい描写はありますが、それほどリアリティがない。映像が平面的で、色彩も単調に感じます。最近の映像技術であれば、もっと美しくリアリティのある映像が作れそうですが。どうしても映画「BLAME」を基準に考えてしまいます。「BLAME」に比べると見劣りする。登場人物のイメージは、人それぞれなので評価しません。