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『ハーモニー』:伊藤計劃【感想】|理想郷に倦んだ少女たちは、世界の終わりを夢見た

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 こんにちは。本日は、伊藤計劃氏の「ハーモニー」の感想です。

 

 数少ない伊藤計劃の長編のひとつです。「屍者の帝国」を彼の長編にカウントしなければ、「ハーモニー」が最後の長編作品ということになります。彼独自の世界観により設定された近未来を舞台に、人間が人間として存在する意味や価値にまで踏み込んだ作品です。彼が作り出す近未来は、必ずしもSF的空想世界ではありません。現実的に、将来起こり得る世界ではないのか。そう思わせるほどにリアリティがあり、有り得ない話ではないように感じさせます。

 「虐殺器官」もそうですが、現在の世界の情勢を土台に想定しうる未来を作り出す。想定し得る世界なので、決して目新しい斬新的な世界感ではないのかもしれない。でも、彼が作り出す世界は確かに伊藤計劃の世界であり、誰にも真似できない世界感に感じます。 

 「ハーモニー」では、彼独自の世界観を表現する方法としてマークアップ言語を文章に取り入れている点があります。HTML言語でなく、彼が作り出したETML言語です。文章の至る所で登場するETML言語の意味は、最終章「epilogue」で明かされます。Webディレクターという彼の経歴を、ハーモニーで活かしたのでしょう。これは、物語の語り手に関することなので、本筋のストーリーの構成上、果たして必要であったのかどうかは疑問ですが、伊藤計劃の作品として独自性を表現している点では有効だったと感じます。 

「ハーモニー」の内容

21世紀後半、“大災禍”と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見る。【引用:「BOOK」データベース】   

 

「ハーモニー」の感想 

台設定

 「大災禍(ザ・メイルストロム)」と呼ばれる混乱で、世界中に核弾頭が落ち放射能が撒き散らされた世界。その影響で世界に蔓延した癌、突然変異、ウィルス。人類の存続を脅かすそれらの病気に対抗するために人類が取った方法が、健康を第一とする「生府」を基本単位とした福祉医療体制の構築でした。 

 現実問題として、いわゆる核戦争の脅威は東西冷戦の終結によりかなりの確率で回避されたはずでした。しかし2001年のアメリカ同時多発テロ事件により、世界はより混沌とした状況に落とし込まれています。国家対国家という分かりやすい構図から、国家対テロへ。戦うべき相手の姿が明確に見えない状況。この作品が発表されたのは、2008年です。終わりのない戦いが延々と続き、泥沼と化しています。現在においてもそうですが。現在の時代背景の中で、核を使ったテロが起こる可能性は現実的なのかどうか。現状においては、まだ想像は出来ても現実感はないのかもしれない。しかし「ハーモニー」では、それを現実に起こったものとして時代背景が設定されています。 

 ただ、著者は、理由もなく現実に起こるかもしれないという理由だけで核テロ後の世界を設定している訳ではありません。核テロの発端は、英語圏における大暴動としています。英語圏における大暴動で思い出すのは、「虐殺器官」の結末でクラヴィスが英語を用い虐殺の言葉を広めたことです。 

 

 

 クラヴィスが広めた虐殺の言語と「大災禍」の関係性を明確に書いていません。「虐殺器官」の続編と明記されている訳ではありませんが、両方を読んだ人は、大災禍=クラヴィスの言葉を思い浮かべるでしょう。単に現実の世界情勢だけをもって、核テロを描いていません。「虐殺器官」という物語も有効に活用しているのでしょう。 

 大災禍という種の存続に関わる大混乱を経験した人類。その反動として、命を最優先に考える社会が生まれたとしても不思議はありません。医療福祉社会の成立過程としては、それなりに根拠のある理由として納得出来ます。そして大災禍の起こった原因を「虐殺器官」に求めるならば、一貫した辻褄の合う理論構成です。「虐殺器官」のストーリーを受け入れているかどうかにもよりますが。 

 医療福祉社会の成り立ちが構築されれば、今度は実態です。この社会がいかなる制度で、いかなる技術が使用され、いかなる組織により運営され、その構成員である人々はいかなるメンタリティで存在してるのか。より具体的で納得できる世界観を構築しないと読者は引き込まれません。 

その点、著者の作る世界は説得力があったと感じます。 

 WatchMeとメディケアによるテクノロジーの進化。生命を第一優先にするための監視組織「世界保健機構の螺旋監察官」。世界の全てが生府による医療福祉社会を築いている訳ではなく、従来の政府を残している国々。命が第一優先でない従来の暮らしを送っている人々の存在。これは、貧富の差を表現しているのかもしれない。どのような世界にあっても貧富の差があり、それにより享受できるものが変わってくる。

 そして富裕層に属するからと言って、必ずしも幸福とは限らない。物語の冒頭では、ミァハ・トァン・キアンが、押し付けがましい生命主義の優しさや倫理に耐えきれない様子が描かれています。自殺を実行するほどに。そして生府社会における自殺率の高さも、生命主義が必ずしも全ての人間に幸福をもたらすものでないことを示唆しています。光の中にも闇があることを訴えているのかもしれません。 

 

トーリー構成

 ストーリー構成と展開は「虐殺器官」に似ています。虐殺器官では、ジョンと呼ばれるアメリカ人を追う特殊部隊員クラヴィスの物語です。ハーモニーでは、ミァハを追うトァンの物語。どちらも物語の鍵となる人物を追って世界を飛び、情報を得ながらその人物へと迫っていく。邂逅し真実を知った時、主人公であるクラヴィスやトァンがどのような結末を導くのか。もちろんストーリーは複雑で、物語の背景も設定も全く違うので比べることが適切かどうかは分かりません。ただ、外形的な流れとしては、同じに感じます。それは、どちらも一人称で描かれる物語だということも影響しているのでしょう。 トァンの視点を通して見る世界。読者も、トァンの考え方の影響を大きく受けます。トァンが医療福祉社会に馴染めない人間であり、自殺してまで抵抗と脱出を図る人物であることにより、読者も医療福祉社会の矛盾や息苦しさを感じることになります。 

 物語のスタートは、医療福祉社会の存在に否定的なところから始まります。物語の冒頭で、ミァハが生命主義の社会を倦み嫌い、そのことをトァンたちに語り続けます。そのことが、読者に対しても、この社会の違和感や不快さを植え付けていきます。 

 生命主義。この言葉だけを聞けば、まさしく「ユートピア」です。その社会を忌み嫌う思考をトァンの目を通じ植え付けた上で、物語を展開していく。だからと言って、医療福祉社会を転覆させる物語なのか。そんな単純な物語にしないところが、著者らしいところです。 

  • ミァハによって起こされた同時多発自殺事件。
  • トァンが突き止めたミァハの関与。

 その流れで行けば、生命主義に対するテロと思わざるを得ない。しかし、トァンとミァハの邂逅で明かされるミァハの真意。物語の終盤で主要な二人が邂逅することにより明かされる真実は、読者の予想を裏切ります。これは「虐殺器官」でも同様でした。物語の構築・構成は、やはり「虐殺器官」を思い出させます。だからと言って、マンネリだとか工夫がないとかいう訳ではない。著者が訴えたい、もしくは表現したいことを最も効率よく描くのが、一人称で、こういったストーリー展開なのだろう。 

 

「意志」と「意識」

 当初、医療福祉社会に対するテロを描いているのだと思わせます。生命主義が、必ずしも人々に幸福をもたらすものではない。生命主義でない政府の元で生きている人々との対比を交えながら、医療福祉社会に対抗していく。そんな物語だと。しかし、物語の中盤、人間が持つ「意志」と「意識」の話から、様相が変わってきたように感じます。「意思」と「意識」の定義が物語中で登場してから、物語の軸が生命社会への否定から、人間が個々人として区別される理由を描いていきます。つまり意志と意識が、考え方や行動を決定づける根拠であり、それがあまりにも不確実で場当たり的なものだと。人間の進化は継ぎ接ぎだと論じ、不合理な選択こそが人間の特質だと。 その不合理さが、人間が人間たる所以だと思います。実際に、ミァハはそのように考えていたのだと思っていました。そして、ミァハの影響を受けたトァンも同様に。

 なので、ミァハに会った時に聞かされたミァハの真の目的は、まさに意外なものでした。ミァハの出自は、物語の随所に描かれています。そのことが、ミァハの行動を決定づける要素のひとつであることは確かです。必ずしもミァハの真の目的が突発的で、読者の意表を突くためだけのものではありません。 

 「意志」と「意識」は、この小説の最も重要なテーマです。人間の存在そのものの定義について、問題提起しているように感じます。ただ、意志と意識の違いが、途中から分かりにくくなってきます。というよりは、意志と意識は同一のもののように描かれていきます。冴紀教授は「意志」について

報酬系によって動機づけられる多種多様な「欲求」のモジュールが、競って選択されようと調整を行うことで最終的に下す決断を、「意志」と呼んでいるわけだ 

 トァンとガブリエル・エーディン会話で

我々の現実を形作る全ての感覚が、そうした脳の上層に昇ってくる選択されたエージェントの集合というわけですね

視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった刺激すらも、選択されなければ意識に昇ってくることはないのです 

 このことから、脳内で何らかの決定のための調整が行われ、最終的な結論を出す行為が「意志」。そして決定された結論が表層に現れることで、意識が発生するということと理解しました。決定する「意志」があることにより、結果「意識」が生まれる。ミァハが求めた世界は、完璧なハーモニー。選択という行為はなく、自明の理として全ての物事が存在する世界。選択という「意志」がなければ「意識」もない。 

 「意志」=「意識」となります。 

 ただ、選択がなくなっただけで、自明の理として表層に現れるものが「意識」にはならないのだろうか。「意志」がない状態が「意識」がない状態へと繋がっていくのか。そもそも「意識」のない状態とは?ロボットのように、ただ行動するだけの存在なのか。完全な社会性を持った人間は、存在する意味があるのか。

 選択という「意志」がない状態は理解できます。しかし「意識」のない状態が、どのような状態を指すのかが、理解しづらい。「意志」と「意識」について違う定義をしておきながら、ミァハは「意志」と「意識」を同じように扱っています。そのあたりの整合性が取れているのかどうか。微妙に、違和感を感じてしまいます。 

 

最後に

 伊藤計劃の最後の長編作品(円城塔との合作「屍者の帝国」を除いてます)。ストーリーの展開。登場人物の葛藤。時代設定。全てが、伊藤計劃らしい。「らしい」と言ってもわずかな作品しか生み出さずに早逝してしまったので、「らしい」の定義は難しいですが。虐殺器官」のイメージで「らしい」と言っているだけかも。「虐殺器官」の流れでの時代設定なので、似ているのは当然かもしれない。読み応えはありますし、彼の作品は私のお気に入りです。