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『1973年のピンボール』:村上春樹【感想】|僕は探す。3フリッパーのスペースシップを。

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 前作「風の歌を聴け」の続編です。この後に発表される「羊をめぐる冒険」と併せて鼠3部作とも呼ばれています。前作は、1970年の夏が舞台でした。「1973年のピンボール」は、タイトルどおり1973年の9月から11月までの物語です。

 登場人物は「僕」と「鼠」の二人。ただ、前作と違い、彼らはそれぞれ独立した話として並列に語られていきます。直接的には交わりません。 

「1973年のピンボール」の内容

さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との“僕”の日々。女の温もりに沈む“鼠”の渇き。やがて来る一つの季節の終り― 【引用:「BOOK」データベースより】 

「1973年のピンボール」の感想 

「僕」の話   

 1973年を舞台にしていますが、「僕」の話は1969年の春、直子との回想から始まります。そして4年後の1973年に直子の故郷を「僕」は訪れ、直子が既に死んでいることが語られます。このことから、直子は「風の歌を聴け」で登場した「僕」が関係を持った3人目の女の子で、その死は自殺であったことも分かります。 

 すなわち「僕」にとって、この物語は喪失から始まるのです。喪失は孤独の入口でもあります。最初に「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」と僕は言います。喪失を経験したことが入口であり、その出口を探しているようにも受け取れます。物語にあるとおり、出口がなければ鼠取りの鼠のように死んでしまうと感じているのです。 

子との生活 

 1973年の「僕」は双子の女の子と暮らしています。ある日、目覚めれば隣に外見が全く同じ双子の女の子が一緒に寝ていたのです。208、209と書かれたトレーナーくらいでしか区別がつかないほどです。

 何故、彼女たちは「僕」と暮らし始めたのか。どこからやってきたのか。彼女たちからは語られません。「僕」も訪ねることはあっても、無理に聞き出そうとはしません。そんな中、「僕」と彼女たちの生活は奇妙な安定を見せながら続きます。彼女たちは最後まで正体が分かりません。ただ、彼女たちが「僕」に出口を示すために存在していたのです。「僕」は喪失感の中に生きています。その喪失感から解放される方法を知らなかった。それを双子との生活をきっかけに状況が変わっていきます。彼女たちと「僕」の生活と会話は、比喩に満ちた表現がとても多い。 

非現実的な生活と比喩によって本当に伝えたいことを表現しているのでしょう

 「僕」と彼女たちは肉体関係を持っていると思わせる文章があります。「僕」にとって彼女たちとの生活は精神的にも肉体的にも、変化を与えるものとして存在していたのかもしれません。 

 双子との生活は僕にとって変化をもたらすものであったが、それを最も象徴しているのが配電盤の話です。工事人が配電盤の交換に訪れた時、「僕」はその在りかを知りません。自分の部屋にあることも知らなかったのです。しかし、双子は押入れの奥にある配電盤を知っています。

 配電盤は、直子の死に囚われている「僕」を表しているのでしょうか。工事人は、配電盤は親猫と言います。親猫が死ぬと、そこに繋がる子猫は死んでしまうので交換するのだと。双子は、この配電盤は死にかけてると言います。直子の死に囚われ続けると、そこに繋がっている「僕」の全てが死んでしまう。すなわち「僕」自身の死へと繋がると暗示しているのではないか。 

配電盤の在りかを「僕」が知らなかったのは、直子の死と向かい合おうとせず忘れようとしていたことなのかもしれません。

 双子が配電盤を貯水池に沈めて弔おうとするのは、「僕」に直子と死と決別する必要があると示唆しているのでしょう。双子との生活で「僕」の内面世界の変化を、日常を通じて表現しているのです。なので比喩として表現されることも多くなります。「僕」と双子の内面が一致しなければ、会話も噛み合わずすれ違うことも多い。「僕」の生活の中では、読み取りにくい部分でした。私のそのような感想は的外れかもしれませんが。 

訳事務所で働くこと  

 翻訳事務所で働く「僕」の生活は、「僕」にとって意味のないもののように描かれています。意味のないものという表現が合っているかどうか自信はありませんが、翻訳事務所で働いている自分を次のように評価しています。  

アウシュビッツでならきっと重宝がられたことだろう  

 自分の意思で生きているのではなく、ただ生きているだけということを言っているのです。とても優秀な仕事をするが、自分の積極的意思から出てくるものではなく作業の結果でしかないということです。直子の死が原因と直接的には語られていません。しかし、そういうことなのでしょう。「僕」にとって、生活はもはやただの作業に過ぎないのかもしれません。 

 そして、自分にふさわしい場所は全て時代遅れになっていると語ります。自分は過去に囚われており、そこから時間は流れていないと言っているのです。アウシュビッツという表現は、外の世界では時間は流れ時代は変わるが、自分はその流れとは関係のないところに存在していることを表現しています。 

 しかし、そのように時間の止まった世界において、翻訳事務所の事務員の女の子が「僕」に影響を与えます。彼女との食事の時の会話で、「僕」は時間を止めた理由を彼女に語ります。そうやって話すことで、今の自分が正しいのか、変わる必要があるのかを「僕」は考えるのです。ただ、会話は途中で途切れてしまうので「僕」が変わったかどうかは分かりません。 

フリッパーのスペースシップ 

 「僕」は、3フリッパーのスペースシップを探し始めます。このピンボールは、かつてジェイズ・バーに置いてあり、新宿のゲームセンターにもありました。「僕」は直子が死んだ後、喪失と後悔とともに新宿でこのピンボールをします。

 何故、3フリッパーのスペースシップなのか。既にジェイズ・バーにはないこのピンボールをすることで、過去を取り戻せるのではないかと考えたのかもしれません。戻らない過去にしがみつこうとしたのかもしれません。現実逃避もあったのかもしれません。そしてピンボールは彼女になったのです。そして彼女と次のような会話をします。 

あなたのせいじゃない、と彼女は言った。あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。

違う、と僕は言う。違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。

人にできることはとても限られたことなのよ、と彼女は言う。

そうかもしれない、と僕は言う。でも、何ひとつ終わっちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ

終わったのよ、何もかも、と彼女は言う。  

 自分自身の内面の会話とも受け取れます。「僕」は埋められない喪失感と後悔と孤独を確認したに過ぎない。双子との生活。事務員の女の子との会話。それらがきっかけとなり、再び時間を動かすために時間の止まった場所へと戻る必要があったのです。それが、3フリッパーのスペースシップを探すことだったのです。

 すでに、新宿のゲームセンターはなくなっています。それでも「僕」は、3フリッパーのスペースシップを探し出します。それは、潰れた養鶏場の冷凍倉庫の中にありました。倉庫の中には、78台ものピンボールがあったのです。その中に3フリッパーのスペースシップはあったのです。電源を入れ「僕」は再び彼女と話します。 

彼女との会話は、とても悲しく切なく感じます 

 この会話はここで語るよりも読んでもらいたい。ただ、3フリッパーのスペースシップとの再会は、「僕」にとって必要なことです。それが、どのような結果を生むか「僕」は分からなかったでしょう。ただ、彼女に会う必要があったのです。この再会が終わると、双子は出て行ってしまいます。時間の進み始めた「僕」にとって双子はすでに役割を終えたのです。 

「鼠」の話 

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 この小説では「僕」と「鼠」の話が交互に語られます。短い章ごとに主体が入れ替わっていく訳です。「鼠」の話は「僕」に比べて、直接的かつ現実的に描かれています。「鼠」は、「風の歌を聴け」で舞台となった街でずっと暮らしています。彼にとっては変化がなく、抜け出せない焦燥感の中での生活です。「鼠」の話には二人の登場人物があります。一人は、ジェイズ・バーのジェイ。そして「鼠」が電動タイプライターを買った女です。 

 「鼠」が一番耐え難いものが何だったのか。人に理解されないことでしょう。人に理解されないことは、言い換えれば孤独だということです。「鼠」の周りには、あまりにも人がいません。いたとしても理解されていないのなら、いないことと同じことです。「鼠」には、ジェイがいます。ジェイは「鼠」の理解者でしょう。しかし、「鼠」にとってジェイの存在だけでは、焦燥感を拭い去ることは出来なかったのです。

 そこで「鼠」は女と関係を持ち、それを継続することで紛らわそうとしたのかもしれません。ただ、関係を続けていても彼にとって孤独を癒すことはできず、更に孤独を深めます。

 ここで入口と出口の話ですが、「鼠」は既に入口を通っていたのかもしれません。出口を求めて彷徨っていたのです。彼女はそれに成り得なかった。そこで、「鼠」は街を出て行くことを決心をしたのでしょう。全てを捨てていくということは、孤独になるということです。ただ、現状の望まない孤独より、自ら選んだ孤独へと進むことを決めたのです。出口を探すのではなく、新しい入口を選んだのかもしれません。 

 「鼠」の話は「僕」と違い、「鼠」の思っていること・状況・関係などが現実的な文章にされていると感じました。なので、素直に読んで理解できます。「僕」と「鼠」では、全く違った文章構成に感じます。そのことも「僕」と「鼠」の違いを表しているのかもしれません。 

最後に

 「1973年のピンボール」は、「風の歌を聴け」に比べれば物語があります。「僕」も「鼠」も、物語には結末があります。著者の小説は、単純に起承転結で結ばれるとは限りません。それでも、それぞれに落ち着くべき結末があり、物語を感じることができました。 この後、直子は「ノルウェイの森」、「鼠」は「羊をめぐる冒険」へと続きます。ただ、「1973年のピンボール」を語る時に、後に発表された作品を絡めて感想を記すのはあまり気が進みません。「ノルウェイの森」や「羊をめぐる冒険」の感想を書く時に「1973年のピンボール」を引用するとは思いますが。

 長々と書きましたが、私の感想が一般的なのかそうでないのかは分かりませんし、村上氏の意図とは違うかもしれません。ただ、私がこのように感じたということだけで書きました。     

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)