晴耕雨読で生きる

本を読み、感想や書評を綴るブログです。主に小説。

ーおすすめ記事ー
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

『わたしを離さないで』:カズオ・イシグロ【感想】|彼女たちの人生の意味は・・・

f:id:dokusho-suki:20200215084630j:plain

 カズオ・イシグロの作品を読むのは3作目になります。綾瀬はるか主演でドラマ化されており、映画化もされています。内容は何となく知っていましたが、読んでみると登場人物の心の内が想像以上に奥深い。原文でなく日本語訳なので、カズオ・イシグロの文体・表現がどれほど再現されているのか分かりません。淡々と続く文章や状況や語り口が独特の印象を受けます。

 キャシーの回顧で物語が進みます。キャシーの記憶に基づくので、全てが明瞭に描かれません。周りの人物もキャシーの感じ方・受け取り方次第で印象が変わってきます。視点であるキャシーの心の内は間違いなく真実ですが。

 キャシーとトミーとルースを中心に描かれます。回顧なので全てが過去のことであり、もう戻りません。ルースとトミーは運命をすでに受け入れ、終わっています。

 キャシーの人生から外すことのできない言葉が「ヘールシャム」「提供」です。「ヘールシャム」は懐かしき場所として。「提供」は逃れられない運命として。これらは、彼らの存在意義・価値を決定づけるものです。淡々と綴られる物語が、彼らの運命の重さを感じさせます。  

「わたしを離さないで」の内容

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度…。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく【引用:「BOOK」データベース】 

 

「わたしを離さないで」の感想

ールシャムでの生活

 介護人として働く31歳のキャシーから始まります。彼女の回顧として、子供時代のヘールシャムへと物語は進みます。

  • 施設とは一体何なのだろうか。
  • そこで暮らしていた彼女たちは一体何者なのだろうか。

 多くの疑問が次々と現れます。冒頭の「提供」「回復」「4度目」という言葉から、キャシーが関わる提供者の意味は想像できます。著者は、彼女たちの秘密を隠そうとしません。多くの読者がキャシーたちが臓器移植のための存在だと気付くでしょう。

 ヘールシャムがどういう施設で、彼女たちがどのように育ったのかが重要な要素です。クローンであることは冒頭では明かされませんが、徐々に彼女たちが普通の存在でないことが分かってきます。一方、スポーツをしたり、絵を描いたり、友達と過ごしたりする様子は特殊でない印象も受けます。保護官の存在は、ヘールシャムが教育でなく育成を目的としているからでしょう。

 数ある施設の中でもヘールシャムはうらやましい場所のようです。キャシーは介護人として様々な施設を知ることで、ヘールシャムが恵まれていたのだと知ります。他の施設について描かれることは少ないが、劣悪な環境なのは伝わります。ヘールシャムが特別なのは理由があってのことですが。

 キャシーは多くの友人やそうでない人々と一緒に過ごしてきました。トミーとルースは特別な存在であり、どちらも個性的で感情豊かです。子供同士の関係だから、全てを理解し合えていたかどうかは分かりません。しかし、彼女たちは自分自身の存在とともに、友人たちの存在も同様に重要だったのでしょう。同じ境遇としてです。

 ヘールシャムは彼女たちの人格と個性を形成していきます。一方、自由を奪っています。保護官たちは先生としての側面を持ちながらも監視者だからです。彼女たちは自身を臓器提供のために作られた存在だと知っています。真の意味で理解しているかどうかは別にしてですが。そういうものだと理解しているにすぎないのかもしれません。 

 ヘールシャムが臓器提供の子供たちの施設であることは、冒頭のキャシーの言葉で分かります。その上で、ヘールシャムでの生活は何のためにあるのか。何を意味しているのか。彼らは限りなく普通の人間であり、感情を持ち、人間関係の中で生きています。しかし、違和感はあちこちに散りばめられています。

 少なくとも、ヘールシャムはキャシーにとって重要で特別な存在です。キャシーとトミーとルースの関係が築かれた場所であり、その後の彼女たちの関係に大きな影響を与えた場所です。単に子供時代を過ごしただけでなく、自身の存在の意味を意識的・無意識的に教えられます。ヘールシャムは全ての始まりの場所です。

 

「提供」の意味

  「提供」は「臓器」のことであり、善意でなく、彼らに拒否権がないことも分かります。4度目の提供から分かることは、死ぬまで提供し続けるであろうことです。彼らは臓器移植のために生きています。提供こそが彼らの存在価値です。

 違和感があるのは、

  • 何故、彼らは提供し続けるのか。
  • 命尽きるまで拒否しない理由は何なのか。

 介護人と提供者の存在から想像するのは、システムとして構築されていることです。彼女たちはシステムの一部に過ぎないということでしょう。こんなことが許される社会なのだろうかという疑問が浮かびます。社会が求めているから存在するシステムでしょうし、そのことについては徐々に描かれます。

 臓器提供者を必要としている社会の答えが彼女たちです。人間として許される行為なのかどうかは別にして、必要性から生まれてしまったのでしょう。ヘールシャムやコテージでの生活など、彼らの短い人生を見ると許されない行為です。彼女たちは人間以外の何者でもないからです。 

 誰かの命のために他者の命を犠牲にしていいかどうか。そのために命を作ることが許されるかどうか。命の意味や人間の定義について考えざるを得ません。臓器だけを培養して使用することは許されるでしょう。何故なら、臓器には自我がなく、人生がないからです。犠牲にする命がないから責任は感じないはずです。

 しかし、自分と同じ人間を犠牲にすれば自責の感情が生まれます。生まれないようにするために、彼女たちを見ないようにし、彼女たちの真実を話さないようにしてきました。知らなければなかったことにできます。「提供」という言葉を使うことに、偽善とまやかしを感じます。

 

こまで知っていたか

 彼女たちは人生の終着点を知っています。その事実を知っていることと、その意味を知ることは違います。ヘールシャムで洗脳されたのでしょうか。洗脳とは少し違う印象を受けます。保護官から自分たちの存在の意味を説明されているので、彼女たちは騙されている訳ではありません。しかし、意味を理解できないように意図されています。彼女たちが提供について疑問を抱かず、そういうものだと受け入れるための年齢的なタイミングを見計らっています。

 ルーシー先生だけが、キャシーたちの人生の真実を語ろうとします。他の保護官たちが嘘をついている訳ではありませんが、真実を理解させようとしていません。何故、ルーシー先生は「あなた方は教わっているようで実は教わっていません」と言ったのか。教わったことを理解しているが、自身に人生について考えていないという意味でしょう。

 彼女たちの運命は変わりません。ルーシー先生はそのように理解しています。だからこそ考えるべきだと思っています。全てを知っているようで知っていない理由は、疑問を抱いたり考えたりしないからです。思考しないことと受け入れることは違います。

 ただ、人生について考えさせるのは残酷です。彼女たちの命は誰かの命のために存在します。自身の命が自分のためでないことに耐えられるでしょうか。

 

げ出さない理由

 彼女たちは、何故、逃げ出さないのでしょうか。先述のとおり、知っていることと考えることの違いかもしれません。誰でもいつかは死ぬと言えばそれまでですが、人生を生きてから迎える死と提供で迎える死は全く違います。提供による死は命を奪われることです。彼女たちは違いについて考えることもなく、そういうものだと漠然と認識しているのでしょう。

 彼女たちが死を迎えるまで全く外界と接触しないのであれば、彼女たちの考えや行動も理解できます。外の世界の情報を完全に遮断できないにしてもコントロールできるのであれば、逃げ出さないように教育・監視・監督できます。しかし、コテージに移り、ある程度の自由を得れば、社会と関わります。自分たちの異常な境遇を知ることになります。不条理を感じないのでしょうか。提供者の苦しみや辛さを見て疑問を抱かないのでしょうか。彼女たちは拘束されていません。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せます。逃げ出さない理由は何でしょうか。

 キャシーとトミーは3年間の猶予を受けるため、マダムを訪ねます。提供を免除してもらうためではありません。提供は、彼女たちの人生の前提として存在し続けています。

 キャシーは11年以上の介護人を終わろうとしています。その後に待っているのは、提供者としての人生でしょう。むしろ提供者の方が安らかになれるのかもしれません。ルースは提供者になることを望んでいるように見えます。逃げ出さないというよりは、人生の終着点として求めています。彼女たちの意思は、何故、このような形になったのでしょうか。彼女たちに違和感を感じるのは、彼女たちを真に理解していないからです。

 我々は、彼女たちを理解する努力をすべきでしょうか。それよりも重要なのは、生み出さない努力をすべきです。需要があるから供給が生まれます。しかし、全てが許される訳ではありません。彼女たちが逃げ出さないことに恐ろしさを感じます。 

 

実になるのか

 クローン技術はありますし、臓器移植も間違いなく需要はあります。人間のクローンを作りださない理由は倫理的な側面からです。必要な臓器だけを培養する技術であれば、倫理の許容範囲だと考えられるでしょう。

 どこまでが許されるでしょうか。キャシーたちの存在は許されません。他者の命を犠牲にするのだから。しかし、彼女たちの存在を知らなければ倫理も関係ありません。知らないことは無いことと同じだからです。

 我々は多くの犠牲の上で生きています。食料にされるために生まれてくる家畜は、生まれた時から殺されることが決まっています。誰もがその事実を知っていますが、意識しないことで知らない振りをしています。自身の目で見なければ、意外と現実感を感じないものです。知っていることと見ることは全く違います。

 現実になるかどうかではなく、現実にするかどうかです。するとすれば最も効率よく罪深さを感じない方法を考え出すでしょう。問題は罪深さを感じない方法であり、罪深くない方法ではないことです。罪深さの定義も難しいですが。

 施設の存在は、罪深さを感じない方法です。社会は彼女たちの存在を知っていますが見ていません。そうやって精神的な安定を図っています。彼女たちを人間として扱わないことで罪を感じません。彼女たちは人間でなく、クローンに過ぎないと考えます。

 技術を使うことがどこまで許されるのか。我々は慎重に考え行動しなければなりません。

 

終わりに

 クローンは人間と異なる存在でしょうか。作られた存在だとしても人間です。人間は目的のために生まれるものではありません。生きていくこと自体が目的であるべきです。マダムやエミリ先生がクローンの人間性を社会に認めさせようとしたのは、生み出され方でなく生きていく過程や存在自体が人間の価値であることを知らしめるためです。

 本作は現実的な問題提起も含まれていますが、生きていくことの感情や関係性も描いています。キャシーたちの人生は悲しい。しかし、彼女たちがどのような救いを求めていたのかも判然としません。