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『ぼくのメジャースプーン』:辻村深月【感想】|復讐は誰のため?

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「あることをしなければ、あることが起きる」

 物語の鍵となるのが「条件ゲーム提示能力」。この能力が、どれほど恐ろしい能力なのか。一見するとよく分かりません。冷静に考えると、人の心に直接影響を及ぼすのはとても危険です。読み進めていくと、徐々に気付かされていきます。悪意に侵された弱い存在が対抗出来る能力を手に入れた時、その悪意にどんな罰を与えるのか。それを考え続けるぼくの心の中には、一体どのような思いが渦巻いているのか。小学生ながら、人の持つ悪意と正面から向き合う強さも描いています。

 SFともファンタジーとも受け止めることが出来る非現実的な能力を描きながら、現実世界の恐ろしい出来事を描いていきます。 タイトルからは予想できないほど、悪意に満ちています。

「ぼくのメジャースプーン」の内容 

ぼくらを襲った事件はテレビのニュースよりもっとずっとどうしようもなくひどかった―。ある日、学校で起きた陰惨な事件。ぼくの幼なじみ、ふみちゃんはショックのあまり心を閉ざし、言葉を失った。彼女のため、犯人に対してぼくだけにできることがある。チャンスは本当に一度だけ。これはぼくの闘いだ。【引用:「BOOK」データベース】 

「ぼくのメジャースプーン」の感想

つの構成 

 物語は大きく分けて3つの構成から成り立っています。

 最初に、ぼくの能力の発現と登場人物の設定についてです。ぼくの能力は突然発現しますが、その能力は一旦物語から遠ざかります。その後は、主人公の「ぼく」と幼馴染みの「ふみちゃん」の日常生活が描かれていきます。彼女の学校での立場。性格。クラスでの立ち位置。ぼくが抱く彼女への思い。二人の関係を中心に描かれる世界は、必ずしも広くはありません。小学生が、限られた世界で暮らす平穏な日々です。子供にとって、友達とのトラブルは大きな問題かもしれませんが日常と言えなくもない。

 そして事件の発端となるうさぎです。彼女とうさぎの関係。うさぎに対する彼女の思い入れ。それを描くために物語の前半は費やされています。前半部分は、ぼくの特殊な能力以外のことでは、それほど盛り上がることもなく淡々と物語が進んでいきます。少し退屈な印象は拭えません。

 そして、物語は一気に動き出します。うさぎの惨殺事件とふみちゃんの感情の消失です。ここからは世間の悪意が、これでもかというほど噴き出してきます。現実に、こんな事件が起きたことがあるのだろうか。 

動物に対する虐待はそれほど珍しいニュースではないのかもしれません。残念なことですが。 

 虐殺自体も目的でありながら、それを小学生に発見させるということ。ネットを通じ世間に知らしめること。被害者を嘲笑うかのような振る舞いに胸悪くなります。著者が悪意を描く時、ここまで徹底的に描写するのかと恐ろしくも感じます。

 ふみちゃんが感情を消失したことで、ぼくの行動が始まります。彼が能力を使い、復讐を始めようとします。そこで始まったのが、同じ能力を持つ母のおじ「秋山教授」に能力の指南を受けることです。単なる能力の指南でなく、悪意に対しどのように振る舞うかということが主眼のように感じます。小学生には難しい内容だし、それを理解していくぼくも小学四年生とは思えません。違和感を感じることは否定できない。僕と秋山教授とのやり取りが主軸になり、物語は内面的な側面が重視されていきます。

  • ぼくは一体何を考えているのか。
  • 結末に向け、何が伏線となっているのか。

 能力の解説は少し説明っぽく、物語の進行を阻害しているように感じないこともない。ただ、ぼくの心の動きに引き込まれていきます。

 そして結末です。ぼくが選んだ結末については書きませんが、ある程度予測できたものでした。彼が囁く言葉が一体何なのかまでは予想できませんでしたが、最も納得できる言葉だったように感じます。結末に納得するために、これまで描かれていたことは必要なことだったのだと理解できます。 

意とブレーキ

 本作における悪意は、最も質の悪い悪意です。人の性質は、善なのか悪なのか。私の考えとしては、全ての人間には元々どちらも備わっているのではないだろうか。成長していく過程で周りのあらゆる環境が影響し、その人の性質を形成していく。そして人によって程度の差も出てくるのでしょう。

 本作で出てくる悪意は、医学部生の市川雄太。彼の悪意は救いようがありません。うさぎを惨殺することも、それを小学生に見せ反応を楽しむことも、ネットで喧伝することも全てが救いがたい。最も嫌悪を感じさせたのが罪悪感のなさです。一般的な感覚は「悪いこと=してはいけないこと」です。この感覚があるからこそ、人は悪いことにブレーキをかけます。一般的にはブレーキの方が大きいから、悪事に手を出さない。しかし、ブレーキの方が小さくなると悪事に手を染めることになってしまいます。ただ、悪事に手を染めたとしてもブレーキがかかっていたという事実があれば、改心できる可能性はあるのではないだろうか。取り返しのつかないこともありますが。

 市川悠太にとって、「悪いコト≠してはいけないこと」なのだろう。悪いことだと認識していながら、ブレーキがない。そこに圧倒的な悪意があります。悪意があることを認識していながら、それを喧伝する。人として救いようがなく、変わることもない。私たちの現実世界にも溢れているのでしょう。しかも弱い存在に向かう悪意です。これを社会から取り除くにはどうすればよいのか。社会的問題提起も含まれている作品だと感じます。 

讐は誰のため

 復讐には二種類あると思います。

  • 自分が受けた被害に対し復讐すること。
  • 大切な人が受けた被害に対し復讐すること。

 復讐される側にとっては同じことかもしれませんが、復讐する側にとっては意味が全く違います。自分が受けた被害に対し復讐する時は、自分自身が納得できる復讐をすればいい。被害を回復できるならば被害を回復し、さらに相応の報いを受けさせる。自分が受けた苦痛を相手に与え、自分自身が満足できれば復讐は完結するのでしょう。

 問題は、大切な人のための復讐です。家族・恋人・友人のための復讐。この復讐の形態には被害者が関わりません。また、加害者と復讐者の間に直接的な被害関係はありません。

  • 復讐者の思いはどの程度介在しているのか。
  • 被害者の思いはどこまで反映されているのか。

 被害者が意思表示出来れば問題ありません。復讐を望むかどうかを確認できます。もし望まないとすれば、納得はできなくても従わざるを得ないでしょう。復讐を望むとなれば、それを背景に思う存分復讐すればいい。本作では、被害者である彼女は意思表示が出来ません。彼女が復讐を望んでいるのかどうか分からない。では、ぼくは何のために復讐するのか。彼女が復讐を望んでいると信じているのか。それとも自分自身の納得のために復讐をするのか。そのことが、ぼくを悩ませます。秋山教授とのやり取りの中でも、能力の使い方以上に復讐自体について議論している部分が多いように感じます。

 悪意に対しては、相応の報いを受けさせる必要がある。自分にはその力がある。本来、悩む必要はないのかもしれません。しかし、彼女でなく違う人間が同じ被害を受けた時、ぼくは同じように復讐を考えたのだろうか。悪意に対する純粋な報いではなく、彼女のための復讐であり、自分のための復讐でもある。誰のための復讐なのか。小学生と言えども、考えざるを得ません。秋山教授も考えさせている。小学生にしては、深淵な思考を巡らせているのに少し違和感を感じますが。 

と罰

 罪には相応の罰が必要です。相応の罰とは一体どのような罰なのでしょうか。法治国家である以上、法律に基づき下された刑罰が相応の罰となるのでしょう。市川雄太が受けた罰は、ぼくにとっては不当に軽いものだとしても社会的には適当だと考えられています。被害者感情としては納得出来ないとしても。そもそも被害者の人権をどう考えるかは、現実社会でも問題になっていることです。

 ぼくが考えた罰は、復讐の形態としては最も妥当な罰だと感じます。僕にとって最も大事なものを壊された復讐ならば、市川雄太の最も大事なものを奪う。罪に対する罰として適切です。結果的に、彼の復讐は成功しました。

終わりに

 物語の結末は、少なくとも救いのあるものです。ぼくは相応の被害を受けますが、目的を果たします。あとは時間が解決してくれるでしょう。そう思わせる結末です。物語自体が闇の部分が多いので、爽快感は感じません。ただ、未来を見ることの出来る終わり方です。 

 辻村作品には、クロスオーバー作品があります。本作も、他作品と関係のある登場人物が登場します。どの順番で読むのが一番良いのか、参考までに。

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 必ずしも、これが正解というものでもないでしょう。私も全ての作品を読んだわけではないので、一概に言えません。私は、本作より「名前探しの放課後」を先に読んでしまいました。「名前探しの放課後」は、本作を読んでからでないと結末を100%理解できません。この相関図は結構参考になると思います。