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映画「ハーモニー」を観た

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 こんにちは。本日は、伊藤計劃氏原作小説の映画「ハーモニー」の感想です。

 

 小説が映画化された時、最も頭を悩ませるのがどちらを先に読む(観る)べきか。ハーモニーは、その悩みをずっと引きずっていました。小説も映画もかなり前から所持していましたが、手を付けられずにただ日々が過ぎていく。そんな状態でした。いつまでも悩んでいても仕方ないので、やはり伊藤計劃の原作から読むのが筋だと思い、先に小説を読みました。その感想は以下のリンクからどうぞ。 

 

 

 感想は、どうしても小説との比較になってしまいます。原作ものの宿命だと思います。映像化は、どれほど原作に忠実か。ただ、忠実かどうかだけではないと思います。原作から踏み出し、新たな世界観を構築することも有り得ます。映像化という視覚に訴えることが出来るからです。小説で抱いていた世界以上のものを生み出すこともあります。

  ハーモニーはどうだったか。

 一言で言うと、原作に忠実だったのかどうか判断がつかないというのが私の感想です。物語の展開はほぼ原作通りです。もちろん2時間程度という限られた枠内での制作なので省略される部分も多い。それは登場人物であったり、設定であったり。なので、表層的に作られている印象は否定できない。生命主義の歪さであったり、トァン・キアンのイデオローグとしてのミァハの存在の大きさなど、多くのものが必要最小限の説明で終わってしまう。仕方ないことですが。それを差し引いても、原作に忠実であろうとする意識を感じます。 それでも、忠実かどうかの判断がつかない理由があります。物語の結末。トァンがミァハを撃った理由。この部分を原作と変えてきている。結末は同じです。しかし、トァンの動機を変えてきたこと。このことで、原作に忠実と言えるかどうか。私が判断できない理由です。 

 映像作品なので、ストーリーの比較だけでなくキャラクターデザイン・映像美などに関する感想も書きたいと思います。 

 「ハーモニー」の感想

ャラクターデザイン

 人によって、小説を読んだ時に抱くイメージは千差万別です。ハーモニーは、登場人物が少ない。主人公であり物語の視点となる霧慧トァン。螺旋監察官の制服を着た彼女は、私がイメージしていたよりも若い。可愛いと言うより綺麗で意志が強そうな顔立ちは、上級螺旋監察官として相応しいと感じるところもあります。ミァハたちと自殺を図った時から13年後。当時高校生なので、トァンは30歳前後か。その割には、見た目が若い。WatchMeのおかげで年齢の割に若いと言うのは、設定上おかしくないのかもしれない。しかしWatchMeを誤魔化し、酒を飲み煙草を吸うトァンは健康的な外見ではなかったはずです。その割には、綺麗すぎる印象です。まあ主人公だし、こんなところだろうか。取り立てて、ストーリーに集中できないほどの違和感がある訳ではありません。 

 ミァハの外見は、私が抱く小説内のイメージに近い。大人になったミァハは、高校生の頃の少女の面影を残しています。高校生の頃のミァハと大人のミァハを重ねている(あまり変わっていない)のは小説通りでしょう。ただミァハのカリスマ性・イデオローグを表現するためなのか、あまりに艶めかし過ぎる。映像でミァハを表現するのなら、こういう表現方法になるのだろうか。 

 この二人が小説のイメージとかけ離れてなければ、キャラクター的には観ていて大きな違和感はありません。他の登場人物で気になるところがあったとしても、目を瞑ることが出来ます。ただ、唯一、トァンの父「霧慧ヌァザ」は、イメージから大きく外していた。医療福祉社会を作り出すほどの科学者に見えません。科学者だからと言って、眼鏡をかけて白衣を着ていないと駄目だという訳ではありませんが。何となく、手塚治虫のブラックジャックを連想してしまう。そのことが大きな違和感の原因かもしれない。

 

 生命主義を映像でどのように表現するのか。近未来というだけなら、それほど難しくないかもしれません。しかし、病気がなく生命が尊ばれる社会は、どんな風景なのか。

 物語は、紛争地帯から日本へ。日本からバクダットへ。そしてチェチェンへ。

 徹底した生命主義の日本。バクダットの外で生命主義から外れた人々。このふたつの風景を対比することで、生命主義を表現しています。生命主義から外れた人々は、今現在の私たちの生活環境を描けばいいのかもしれない。問題は、行き過ぎた生命主義の社会をどう表現するか。小説内での表現のひとつは、オーグ(拡張現実)に表示される社会評価点(ソーシャル・アセスメント)です。それは、映像中でもオーグに描き出されています。ただ小説を読んでいないと、意味が分からないでしょう。

 そして、トァンが何よりも嫌悪していたのが人々の同一性です。WatchMeによって許容された健康の指数の範囲内に収まる人々。誰もが許容範囲内に収まる世界は、全ての人を同じに見せる。トァンは、そのことに大きな圧迫感と不快感があります。このことの表現は難しいと思う。小説を読んでいなければ、似たような顔や体型の人を出してもそこまで深く感じ取れないでしょう。

 近未来の映像としては、体組織を使った飛行機や超高層ビルなどで表現しています。しかし生命主義を映像だけで表現するのは、無理なのかもしれません。ピンクで彩られた景色の意味も、小説を読んでいないと分からないでしょう。  

 

説との違い

 最初に書きましたが、物語の展開は小説に忠実だと思います。登場人物は省かれていたり設定が違ったりするところもありますが、ストーリー自体に大きく影響を及ぼすほどでもありません。例えば、小説ではチェチェンでミァハに会うために現地の螺旋監察官に協力を求めますが、その監察官は登場しません。また、ミァハに会う手段にミァハの名刺を使いますが、そのエピソードもありません。 

小説に比べれば、全体的に物語が薄くなるのは仕方ないでしょう。 

 そういった細かい点はいいにしても、トァンがミァハを撃った理由が違うものになったのは、何故だろうか。小説では、父とキアンの復讐のためにトァンは引き金を引きます。ミァハに対する複雑な心境を持ちながらも、トァンの意志は復讐を選択します。意識を無くす世界が来る前に行った最後の意志が「復讐」です。 

 映画では、生命主義に抵抗するミァハこそがトァンにとってのミァハであったということ。生命主義を否定せず意識のない完全な社会性を持った人間の世界を求めるミァハは、彼女のミァハではない。過去のミァハを肯定し、今のミァハを否定するため引き金を引く。全く動機が異なっています。何故変えたのか。  

 

最後に

 物足りなさは感じますが、十分に楽しめたと思います。原作のイメージを壊さず、外形的には同じ結末を持ってきながら内面的には違う結末にしています。小説をなぞるだけの映画にしなかったのは、監督自身が独自性を表現したかったのかもしれません。賛否は分かれると思いますが。