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『さざなみのよる』:木皿 泉【感想】|宿り、去って、やがてまたやって来る

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 こんにちは。本日は、木皿 泉氏の「さざなみのよる」の感想です。 

 

 木皿泉氏の小説を読むのは初めてです。夫婦脚本家のペンネームだと知り、二人で小説を執筆していくのはどんな作業なのか興味の抱くところです。

 本作は死を扱っています。生きている限り、死は逃れられません。多くの人は死は暗くて望ましくないものだと思っています。だから、死をテーマにした小説は暗くて重くなることが多い。

 本作も末期癌で余命わずかなナスミの姿から始まります。40歳代での死は早い。思い残すことも多いだろう。彼女の死は辛く悲しい。しかし、彼女の死から続く物語は、彼女に関わった人たちの人生です。ナスミが死んだことを知ってから、彼女との関わりを思い返します。彼女の死を通して、彼女の周りの人々の人生(生)を描きます。ナスミを失った悲しみはありますが、それ以上にナスミの生きてきた人生が生き生きと描かれていきます。

 ナスミの死がさざなみとなり、彼女と関わった人々に伝わります。小さな波の方が心に静かに広がっていくのだろう。さざなみは思い出を静かに思い出させます。 

 「さざなみのよる」の内容

富士山の間近でマーケットストア「富士ファミリー」を営む、小国家三姉妹の次女・ナスミ。一度は家出をし東京へ、のちに結婚し帰ってきた彼女は、病気のため43歳で息をひきとるが、その言葉と存在は、家族や友人、そして彼女を知らない次世代の子どもたちにまで広がっていく。【引用:「BOOK」データベース】 

  

 「さざなみのよる」の感想 

きた軌跡

 人は一人で生きていません。どんな人生であろうと他人と関わります。独力で生きてきたと思っている人は傲慢だろう。

 自身の人生に満足できるかどうかには多くの要素があります。「やりたいことができた」「充実した日々を過ごした」など。その中でも、他人との関係が及ぼす影響は大きい。

 癌を患いわずかな余命のために入院している時、ナスミは突然訪れた死に嘆き、日々の苦痛に苛まれていただろう。生きている意味を見失ったかもしれません。 しかし、生きてきた意味がなくなることはありません。ナスミの人生は周りの人々の人生の一部になっています。また、周りの人々の人生もナスミの一部になっています。

 ナスミは病室で人生を思うだろう。満たされた過去であれば、現在も満たされているはずです。現在は過去から繋がっているものだからです。「夫の日出夫との生活」「幼い頃からの家族との生活」など、治療の苦痛の中で多くの出来事を思い出します。

 思いどおりにならなかったこともあるだろうし、やり残したこともあるはずです。寿命を全うしても、人生に満足できている人は少ないかもしれません。それでもナスミは悪い人生ではなかったと思います。

 死んでいなくなったとしても、ナスミが生きてきた軌跡は消えません。早い死を迎えることは不幸だとしても、それで人生の全てが不幸になるとは限らないのだろう。全ての人々がその考えに至るとは思えないが、そうありたい。 

 

は悲しみだけではない

 ナスミの死は近しい人たちに悲しみをもたらします。家族にとっては、ナスミがいなくなる喪失感は大きい。しかし、どれだけ悲しい出来事があったとしても、残された家族は生きていかなければなりません。また、人は悲しみだけを背負って生きていくことはできません。

 時間が悲しみを和らげていくのは、そうしないと生きていけないからかもしれません。ナスミが死ぬことで彼女と過ごす未来は永遠に失われますが、彼女の今までの人生がなくなった訳ではありません。

 ナスミと疎遠になっている人たちは、普段は彼女を思い出すことはないだろう。しかし、ナスミの死を知り、彼女と過ごした日々を思い出します。ナスミの死がきっかけになります。

 ナスミ自身が自覚していなくても、彼女は周りに影響を与えています。40数年の人生は長くありませんが、多くの人と接して生きています。誰であろうと周りに影響を与えたり、与えられたりしているものです。 

 物語は、第一話のナスミの死から始まります。その後は、彼女と関わった人たちとナスミの物語が始まります。ナスミ以外の人たちの人生を通して、ナスミが描かれます。それとともにナスミに影響された人生も描かれていきます。多くの人の視点で描かれるナスミは様々な一面を見せますが、それでもナスミだと思わせます。

 死ぬ者にとっては、死は終焉です。しかし、残された者にとっては、人生を振り返るきっかけになるのだろう。  

 

い出は消えない

 人は何かを完全に忘れてしまうことはできません。忘れたと思っているのは、単に記憶の奥底に沈んでしまい、浮かび上がらせるきっかけがないだけだろう。人生を変えた出来事でも、日常の中に埋もれていく。

 思い出すきっかけは人によって違います。身近な人や知り合いの死は大きなきっかけになるのは間違いありません。自分の人生に影響を与えていたならなおさらです。その時に、自分の人生に影響を与えていたと気付くこともあるだろう。

 ナスミの死は彼女と関わった人たちにきっかけを与えます。家族はもちろんですが、わずかな関わりしかなかったとしてもです。彼女の人生は多くの人の中に残っています。そこにいるナスミは生き生きとしているだろう。

 死がきっかけとなり思い出すので悲しみを感じるのは間違いありません。しかし、思い出の中には悲しみ以外も含まれています。ナスミの死が重苦しくならないのは、その思い出のためだろう。

 ナスミの死後、人々は鮮明に彼女を思い出します。彼女に抱いていた感情も。必ずしも綺麗な思い出ばかりではありません。だからこそ、ナスミの死が現実感を持って伝わってきます。悲しみ以外も伴いながら。

 ナスミが死ぬ前に再会できた人は、自身の思いを伝えることができた。訪れる死に対して辛い気持ちがあったとしても、気持ちに区切りはできただろう。しかし、すでに死んでしまったことを聞いた人は、自身の中でナスミとの思い出を消化しなければなりません。過去を思い出さなければいいのだが、そうはいかない。それが誰かと関わるということだし、生きるということだろう。

 思い出は決して消えません。人はそれほど都合よく出来ていない。しかし、思い出にどうやって向き合うかは自由です。思い出は記憶の奥深くに沈んでいくだろう。大事な思い出として。 

 

終わりに 

 ナスミの死を通じて描かれるのは、彼女の人生だけではありません。彼女に関わった人たちの人生を描き出します。生きている人たちは未来に向けて生きていかなけれぱなりません。ナスミの死に戸惑ったとしても、それを受け入れ、先へ進みます。

 本作は過去を描きながらも未来への物語なのだろう。死を扱っていながらも、どこか幸せな読後感がある理由かもしれない。