こんにちは。本日は、塩田武士氏の「罪の声」の感想です。
1985年から86年にかけて発生した「グリコ・森永事件」をベースに執筆された小説です。当時、私はまだ子供でしたが、今でもきつね目の男の顔を思い浮かべることができます。
未解決事件なので犯人はフィクションですが、事件に関わる出来事は分かっている範囲で忠実に再現されているようです。私は、事件の詳細を知りません。毒入り菓子やきつね目の男の裏にこれほどの背景があったことを初めて知りました。詳細に事件を調べ、取材を重ねたのだろう。
しかし、それだけではノンフィクションの域を出ません。あくまでもフィクションの小説です。読者を引き込まなければなりません。未解決事件の犯人を描くからには、説得力が必要です。警察でも辿り着けなかった事件の全容をフィクションという枠内でいかにして描くのか気になります。
「罪の声」の内容
京都でテーラーを営む曽根俊也。自宅で見つけた古いカセットテープを再生すると、幼いころの自分の声が。それは日本を震撼させた脅迫事件に使われた男児の声と、まったく同じものだった。
一方、大日新聞の記者、阿久津英士も、この未解決事件を追い始め―。 【引用:「BOOK」データベース】
「罪の声」の感想
事件を追う者
新聞記者が未解決事件を追うのは不思議ではありません。しかし、時効事件を扱うからにはそれなりの理由が必要です。未解決事件の特集もそのひとつです。ただ、どこまで追求していくか。追求する動機の形成が必要だろう。
阿久津を社会部ではなく文化部の記者にしたのは、著者の策略だろう。事件記者が追いきれなかった真相に切り込むには、事件を眺める違う視点が必要です。また、事件に対する向き合い方を変化させるためにも、事件記者から距離を置いている者が重要だったのかもしれない。
阿久津は仕事だから取り組まざるを得ません。鳥居からの強烈なプレッシャーもある。上司に対して仕事をしているので、どちらかと言えば内向きの動機です。しかし、彼の行動は事件の背景を浮かび上がらせます。事件の全てを知ろうとする自発的な意思が徐々に生まれていき、それがもたらした結果かもしれません。阿久津の変化が事件の様相を変化させていきます。
もう一人の主人公が曽根俊也です。京都でテーラーを営み、普通の生活を送る男性です。妻と幼い娘、母親と暮らし、母と妻の関係に気を遣う日々に追われています。日本を賑わせた事件と関わりがあるなど考え難い。
そんな彼が、父の遺品から手帳とテープを見つけたことで一気に物語が進んでいきます。テープに吹き込まれた内容が事件で使われた音声であり、それが自身の声である事実は無視するにはあまりにも大きな事実であり衝撃です。曽根は事件を追わずにはいられません。自分と家族の問題として事件を調べます。
曽根は阿久津よりもずっと思い詰めることになります。事件を調べた結果次第では、今の生活が根底から崩れ去ります。しかし、無視できない。葛藤の連続だろう。
阿久津と曽根は同じ事件を追いますが、動機は全く違います。しかし、事件の真相はひとつなのだから行き着く先は同じです。徐々に距離を詰めていく二人の緊張感が伝わってきます。
グリコ・森永事件
事件の概要を知っているつもりでいましたが、それは氷山の一角であることが分かった。フィクションですが調べるとかなりの部分がグリコ・森永事件のとおりです。もちろん、固有名詞は変えられていますが。
捜査の都合上、当時、記者発表された内容は限られていただろう。時効が成立してから明らかになった事実も多いかもしれない。ここまで詳細に描かれていることから、著者の取材や情報収集に感心します。
現実の事件をモチーフにしていて、かなりの部分が事実に則しているからといって、書かれていることが全て真実とは限りません。阿久津や曽根が関わる部分は創作が多いだろう。また、事件に関わった人々が実在の人物であったとしても、当時の心境までは明確ではありません。ただ、あくまでもグリコ・森永事件をモチーフにした小説であることを忘れなければ間違った認識を持つことはないだろう。
小説で描かれているのは、阿久津と曽根の人生です。彼らの過去と現在と未来です。それらを事件を追うことで描きます。事件の真相が彼らにとって重要な理由は、彼らの人生を変えてしまうほどの事件だからです。
これを機会にグリコ・森永事件を調べてみるのもいいかもしれない。作中の事件がどこまで真実か知ってみたい。その過程でグリコ・森永事件が日本に与えた影響を知ることができるだろう。
知ることの意味
知ることで人生に何がもたらされるかは分かりません。自身に関わることならばなおさらです。曽根は事件に対して全く興味がなかっただろう。きっかけがなければ思い出すこともなかったかもしれません。しかし、手帳とテープが出てきたことで無視できなくなった。
知らなくても、今の生活を続けることはできます。テープの内容を考えれば、知らずにいる方が賢明です。それでも事件と家族の関わりを知らなければならないと感じます。好奇心とは違う自らの義務としてです。先にあるものが安心を与えてくれる保証はないと知りながらも。
阿久津は事件に直接的に関係はありません。あくまでも記者として調べているに過ぎません。しかし、知ることは何かをもたらします。事件の真相を知ったとしても、阿久津自身の人生に直接的な影響を与える訳ではないだろう。しかし、阿久津の生き方には影響を与えます。
事件には犯人がいます。犯人がいれば、犯人たちの人生があります。事件の背後には犯人たちの人生が潜んでいる。他人の人生を深く知ることは、自身の人生を振り返るきっかけにもなります。
阿久津は事件を通して今までの生き方を見つめ、これからの人生を考えたのだろう。 知ることでどんな結果がもたらされたとしても受け入れざるを得ません。それが知ることは意味です。知ることを放棄することもできます。それも選択肢のひとつです。しかし、人は計算だけで動くとは限らない。
犯罪が生むもの
犯罪は闇を生みます。そもそも負の感情が動機です。どれだけ正当に見える動機であっても、それは犯人から見たものに過ぎません。周りに悪意を撒き散らしながら、犯人たちもより悪意に染まっていくのだろう。犯罪はエスカレートし、歯止めがなくなっていく。
犯人たちは、それぞれの動機を持っています。動機が全く一致することは少ないだろう。恨みや金銭を動機とするならばなおさらです。目的を果たす方法が一致していることで繋がっているに過ぎない。
動機(目的)が違えば、引き際も変わってきます。犯人たちに亀裂が生じるのは当然の帰結です。亀裂が生じた時には、犯人たちは一線を越えています。引き返すには手遅れです。
犯人たちは二つの勢力に分かれ、それぞれが主導権を握ろうとします。役割分担が成立している間はお互いが必要ですが、役割が終われば不要になります。犯人たち同士で生き残りをかけ、戦わなければならない。また、逃げ続けなければならない。
法律上の犯罪は罪を背負うことになります。背負う闇は深く大きく、消すことはできません。また、闇は広く伝染します。阿久津も曽根も事件を追うことで、闇を見ることになります。光を当てることでさらに闇は深まる。しかし、闇を乗り越えた先には新しい世界が広がるのかもしれません。元の世界に戻らなくても。
終わりに
現実に起こった未解決事件をベースにしていながら、現実と違う結末を用意することは難しいだろう。納得できる筋書きで、なおかつ小説として引き込んでいかなければなりません。グリコ・森永事件の捜査を踏まえた上で、フィクションの犯人まで繋げ、阿久津と曽根の物語を完結させています。事実とフィクションが上手く溶け合っている。 映画化もされているので観てみたい。