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『フーガはユーガ』:伊坂幸太郎【感想】|だけど僕たちは、手強い

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 こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「フーガはユーガ」の感想です。

 

 伊坂幸太郎の1年ぶりの新作長編。私はまだ、彼の小説を全て読んでいません。未読の作品があるにもかかわらず、新作が出ると嬉しい。出版順に読んでいるのですが、新作ということで我慢できずに読んでしまいました。第一期の作品ほど軽妙な会話や伏線が際立つということはないのですが、それでも伏線を仕込み回収するという手法は相変わらず冴えています。

 結末で全ての謎が解決する作品ではないように感じます。そもそも、物語が一体どこに向かっているのかがよく分かりません。優我と弟の風我の人生は、一体何のために語られているのか。優我は何を考えているのか。彼らの不幸な人生を描くだけの物語であるはずがない。しかし、優我の目的が予想出来ません。彼らの人生自体に引き込まれながらも、物語の結末がどこに向かうのか。一気に読み切ってしまうほど、先が気になってしまいます。ネタバレしますので、ご注意ください。 

「フーガはユウガ」の内容 

常盤優我は仙台市のファミレスで一人の男に語り出す。双子の弟・風我のこと、決して幸せでなかった子供時代のこと、そして、彼ら兄弟だけの特別な「アレ」のこと。僕たちは双子で、僕たちは不運で、だけど僕たちは、手強い。【引用:「BOOK」データベース】 

 

「フーガはユウガ」の感想

意に満ちる

 伊坂幸太郎作品には、悪意に満ちた存在が登場することがままあります。オーデュボンの祈りの城山だったり、アヒルと鴨のコインロッカーのペット殺しの若者たちであったり、マリアビートルの王子であったり。著者の描く悪意は、読んでいて胸悪くなるほどです。悪意は悪意のままで存在し、途中で改心することもない。その一方で、純粋な善意が登場するかと言えばそうでもない気がします。純粋な善意で、悪意に対抗する訳でもない。単純な善悪で物語を描かないから、先が読めずに引き込まれるのかもしれません。

 本作もあらゆるところに悪意が満ちています。特定の一人を明確な悪意として表現していない。取り立てて言えば、優我と風我の父親と高杉が決定的な悪意の象徴です。しかし優我たちの周辺には、他にも多くの悪意が存在しています。

  • ワタボコリを虐める広尾たち。
  • 小玉の虐待をショーにする彼女の叔父。
  • ショーを鑑賞する人々。
  • 犯罪者を不当に弁護する弁護士。
  • 優我たちに無関心な母親。

 彼らは悪意に囲まれながらも、自らが悪意に染まることはありません。だからと言って善意の人間かと言われれば違う。時に悪意に立ち向かうこともありますが、必ずしも全てが善意からの行動ではない。自らの身を守るためでもあれば、誰かに向けられた悪意が気に入らないという理由もある。彼らは純粋に義憤に駆られて行動するのとは違います。そのことが、優我たちを人間的に描いているように感じます。

 人は悪に染まることはあっても、完全な善として生きていくことは出来ないのではないだろうか。誰でも、自分を大事に考える。たとえ人のために行動しようと考えても、最後には自分自身を選んでしまいます。彼らは建前でなく、本音の人間として描かれている。彼らは悪意の中で育ち、不幸であるからこそ周りの悪意に敏感であったのだろう。ただ、敏感に察知することはあっても、必ずしも全てに同情し解決しようとはしない。どうにもならないことが世の中にはあると諦めているようにも感じます。その一方、小玉を救い出すためにあらゆる手を使う。彼らの行動原理は、彼ら自身の中に確固としたものがあるのかも。それを善と呼べるかどうかは別の事柄ですが。 

 

実と非現実

 仙台を舞台にした現実的な物語でありながら、最も重要な要素は双子の特殊能力です。年に1回、2時間ごとに入れ替わる。非現実的な設定です。その設定を前提に物語が構築されています。SFでもありファンタジーでもある。重要な要素がファンタジーであるにしても、物語の骨格は現実的な世界、しかも不幸ばかりです。

  • 父親によるDV。
  • 小学生に対する轢き逃げ。
  • いじめ。

 現実世界に溢れる不幸な出来事が描かれ続ける。現実的には有り得ない(かもしれない)特殊能力を描きながらも、最も現実的に印象付けられる悪意に満ちた世界を描くことで物語に現実感が与えられます。優我たちに特殊能力があることに不思議さを感じない。仙台に住む人間に特殊能力があることに違和感がない。当たり前に存在しているように感じてしまいます。彼らの特殊能力と日常生活が絶妙に混然一体となって、彼らの生活と能力を不可分のものにしてしまいます。

 何故、現実世界に馴染むのか。

 特殊能力が物語の重要な要素でありながらも、特殊能力だけに頼った展開になっていないからかもしれない。彼らの能力は、彼らを不幸から解放するに足る能力とは言えません。二人が入れ替わることで、常人にはない何らかの大きな力を得る訳ではない。それに年に1回しか発動しない。双子が場所を入れ替えるだけと言ってしまえば終わってしまいます。彼らの日常の大半は、能力に頼らず生きていかなければならない。現実的な日常を過ごす彼らを描く。その上で能力を描く。現実という大きな土台の上で描かれる非現実は、現実に取り込まれ当たり前のように存在するものとして感じさせます。 

 

我と風我

 彼らはお互いのことを、兄弟であり、同志であり、自分自身でもあると感じています。彼らが置かれた特殊な状況が、彼らの関係を不可分のものにしたのだろうか。暴力のない普通の家庭で育てば、双子ではあるものの、ただの兄弟として育ったはずです。お互いを別の存在として認識し、生きていくことになったのだろう。しかし彼らはお互いを別の存在と見ながらも、同時に自分自身と同義に見ています。相手の立場に立つというよりは、相手自身になるといった表現の方が合っている。風我が殴られている時、優我は自分自身が殴られているのと同じ苦しみを味わう。だからこそ、彼らは不可分なのだろう。

 彼らの能力の発現のきっかけは何だったのだろうか。入れ替わる必要性もしくは入れ替わりたい欲求の発露だったと考えれば納得出来ます。殴られている風我を逃がすために入れ替わる必要がある。そう考えた優我の望みが、二人の入れ替わりという能力を開花させたのだろう。年に1回・2時間ごとという中途半端な能力になってしまったのは、発現した時期に彼らがまだ子供だったからかもしれない。 

その中途半端な能力が彼らの絆をさらに強めたように感じます。 

 思考錯誤を繰り返し、能力を理解しようとしていく二人。理解していくにつれ、使い勝手の悪さに気付いていく。しかし、何とかその能力を有効に使おうと考える。彼らを不幸から解放するほどの能力ではない。だからこそ二人で考える。

 彼らの不可分性は、考え方にも影響している。優我が感じていることは、風我も同じように感じています。逆もまた同じです。風我の方が感情の発露は激しいですが。彼らは能力以外にも多くのことを共有しています。身を守るために編み出した様々な意思疎通方法。お互いの行動原理の理解。彼らは共に暴力に耐え続けたことで、圧倒的な絆を手に入れていたのでしょう。 

 

終わりに

 悪意に満ちた物語の結末は、果たして救いのあるものだったのだろうか。目的は果たしたとしても、風我は優我を失います。彼らを不可分の存在だとすれば、その一部を失ったことになってしまいます。しかし別の見方をすれば、風我が生きているということは優我もまた生きているということになる。結末の見方とすれば、後者の見方が一番納得出来ます。

 彼らは悪意に負けた訳ではないが、完全な善意から行動を起こした訳でもない。優我の心に刺さっていた後悔を取り除くために高杉を探し出した。ある意味、自分のためのように見えます。しかし、そこには彼ら自身の悪意に対する嫌悪があったはず。それを善意と呼ぶこともできるかもしれません。 

 伊坂作品には、魅力的な兄弟が登場します。重力ピエロの泉水と春。魔王の安藤兄弟。本作の優我と風我も魅力的な兄弟です。安藤(兄)と同じく優我も死んでしまったのが寂しいですが。