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『凍りのくじら』:辻村深月【感想】|「少し・不思議」が彼女を変えていく

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 藤子・F・不二雄作品に対する敬愛が伝わります。本作では、「ドラえもん」に対する著者の思い入れが、随所に散らばっています。主人公の芦沢理帆子が抱く藤子・F・不二雄への思いは、著者の思いを代弁しているのかもしれません。

 ドラえもんの物語には、人生に対する教訓が含まれています。登場する道具は、その教訓を表現するためのツールということだろうか。その教訓をダイレクトに感じ取ることが出来る人もいれば、そうでない人もいるはずです。ただ、感じ取ることができなくても無意識下で理解しているのかも。子供の頃の純粋な気持ちで見るドラえもんは、子供たちに多くのことを感じさせているのでしょう。

 本作は、ドラえもんに対する著者の思いだけでなく、それを物語の鍵として描いているところも興味深い。結末は、予想外でした。未読の方のために、ネタバレは極力さけたいと思います。 

「凍りのくじら」の内容 

藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う一人の青年に出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。皆が愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき―。【引用:「BOOK」データベース】 

「凍りのくじら」の感想

こし・不在 

 芦沢理帆子が人を評価する時に使用するのが「SF」。「サイエンス・フィクション」でなく、藤子・F・不二雄の言う「少し・不思議」の変化形です。彼女にとって、藤子・F・不二雄の存在はとても大きい。彼の作品だけでなく、彼自身の言葉にもかなりの影響を受けています。

 彼女は、藤子・F・不二雄の言葉を利用して人を評価しますが、その行為自体に満足しているように感じられます。彼女の評価は、彼女自身の印象によるものです。本質的に正しいかどうかまで追及することはない。外面からの印象であり、その人の奥深くまで関わっていくこともない。そのことが彼女の判断を誤らせることにもなるのですが。

 どんな人間でも周りの人間に対し評価をするものです。優しい・厳しい・おおらか・細かいなど。人との関係を築く時に、相手の特性を評価した上で付き合い方を考えていく。また付き合うかどうかを考えていく。そう考えれば、彼女の行為は、特段珍しいものではない。評価の仕方が、単純化されているに過ぎないのでしょう。

 彼女の特殊性は、自分自身の評価も、他人と同じやり方で行っていることです。

「少し・不在」

 彼女が自身に下した評価は、彼女にとってどういう意味があるものなのだろうか。自分自身に対する評価は、自分自身を見つめ直す作業でもあります。自分の評価に対し、何らかの対応をしようとするものです。自分の長所であれば伸ばそうと思う。短所だと改善しようとするか隠そうとする。彼女は少なくとも、好ましくは感じていません。しかし、直そうとも思っていない。自分自身はそういうものだと諦めています。

 一方、自分自身の内面を見せたくないという思いがあるからこそ、誰に対しても「少し・不在」になってしまいます。内面を見せたくないということは、存在自身に嫌悪を抱いているのだろうか。自分の存在意義を感じていないのだろうか。

 人格や性質が形成されるのは、多く事柄の積み重ねの結果です。そうして積み上げてきた自分自身が、たった一つの出来事で壊されていく。全く違う自分自身に変わってしまう。彼女の「少し・不在」は、父親が原因です。彼女の父親が戻らない限り、彼女は「少し・不在」のまま。そして戻ることは有り得ないからこそ、彼女の諦めが自身に評価に現れています。評価に対する諦めも。 

実の世界

 人を評価する時に、たった一言で評価することができるのだろうか。人には多面性があるはずです。それなのに彼女は、「少し、〇〇〇」で全てを評価してしまいます。対象となる人の一面のみを見て評価します。一面では、その評価が正しいと言えるかもしれない。しかし、隠された内面は必ずあります。

 彼女が自分自身のことを考えれば分かったはずです。彼女の自分自身の評価は「少し・不在」です。しかし、彼女の周りの人たちは、果たして彼女をそのように評価しているだろうか。それは有り得ない。有り得ないように彼女自身が振る舞っています。彼女を正しく評価できている人間はいません。そのことを考えると、彼女が行っている周りの人々の評価が必ずしも正しいと言えるはずもありません。彼女は、そのことに気付いていないのではないだろうか。自分自身の評価は正しい。周りの自分に対する評価は、自分自身でコントロール出来ている。彼女は自分自身の能力を見誤っています。そのことが、彼女を危機に陥れていきます。

 彼女が侮っているのは、彼女の周りにいる全ての人です。友人の忠告も、元カレ「若尾」の変貌もコントロール下にあると信じ切っています。周りの人間の思慮が、自分には及ばないと思い上がる。「少し・不在」は、人間関係を冷静に俯瞰できていると思い込む。彼女の人生経験の少なさが彼女に思い違いをさせています。確かに彼女は、一般的な人生を送っていません。父親の失踪。母親との確執。母親の余命。彼女の経験が、他の人間と自分は違うと認識させていった。そこに一種の思い上がりがあったのかもしれない。現実の厳しさを徐々に思い知っていくことになります。そのことは彼女の成長とって必要なことだったのでしょう。 

っかけ

 彼女が変わっていくきっかけは、何だったのだろうか。いろんな要素が考えられます。

  • 若尾に対する油断
  • 別所あきらとの出会い
  • 松永純也との出会い

  彼らの中に、人の本質を感じ取っていくことになったのでしょう。

 若尾に対する油断から彼女が知ったのは、人の闇の部分。彼女が抱いていた若尾の印象は、純粋でありながら甘えている。徐々に評価は変わっていくが、最初の評価を捨て去ることが出来なかった。捨て去りたくなかったと言えるかもしれません。彼は純粋であるから壊れていく。甘えているから自分の世界から出れない。人に対して危害を加えたり復讐したりできるはずがない。彼に対する評価を変えつつも、彼を侮った評価しか出来ていません。彼女は若尾を信じていたのだろうか。ある意味信じていたのかもしれない。自分自身の評価と彼の実像が合っていると。あまりに傲慢な態度にも見えます。彼女にとっては若尾が変わったように見えたのかもしれないが、もともと彼が保有していた性質でしょう。

 では、別所と純也との出会いは、彼女に何をもたらしたのだろうか。彼女は、彼らに対しても同じように評価を下します。人を評価するという行為は、彼女の生活に欠かせないものとなっています。彼女は彼らを評価する。彼女が下した評価は、果たして彼らの本質を捉えていたのか。もともと彼女の評価は、人の一面のみの評価でしかありません。今までは、その一面の評価が正しいように見えていただけです。若尾に対する評価のように。別所や純也に対する評価も、一面では合っていた。若尾への評価の誤りに気付いたことで、彼女は評価に意味がないことに気付いたのでしょう。

 そもそも彼女は自分自身のことを「少し・不在」と評価しています。それが正しいかどうかは別にして、少なくとも彼女はそう感じています。どこにいても不在の自分が、他人の評価を出来る訳がない。若尾への誤りに気付いたことで、自分自身が不在でいることの無意味さを知ったのでしょう。だからこそ、彼女は純也に対し真剣になり、自分の全てを懸けて探しだそうとした。

終わりに

  芦沢理帆子の成長を描いているのでしょうか。彼女が変わったことを成長と呼んでいいのかどうかはよく分かりません。彼女は気付いただけなのかもしれない。人は不在では生きていけない。どこかに、確かに存在していてこそ生きている。不在では人と繋がり合うことはできない。繋がらなければ、人の本当の姿を知ることなどできない。

 物語は、「少し・不思議」な結末です。現実的でないにしろ爽やかで不満を感じることはありません。また、結末を知ることで、今までの様々な事象に納得できます。ガチガチの現実的な物語かと思っていると、結末で驚かされます。前半は少しだれるところもありますが、若尾が変貌していくあたりから一気に引き込まれていきます。