第11回本屋大賞受賞作。和田 竜の小説は「忍びの国」「小太郎の左腕」を読みました。それらに比べ、村上海賊の娘は超長編です。単行本で上下巻、文庫だと4巻に及びます。超長編ながら、気が付けば一気読みでした。
戦国時代の歴史小説だと、主人公は有名な武将の作品が多い。本作でも織田信長を始め、多くの武将が登場します。そんな中、主人公は村上海賊の景。実在したかどうか明確でない娘です。歴史に名を残す武将を主人公にすると、記録が多く残っているため行動に制約が出てくるのかもしれません。その点、創作された人物を主人公にすれば行動の幅が広がります。史実は変えられませんが、景が史実にどのように関わったのかは創作出来ます。歴史を変えない範囲であれば、景をどのように活躍させるかは著者の自由なのでしょう。著者の思い描いた活躍を景が体現していき、読者を引き込んでいきます。
「村上海賊の娘」の内容
時は戦国。乱世にその名を轟かせた海賊衆がいた。村上海賊―。瀬戸内海の島々に根を張り、強勢を誇る当主の村上武吉。彼の剛勇と荒々しさを引き継いだのは、娘の景だった。海賊働きに明け暮れ、地元では嫁の貰い手のない悍婦で醜女。この姫が合戦前夜の難波へ向かう時、物語の幕が開く―。【引用:「BOOK」データベース】
「村上海賊の娘」の感想
史実と創作
本作は、史実にある「第一次木津川口の戦い」が舞台です。そこに至った過程から結末まで、歴史上の事実として明白です。それなのに、どうしてこれほど引き込まれ、ハラハラして読み進めてしまうのでしょうか。
以前読んだ作品でも感じていたことですが、著者の作品は登場人物がとても魅力的なので、一挙手一投足に目が離せない。主人公に限らず、敵・味方問わず強烈に印象に残ります。結末が分かっていながらもページを捲る手が止まらないのは、登場する人物の行動に目が離せないからです。
多くの登場人物は史実に基づいていますが、史実に基づかない登場人物もいます。冒頭に書きましたが、主人公の村上景もその一人です。能島村上の当主 村上武吉には娘がいたようですが、明確に記録が残っている訳ではありません。景が創作された人物ならば、彼女の活躍は全て創作です。
彼女以外の歴史上の登場人物であっても、景との関わりは創作されているはずです。
景は物語の最も重要な人物であり、彼女の行動が「第一次木津川口の戦い」の趨勢を決しています。史実は違うでしょう。しかし、史実に記録がないことが起こっていないこととは限らない。史実にないこと全てが事実でないと決めつけてしまうのも寂しい。
本作は創作されたフィクションがあるからこそ、読み応えのある作品になっていることは間違いありません。だからと言って、歴史の裏にはこういったことがあってもいいのではないか。そう思わせてしまうくらいに、史実とフィクションが融合しています。史実とフィクションが混然と交わることにより、全てが事実のように感じてしまう。だからこそ引き込まれていきます。
記憶に残る登場人物
登場する人物は、全てが記憶に残ります。実在か創作かは関係ありません。
歴史上の人物は、ある程度の先入観があります。本作にも登場する織田信長は、行動も性格もほとんどの人が同じ認識を持っているはずです。記録も多く創作し難い人物かもしれない。ただ織田信長のイメージをさらに強調することで、圧倒的な存在感を放っています。また、毛利家の武将を始め、記録が多く残っている人物はイメージを壊すことなく、さらに魅力的に描かれています。一人の人として悩んだり苦しんだりする人間臭さを描いているからでしょう。村上海賊、真鍋海賊を始めとする泉州侍も同じです。彼らは、先述の武将ほど記録が残っていないかもしれない。それでも村上海賊が何をしたか、どんな存在だったかは分かります。真鍋海賊や泉州侍もそうです。彼らのイメージを増幅するように描くことで、更なるインパクトを受けます。
創作された人物も、属する母体があります。景は村上海賊ですし、源爺や留吉は大阪本願寺の門徒です。個々の個性は、育ちや信念に大きく影響されます。創作された人物も実際に存在したかのような現実感を伴うのは、それぞれが属するものに馴染んでいるからです。だから、実在した人物と混ざりあっても違和感を感じません。
村上海賊と真鍋海賊
同じ海賊なので根柢に流れる性質は同じように感じます。海賊気質と言えます。武士の矜持とは違います。村上も真鍋も、当初はそれほど違いを感じません。違いを感じないからこそ、景も真鍋海賊にスムーズに馴染んでいきます。
村上海賊と真鍋海賊の違いは、一体どこにあったのか。海賊としての違いはあまりない。違うのは、集団を構成する個々の個性です。村上海賊も真鍋海賊も残虐でありながら、どこか飄々とした雰囲気が漂います。飄々とした雰囲気は、個々の人物の持つ性質が生み出すものです。飄々とした雰囲気が真鍋海賊の方が圧倒的に際立っていた。泉州という土地柄が育んだ気質かもしれません。
「面白い」が最上級の褒め言葉である泉州人を強調して描いています。
戦いの強さよりも「面白い」が先立つような真鍋海賊は、理解し難い部分があるとともに妙に納得してしまいます。戦なので勝敗は最も重要な要素です。真鍋海賊も勝つために戦っています。ただ、戦いの中に「面白い」が必要であり、「面白い」があると何もかもに納得してしまう気楽さも漂います。だからと言って、泉州侍全てが同じように「面白い」を体現している訳ではありません。沼間義清のような武士の矜持を持った人物も存在します。泉州では、沼間は異質な存在なのでしょう。その異質な存在すらも、存在が認められていきます。
真鍋海賊は先の展開が読めない。村上海賊は、真鍋海賊に比べ面白みが少なかったかなという印象があります。だからと言って、登場人物の魅力は面白みだけではないので色褪せることはありませんが。
景の変化
本作は、景の内面の変化を描いています。成長とも言えるかもしれません。景以外の登場人物は、あまりぶれない。自らの生き様を決め、その通りに生きようとしている者ばかりです。生き方を変えることは、それまでの自分の人生を否定することにもなりかねない。信じていたものを壊してしまうことは、自分自身の存在を壊すことと同じです。だから、一度決めた生き方を全うしようとするのでしょう。
景も同じように生きてきたはずです。村上海賊として生きています。海賊としての気楽さと残虐さを併せ持ち、そのことに全く疑問を抱いていません。そうすることが自分の存在価値であるかのように。しかし、天王寺合戦が景を大きく動揺させます。
何が景を変えたのか。直接的な原因は、眞鍋七五三兵衛が源爺を討ったことでしょう。戦においては当然の行為です。しかし、景が抱いていた戦に対する理想と現実は、あまりにかけ離れていたということでしょう。彼女が打ちのめされた現実は、あまりに過酷だった。挫折と言っていいのだろうか。初めて現実を知ったことによる衝撃に耐えられなかったということだろうか。ただ、人は成長することが出来ます。彼女の変化を成長と呼ぶことが適当かどうかは別にして、彼女は再び戦の中に戻ってきます。しかし、戦に臨む景は以前の景と全く違う。瀬戸内と大阪を行き交う景は、その度に変貌していきます。
終わりに
天王寺合戦も第一次木津川口の戦いも結果は分かっています。しかし、景の行く末は分かりません。結果が分かっている戦でありながらも、そこに身を投じる景がどうなるのか分からないからこそ、本作はページを捲る手が止まらない。
登場人物の大半は実在の人物です。実在の人物と歴史の事実を舞台にしながらも、創作の人物を登場させることで先読みできない展開を作り出します。歴史上の事実にどこまで沿っているのか。齟齬が生じていないのか。私は、そこまで分かりません。もしかしたら、歴史に詳しい人にとっては納得し難いところもあるのかも。歴史書ではないので、そこまで厳密に歴史に沿う必要はないと思います。フィクションですし。長編ですが、一気に読み切らせるだけの内容を持った小説です。