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『サブマリン』:伊坂幸太郎【感想】|偶然なのか、運命か?暗い深海からの声を見つけたい。

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  こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「サブマリン」の感想です。

 

 「チルドレン」から12年振りに「陣内」が戻ってきました。伊坂作品の中でも、陣内は魅力的なキャラクターです。破天荒で無茶な人物ですが、言葉や行動には人生の真理を感じることがあります。

 「チルドレン」は陣内を中心に描いていたのでストーリーよりもキャラが目立っていました。「サブマリン」は長編作品ということもあり、キャラよりもストーリーに引き込まれます。

 家裁調査官の陣内と武藤が扱うのは少年事件です。少年事件は考えさせられることが多い。読み進めると現実に起こった少年犯罪を思い出します。それらの事件の表層しか見ていなかったと実感します。

 事件には少年が関わっていて、彼らには背景があります。背景を見る必要があるのかどうかの問題もありますし、結果だけを見ていれば良いのかという問題もあります。

  • 少年法の是非
  • 罪に対する罰と更生
  • 被害者の悲しみと加害者の苦悩

 犯罪は社会に存在する大きな問題です。少年犯罪はその中に横たわる大きな存在です。誰もが無関係でいられるとは限りません。

 本作は、武藤たちが接する少年の物語です。武藤は大人や世間の常識を、陣内は人間としての常識を示しているのだろう。 

「サブマリン」の内容

家庭裁判所調査官の武藤は貧乏くじを引くタイプ。無免許事故を起こした19歳は、近親者が昔、死亡事故に遭っていたと判明。また15歳のパソコン少年は「ネットの犯行予告の真偽を見破れる」と言い出す。だが一番の問題は傍迷惑な上司・陣内の存在だった!【引用:「BOOK」データベース】 

 

「サブマリン」の感想

内と武藤の立場

 棚岡佑真を鑑別所へ護送する車の中から始まります。陣内と武藤の会話は相変わらず噛み合いません。陣内は誰とも噛み合わないと言えますが。「弘法、筆をそこそこ選ぶ」の内容も面白い。陣内が戻ってきた嬉しさを感じます。年齢を重ね、立場が上になっても変わらない。そこが陣内らしい。一方、護送されている棚岡佑真の事故は重い。二人の軽妙な会話と棚岡の置かれた立場の落差が余計に重大さを際立たせます。

 場面は変わり、武藤は小山田俊を訪問します。悪気のない自然な雰囲気ですが、犯した脅迫行為は法律上許されない。彼の犯した犯罪は、本作のテーマでもある復讐の一形態でしょう。彼は脅迫行為を行った者に対して脅迫を行った。彼の態度や言葉が罪を軽く見せますが、現実には結構な罪です。

 対象が脅迫を行った者というのが重要です。犯罪を犯した者に同じ行為で復讐することを正当化できるかどうか。小山田俊の場合は厳密には復讐ではありませんが、対象者にしてみれば同じことです。因果応報とでも言うべきだろうか。自身が行ったことと同じことをされて、異議を唱えたり相手の罪を責めることができるのか。

 小山田俊は誰も傷つけていません。だからこそ、彼の言動は軽いし、反省しているようで反省していません。武藤も、彼の言動に困惑しているが決定的に非難しきれていません。表面上だけでも反省していて欲しいと願っています。彼の脅迫行為に正当性を感じているのかもしれない。家裁調査官の立場的には反省を促し更生させるのは当然ですが。 

 

讐の正当性

 罪を犯した者には、罰を与えなければならない。社会を円滑に安全に動かすために必要です。被害者や遺族には、加害者に対し罰を与える権利があると思います。しかし、個人の復讐を許容することも社会を不安定にさせます。そのために法律を定め、罪に対して適切な罰を国家が科す。被害者たちの思いが反映されているのかどうかは分からない。

 身内を死に追いやられた遺族は犯人に死を求めるでしょう。死ぬということがどういうことか、その身に思い知らせたい。法律上、個人の復讐に正当性はありませんが、人として復讐に正当性がないと言い切れるだろうか。

 人を殺した者でも必ず死刑になる訳ではありません。殺した人数、残虐性、その他諸々が考慮されます。遺族にとっては身内が殺されたことに変わりはありません。人数で、何故、変わるのだろうかというのは素朴な疑問です。年齢によって罰が変わるのが少年法です。18歳未満については量刑が緩和されます。実名報道も制限されます。

 被害者にしてみれば結果が全てであり、自らの手で罰を与えられないのならば、結果に応じた罰を望みます。しかし、罰は加害者の事情を細かに考慮します。第三者の立場で納得できないのであれば、被害者や遺族はもっと納得できないはずです。

 少年法の目的は更生です。罪に対して罰を与えることを一義的に考えるのではなく、更生するためにはどうすればいいかを考えます。少年は更生が可能だと考えます。犯罪を犯すのは、本人の責任によらない背景があるということだろう。年齢で一律に線を引くことに違和感があります。少年法が頻繁に議論になる理由です。

 少年法で守られる犯人のプライバシーや量刑の軽減は本当に必要なのだろうか。復讐に代替するのが国家の刑罰ならば、時代の要請に応じて変えていく必要があります。少年法もそのひとつでしょう。

 

害者の罪と罰

 加害者には必ず罪が存在するのか。

 このことが加害者と被害者の間で罪に対する意識を変えます。人が死んだ時、死という事実は変わりませんが過程は様々です。殺されたのか、事故なのか、故意か過失か。加害者から見れば状況を考慮して欲しいはずです。

  • 駅のホームで躓いて、前の人を線路に突き飛ばしてしまい、列車に轢かれた。
  • 殺意を抱いて包丁を持ち、無差別に人を殺した。

 死という結果だけで量刑を決めれば同じ罰にしなければなりません。しかし、同じ刑罰にしてしまうのも無理があります。加害者から見れば、結果は同じでも罪の重さには違いがあると考えるでしょう。結果だけでなく過程も含めて、それに見合った罰を与える。もちろん、死刑になる犯罪は別次元の話になると思いますが。

 加害者に必ず罪があるとは限らない。結果だけで罰を決めないことも、社会を円滑にするには必要です。ただ、被害者はそう考えません。常に犯人に対する恨みが残り続けます。犯人の反省や後悔は外からは見えません。外形的には見えますが、心の奥底は見えない。見えないものに納得することはできません。

 加害者から見る罪と被害者から見る罪は違います。棚岡佑真は被害者で在り続けましたが、突然、加害者になった。犯人を守っていた少年法に、自らが守られる立場になります。棚岡佑真は加害者になり、罪と罰に対する考え方が変わったのだろうか。

 若林青年の罪も重い。誰かを死に至らしめた罪は一生消えません。加害者の全員が若林青年のように苦しみ、罪に苛まれて生きていくとは限りません。しかし、彼を見ていると少年法にも一定の効果があります。やはり、個別の事件ごとに詳細に判断していくしかないのだろう。

 

年法と被害者の苦悩

 少年法の目的は更生であり、罰を与えることではありません。罰も更生のための方策のひとつです。しかし、年齢だけで区別すると、同じ犯罪であってもたった一歳違いで罰が変わってきます。法律は、どこかで線を引くものだと言われれば頷くしかありませんが。

 被害者が納得する刑罰などないでしょう。元に戻して欲しいが、それは叶いません。自身で復讐できないのだから、無理やり納得するしかありません。無理やりでも納得できない刑罰だったとしたら我慢するしかありません。法律に従うならば、他に選択肢はない。

 棚岡佑真は納得しなかった。何年も心に秘めて復讐を実行しようとした。結果は悲惨なものです。彼が死なせた人間がどのような人間であったとしても結果は変わりません。

 自身が納得できなかった少年法に自らが守られることは、棚岡佑真に苦悩を与えたかもしれません。もちろん少年法のせいだけではなく、起こした結果を受け止めれば一生苦悩を背負うのは当然です。

 表題「サブマリン」の意味もそこにあります。

 

彼の起こした事故は、十年経っても消えることがなく、姿が見えない時もどこか、視界の外に潜んでいる。

水中の潜水艦の如く、そしてことあるごとに、急浮上し、若林青年に襲い掛かるのだ

 

 苦悩は消えません。

 

終わりに

 少年犯罪に対する著者の思いや問題提起を強く感じます。そこに陣内の何気ない一言が真理を言い当てて胸に刺さります。

 棚岡佑真も若林青年も苦悩を抱えています。現実の少年たちが、皆、棚岡佑真や若林青年のようではありません。少年法を盾にして犯罪を起こす者もいます。そういう人間がいるから少年法の存在が問題になります。

 陣内と武藤の掛け合いで軽妙さはありますが、テーマは深く重い。