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『すべての教育は「洗脳」である』:堀江貴文

 過激で挑戦的なタイトルが、いかにも堀江貴文らしい。ホリエモンが「教育」とりわけ「学校教育」について、独自の視点と考え方を書いています。内容に共感するかどうかは別にして、とても面白い。こういった考え方や背景があったのか。ホリエモンの言葉は、言われてみれば「なるほど」と思うけど言われるまで気付かない。 

 今まで読んできた著書の中でも感じていたことですが、ホリエモンは学校教育についてとても否定的です。本書のように学校教育について言及することはありませんでしたが、彼が過去を語るときに必ず否定的な経験として書かれていました。

 何故、否定的なのか。それを徹底的に解明し、追及したのが本書です。彼独自の考え方に過ぎないかもしれない。ただ、ホリエモンらしく、小気味よくテンポのいい理論展開で読みやすい。 

 「すべての教育は「洗脳」である」の内容

学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関だった。しかし、インターネットの発達で国境を無視した自由な交流が可能になった現代、国家は名実ともに“虚構の共同体”に成り下がった。もはや義務教育で学ぶ「常識」は害悪でしかなく、学校の敷いたレールに乗り続けては「やりたいこと」も「幸せ」も見つからない。では、これからの教育の理想形とはいかなるものか?「学校はいらない」「学びとは没頭である」「好きなことにとことんハマれ」「遊びは未来の仕事になる」―本音で闘うホリエモンの“俺流”教育論!【引用:「BOOK」データベース】 

第1章 学校は国策「洗脳機関」である

 学校が洗脳機関であること、すなわち教育が洗脳である理由が書かれています。学校が成立した理由。そこで行われる教育の目的。これらが、歴史的な背景や国家という視点から書かれています。いわゆる「洗脳」の定義によって、学校教育が洗脳かどうかの受け止め方は変わってきます。本書でも、一番最初に「洗脳とは何か」について書かれています。 一般的な意味は、

  1. 共産主義社会における思想改造。中華人民共和国成立後の、旧体制の知識人などに対する強制的な思想改造を非難したbrainwashingに由来。
  2. その人の主義や思想を根本的に改めさせること。  

 「洗脳」と言って思い浮かぶのは、カルト教団や悪徳商法のセミナーなどです。特に、オウムを思い浮かべます。ホリエモンは、オウムの信者たちが洗脳された理由も学校教育の産物だと断じます。学校教育で洗脳に慣らされたからこそ、洗脳に対する抵抗力がない。教育が洗脳だとすれば、ほぼ全ての日本人が洗脳慣れしていることになります。他人事ではないと危惧を抱く必要があるかもしれません。 

 では、学校教育で何を植え付けるのか。それは「常識」です。国家にとって都合の良い「常識」を植え付けることにより、従順で使いやすい国民・労働者を作ることが学校教育の最大の目的と論じます。第1章を読むだけで、学校に対する意識が変えさせられる思いがします。 

第2章 G人材とL人材

 インターネットの発達で、国境で区切られた国家という枠組みが崩壊しつつあります。枠組みが無くなれば、国家のための国民を養成する学校教育の存在価値がなくなります。もはや国家に依りかかり生きていくことが、過去のことになってきているのです。そこで、我々は、一人の人間としてどのように枠組みの中で生きていくのか。そこで、著者が考えるのは、「G人材」と「L人材」です。「G」はグローバル。「L」はローカル。これについては、本書の中で分かりやすい表で掲載されているので詳細は省略します。活動する領域の広さで、それぞれの特性が変わってくるということです。 

 ホリエモンは、誰が見ても「G人材」でしょう。本人もそう言っています。ホリエモンは、「G人材」が「L人材」に比べ優秀で裕福だと言っている訳ではありません。どちらが幸せでどちらが不幸と分けるべきものではなく、価値観の違いに過ぎないと。

 問題は、「G」にも「L」にも行けない人材がこれからの世界を生きていけないということです。なぜなら、国家に依存し変化についていけないから。自分がどちらの適性なのかは別にして、国家から離れ変化に対応しないといけない時代になっています。 

第3章 学びとは「没頭」である

 学校教育の不要さを強調しながら、学びが最も重要だと本章で言ってます。ただ、ホリエモンの言う学びとは「没頭」のことです。何かに没頭し、能動的に行動を起こすこと。これこそが学びだと言うことです。そして、その対象は何であっても構わないと。夢中になって何かの取り組み続けることが、イノベーションを生み出すことが出来ます。受動的な勉強からは、何も生み出しません。 

 学校教育は、没頭を否定します。なぜなら飛び抜けた一つの才能よりも、使いやすい「オールB」の人材育成こそが学校教育の目的だからです。「オールB」に導くために、様々な事を禁止する。要するに常識を植え付ける「洗脳」なのです。 

第4章 三つの「タグ」で自分の価値を上げよ!

 自分に価値を高める時に、「貯金型思考」と「投資型思考」の違いが表層化してきます。どちらの思考が求められているかは、一目瞭然です。もちろん「投資型思考」です。 

  • 「貯金型思考」を支えるのは、我慢。
  • 「投資型思考」を支えるのは、先読みと決断。 

 ここで言う貯金とは、お金のことだけではありません。自己投資と言われている「資格取得」や「人脈づくり」も、貯金型思考です。何かの目的のために資格を取得したり人脈を作っているのではなく、いざという時のために資格取得や人脈作りに励んでいる。それでは、費用対効果が低い。いざと言う時とは、いつなのか。いつ来るか分からないもののために、我慢をしても意味がありません。 

 では、「投資型思考」にとって重要なのは何か。それはコストパフォーマンスです。費用対効果が低いと投資になりません。では、投資によって何を得るか。それは、自身の時価総額を上げることです。時価総額を高めるためには、希少価値のある人材になる必要があります。そのための方法として「三つのタグ」が登場します。

 これは、藤原和博さんの考え方です。三つの分野で、それぞれ100分の1の人材になれば、100分の1の3乗。すなわち、1,000,000分の1の人材になれる。藤原和博さんの「本を読む人だけが手にするもの」の中でも書かれています。この中では、10分の1の人材になる方法ですが。 

 しかし、単純に三つのタグをつければいいと言うものではありません。価値を上げるタグでないといけません。そのことについて、具体例を挙げながら解説しているので分かりやすい。 

第5章 会社はいますぐ辞められる

 学校教育と同様に、会社も洗脳機関であると断じます。大人の我々は、洗脳である学校教育を受けてきています。その洗脳された大人が洗脳機関である会社に属し続けていると、洗脳から抜け出せません。

 確かに、会社も学校も非常に似ています。制服の代わりにスーツ。授業時間の代わりに就業時間。会社の常識を植え付けられることによる会社への依存体質。飛び抜けた才能よりも、従順で秩序を守る人間が優遇される組織。違和感を感じている人も多いはずです。しかし、そのような人々の多くが、会社に違和感を感じながらも辞められるわけがないと言います。ホリエモンは、それは嘘だと言い切ります。辞められる訳がないのでなく、辞めたくないの言い訳でしかない。辞められない理由を探し続けるのは、辞めたくないだけだと。 

 これからは、会社という従来の枠組みから脱出し、やりたいことをやっていく人間が生き残れる時代です。好きなことが仕事になる。好きなことだから没頭する。結果、仕事を遊び倒す。 「遊びながら、学びながら、働いている」このサイクルを広げていくのだと。動き出さなければ、洗脳は解けません。洗脳されていると考えているだけでは、前に進みません。行動に移すことで、初めて洗脳の呪縛から解き放たれ自由になれるのです。 

最後に

 学校教育の視点で書かれていますが、読んだことのある話も多く出てきます。それだけ、彼の考え方にブレがないということの証明かもしれません。 

 私は、本書で書かれている学校教育は、学校教育の一面としては正しいと感じます。平準化された、標準的で常識を有する人材を輩出し続ける。学校ごとに学力の差はあるとしても、突出したものは作りません。そのことが、国家や会社にとって有利なのも分かります。 

 しかし、私は、学校教育の全てを否定し不要だと断じることはできません。少なくとも、ある程度の教育水準を維持し続けることも必要ではないでしょうか。国家として必要だと言うことでなく、生きていく上で。例えば、日本の識字率の高さは学校教育の賜物だと思います。ある程度の教育がないとインターネットで必要な情報を得る時にも、選別が出来ないかもしれません。ネットは玉石混合ですので。問題は、学校教育の中身なのでしょう。