第146回芥川賞の受賞作。田中慎弥さんの「共喰い」と同時受賞です。円城塔氏の作品は、伊藤計劃氏との共作「屍者の帝国」を以前に読んだことがあるだけでした。その感想はいずれ書こうと思っていますが、文章表現がかなり難解でした。
「道化師の蝶」を読むに当たり純文学はあまり馴染みがない上に円城塔氏の作品ということで、それなりに覚悟して読み始めました。それでも、びっくりするぐらい全く理解できません。理解できないのは、ストーリーがよく分からないのもありますし、表現が複雑で何を言っているのかもよく分からない。
「道化師の蝶」の内容
無活用ラテン語で書かれた小説『猫の下で読むに限る』で道化師と名指された実業家のエイブラムス氏。その作者である友幸友幸は、エイブラムス氏の潤沢な資金と人員を投入した追跡をよそに転居を繰り返し、現地の言葉で書かれた原稿を残してゆく。幾重にも織り上げられた言語をめぐる物語。【引用:「BOOK」データベースの商品解説】
「道化師の蝶」の感想
物語の主体は?
商品解説を見ると、友幸友幸とエイブラムス氏の物語かと思ってしまいます。確かに2人は登場します。しかし、この小説で著者は物語を語るという行為をしていないと思います。それでは、この小説で著者は何を語ろうとしているのか・・・?
正直、著者の意図を理解することが出来ませんでした
これは、私の文章読解力のなさが問題なのかと不安になります。芥川賞を受賞しているので純文学として評価されているはずのものを全く理解できないのは、かなり寂しい。1回で分からなければ、もう一度読んでみようと2回読みました。2回目になると、多少は分かるようになります。この場合の「分かる」というのは、「分からなくても仕方ない」ということが分かるという意味です。
私を混乱させたのが、物語を語る視点です。この小説は一人称で語られています。Ⅰ章~Ⅴ章で構成されていますが、「わたし」が章ごとで変わっていきます。
おそらく各章ごとの「わたし」は、次のとおりでしょう。
- 第Ⅰ章 友幸作品「猫の下で読むに限る」の主人公
- 第Ⅱ章 「猫の下で読むに限る」の訳者
- 第Ⅲ章 友幸友幸(?)
- 第Ⅳ章 「A・A・エイブラムス私設記念館」のエージェント
- 第Ⅴ章 友幸友幸(?)
「わたし」が章ごとに変わることに全く触れていません。前章と同じように「わたし」と書いて続けていくのですが視点と場面が全く異なるので、そこで混乱してしまいます。「あれ?さっきの話は?どうなったの?」という感じです。
物語を貫くものは?
第Ⅰ章~第Ⅴ章に一貫してあるものは何なのか?おそらく「言葉」なのだろう。だからと言って、何を言いたいのかは全く分かりません。第Ⅰ章で「着想」という言葉が出てきますが、円城塔氏の頭にはどんな着想があったのだろうか。著者の思考がどうなっているのかを見てみたい。とにかくも、2回読んだくらいでは理解できないということも分かりました。加えて、何回読んでも多分理解できないだろうということも分かった気がします。
本を読む身としては反則なのですが、世間の人がどのように理解しているのかをネットで調べるという手法を取ってしまいました。
分からないという人が多数いる中で、書評をしている方もかなり見受けられました。書評の内容は書きませんが、書評できるくらいこの小説を理解できるのだと感心します。しかし、書いている書評を見ても、その書評自体が私にはよく分からないという始末です。円城塔氏の作品は、こういうものなのでしょう。難解で前衛的。従来の小説という枠組みで考えてはいけない。そう考えると稀有な作家です。
選考委員の意見
ネットで調べたついでに、当時の選考委員の選評も読んでみました。小説が難解で理解し難いものだと、選評の内容も難解になってしまうのでしょうか。選考委員の言いたいこともよく分からない。どちらかと言えば、あまり好意的な書き振りではないように感じましたが。石原慎太郎氏にいたっては酷評でした。
終わりに
純文学作品でもエンターテイメント作品でも作者が何かを表現するのであれば、それを読者に理解できるような形で提供する必要があるのか。それを考えてしまいます。そういう意味では不親切極まりないです。読者に理解してもらおうという気持ちをあまり感じません。確かに、読みたくなければ読まなければいいだけですけど。
結局のところは、読み手を選ぶ小説ということでしょう。一つだけ不思議なことは、これだけ分からない内容なのに途中で止めてしまわなかったことが不思議と言えば不思議です。ちなみに、もう一編「松ノ枝の記」も含まれています。これは「道化師の蝶」よりは多少は読みやすいかもです。
- 作者: 円城塔
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/01/15
- メディア: 文庫
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