1982年に公開された前作「ブレードランナー」から35年の時を経て、公開された「ブレードランナー2049」です。前作は、SF映画の未来に多大な影響を与えた名作として語り継がれるほどです。その続編が制作されるとなれば、当然期待は高まります。しかもリック・デッカード役のハリソン・フォードが出演する上に、前作の監督リドリー・スコットが今作では製作総指揮となればなおさらです。
前作は、圧倒的かつ独特な近未来の映像美と難解なテーマが印象的でした。本作のテーマは、人によって解釈があるかもしれませんが、「人間が人間として存在することができる理由は何か?」ということを、レプリカントと人間の戦いで描いていたと解釈しています。
35年経って映像技術も飛躍的に進歩した現在において、この名作がどのような形で受け継がれるのか。もちろん映像だけでなく、前作「ブレードランナー」に描かれたテーマがどのように表現されているのかも気になります。
「ブレードランナー2049」のあらすじ
2049年、貧困と病気が蔓延するカリフォルニア。
人間と見分けのつかない《レプリカント》が労働力として製造され、人間社会と危うい共存関係を保っていた。危険な《レプリカント》を取り締まる捜査官は《ブレードランナー》と呼ばれ、2つの社会の均衡と秩序をっていた―。
LA市警のブレードランナー“K”(R・ゴズリング)は、ある事件の捜査中に、《レプリカント》開発に力を注ぐウォレス社の【巨大な陰謀】を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男にたどり着く。彼は、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていた男、デッカード(H・フォード)だった。
いったい彼は何を知ってしまったのか?デッカードが命をかけて守り続けてきた〈秘密〉―
人間と《レプリカント》、2つの世界の秩序を崩壊させ、人類存亡に関わる〈真実〉が今、明かされようとしている。 【公式HPより】
作品情報
キャスト
- K/ジョー(ライアン・ゴズリング)・・・ロサンゼルス市警に所属する新世代レプリカントのブレードランナー。本作の主人公。
- リック・デッカード(ハリソン・フォード)・・・前作の主人公で、元ブレードランナー。今作において、最も重要な秘密を握っている。現在は消息不明。
- ジョイ(アナ・デ・アルマス)・・・ウォレス社製のホログラフィー。ホログラムであるが、Kの恋人。
- ニアンダー・ウォレス(ジャレッド・レト) ・・・ウォレス社の経営者。レプリカントを製造していたタイレル社の資産を買収し、新型のレプリカントを製造している。
- ラヴ(シルヴィア・フークス)・・・ウォレスの秘書。レプリカント。
- レイチェル(ショーン・ヤング)・・・前作のヒロイン。デッカードと共に消息は不明であった。
スタッフ
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
製作総指揮:リドリー・スコット
上映時間:163分
「ブレードランナー2049」の感想
ここからは、ネタバレ含みます。
「続編」の宿命
当たり前の話ですが、前作の続きだから「続編」です。なので、前作を観ていないと分からない部分があります。「ブレードランナー2049」も同じです。前作を観ていないと、おそらく半分もストーリーを理解できないのではないか。
- 生殖能力を持たないはずのレプリカントに子供がいた。
それが、ストーリーの重要な部分です。その子供を産んだのがレイチェルであることが分かります。レイチェルが一体何者なのか?デッカードとの関係は?それを知っていることを前提にストーリーが成り立っています。続編なので当然、前作は観ているものだということでしょう。
また、いろんなシーンで前作を彷彿とさせるシーンがあります。ストーリーに大きな影響のあるものから、そうでないものまでです。映画の始まりも瞳のアップからスピナー(空中を飛行できる車)が飛行しているシーンへと変わりますが、これは前作の始まり方と同じです。「K」がウォレス社にレイチェルの調査に訪れた時、前作でデッカードがレイチェルに行ったフォークト=カンプフ検査の音声が再生されます。また、「K」がデッカードを探すために、デッカードの元同僚を訪れます。その同僚が折り紙を折ります。前作に登場したガフの癖なので、この同僚がガフであることが分かります。
いろいろありますが、「ブレードランナー2049」は単体で楽しむことは出来ないと思います。続編なので仕方ありませんが、前作ありきで制作されていますので必ず前作を観てから鑑賞することをお勧めします。
映像美と重厚な音響
前作から35年経っていますので、映像技術も格段に進歩しています。映像は素晴らしく美しいです。しかし、その美しさ以上に大事なのが世界観です。前作では、近未来都市の印象を独特の世界観で表現していました。日本を意識した混沌とした街並みです。一説には、リドリー・スコットが来日した際に訪れた新宿歌舞伎町をイメージして作られたようです。前作は舞台のほとんどが街中だったので、その街並みがそのまま映画の世界観となっていたように感じます。夜と雨のシーンばかりだったので、その混沌さがさらに際立っていました。
今作においても、前作の世界観を引き継ぎつつ新しい世界を表現しています。街並みにおいては、前作同様、日本語が描かれていたり原色のネオンサインが溢れていたりします。そこにいる人々も同様に、混沌とした印象を与えます。ただ、前作よりは混沌さが薄まり、整理された綺麗さを街並みに感じます。
前作よりも行動範囲が大幅に広がっているのも変わっている部分です。冒頭には、スピナーで寒々しい空を背景にしながら広大な大地の上を飛んでいます。大規模な廃棄物処理場があったり、荒涼とした砂漠化したラスベガスが舞台となったりします。
現在の映像技術で、高度な現実感をもって映された映像には圧倒されます。
しかし、残念ながら世界観の統一がなくなってしまいました。混沌とした街並みがあるかと思えば、雪が舞う郊外の寂れた農場が出てきたりします。統一された世界観がないので、登場人物たちの世界が一体どのような世界なのかが伝わってきません。前作以上の世界を構築しようとしたのかもしれませんが、中途半端に前作のイメージが残っているので新しく感じません。映像技術が進んだから、いろんな世界を表現したいと思ったのかも。
そうして制作した映像をたくさん使いたい気持ちは分かりますが、意味もなく景色を俯瞰し続ける映像がとても多い。世界を俯瞰する映像を見せることで観客を魅了しようとしているのでしょう。しかし、一つの映画の中で違う世界観がいくつもあれば引き込まれません。それに、単調に景色だけを見せられてもストーリーの進行を阻害しているだけにしか感じません。
音響については、重厚で身体の奥に響く音響です。映像に負けない迫力ある音楽です。ただ、それ以上でも以下でもなく、音楽自体が心に残ったということはありません。映画の邪魔はしませんが、映画を盛り上げるといった感じもありません。
「K」の求めるもの
前作では、レプリカントに4年という寿命がありました。レプリカントが感情を持つことを防ぐための安全装置のためです。もし、感情が芽生えるようなことがあったとしても4年経てば寿命が来るということです。人間とレプリカントの決定的な違いは「感情」ということになります。その感情の発露として、命の大事さがあったのでしょう。
前作の最後で、レプリカントのロイ・バッティが寿命が訪れる寸前に、デッカードの命を助けます。レプリカントである彼が、命の意味を知ったからです。そのことがレプリカントである彼と人間の違いを曖昧にしたのです。人間が人間として存在するためには何が必要か、という命題を投げかけたのです。
- 今作においては、何を描いているのか。
今作に登場するレプリカントには、既に寿命はありません。しかも、感情も持ち合わせているように思います。「K」がホログラフィーであるジョイに抱いている愛情であったり、自分の過去の記憶が自分のものでなかったと判明した時の怒りであったり、感情を十分に表に出しています。「K」は、自分がレプリカントであることを認識しています。寿命もなく、感情も持ち合わせている彼が何を求めていたのか。
彼は製造されたのではなく、出産により生まれたのかもしれない。そのことが、彼に動揺を与えたのは分かります。しかし、出産により生まれても、製造されても、レプリカントであることに変わりはありません。
そもそもレプリカントから出産により生まれた子供は人間なのか、レプリカントなのか。それが提示されていません。
父親が人間のデッカード。母親がレプリカントのレイチェル。その子供はどっちなのか。もし人間ということになれば、「K」が動揺するのはよく分かります。もしかしたら、自分は人間なのかもしれないということだからです。しかしレプリカントであれば、レプリカントとして存在している「K」にとって何かが変わるというものではないと感じます。出産か製造かの違いだけです。この映画は、出産により生まれた子供が一体どのような存在なのかがはっきりしていません。はっきりしていないので、「K」が彼らの子供でありたいと願う気持ちがよく掴みきれないのです。
ウォレス社の立場ははっきりしています。生殖によりレプリカントを増産させたい。そのために、その子供を手に入れたい。実に明確です。しかし、「K」、何を求めていたのか。その子供が自分でないと分かってから、「K」は何を目的に子供を探し続けたのか。
まとめ
本作は、レプリカントの「K」の苦悩と葛藤をメインにストーリーが描かれています。その苦悩を表現することで、前作と同じように人間の存在について描きたかったのかどうかがよく分かりません。「K」の苦悩は「K」自身の苦悩にしか感じることが出来ず、普遍的なものとして受け取ることが出来ませんでした。
単なる「K」自身の物語に過ぎず、そこには、レプリカントを介して人間の本質を描くということがなかったように感じます。感想は、退屈な娯楽作品。そう思います。