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『華氏451度』:レイ・ブラッドベリ【感想】|本が燃える時、人も燃える

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ご覧いただきありがとうございます。今回は、レイ・ブラッドベリ氏の「華氏451度」の読書感想です。

レイ・ブラッドベリ氏の代表作です。1966年に「華氏451」のタイトルで映画化もされています。映画化と言えば、マイケル・ムーア監督がブッシュ政権批判のために制作した映画「華氏911」を思い出してしまいますね。ブラッドペリ側とムーア側でひと悶着あったようですけど。

最初、宇野利泰氏の訳書を手に取ったのですが読みづらかったので、伊藤典夫氏の新訳版を改めて読みました。
本の所持が禁止されている社会が舞台です。情報は映像と音声ばかり。本が発見されれば、昇火士消火士ではないですよ)が本を焼き払います。

始皇帝による焚書もナチス・ドイツによる焚書も目的がありました。本作においても同様です。本がもたらす情報は悪であり、平穏な社会を形成するために害悪を成すものだから焼き払います。

では、平穏な社会とはどんなものなのでしょうか。本を焼き払うことで何が得られるのでしょうか。本作が描き出そうとしているのは、社会の在り方そのものなのでしょう。
主人公「モンターグ」は昇火士ですが、少女クラリスとの出会いや書籍と共に燃えた老女を見て変化していきます。内面の変化が、彼に行動を起こさせるのです。
1953年に発表されたSF小説ですが、古臭い感じはしません。新訳版なので読みやすかったことも古臭さを感じさせなかった理由かも。

「華氏451度」のあらすじ

華氏451度ーこの温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく…。【引用:「BOOK」データベース】

 

「華氏451度」の感想

方的に溢れる情報

本の所持が禁止されることで、情報を得るための手段は映像や音声に頼ることになります。大画面テレビからは次々と情報が流れ出してきますが、何も考えずに受け取る情報は人に何も残しません。それらを浴びることで情報を得ているように感じているだけです。本を禁止することの目的のひとつは、人々に深い思考をさせないことです。
モンターグの妻ミルドレッドは大画面テレビが無ければ生きていけません。彼女の友人たちも同様です。そんな彼女たちは普通の人々の姿として描かれています。
彼女の人生は大画面テレビの中に存在します。流れてくる情報に疑問を抱かず、自らのアイデンティティは失われていきます。
「本」と「映像などの感覚的な情報」の違いは、思考を求めるかどうかです。映像や音声は流れる側から消えていきます。受け手に思考を求めるのではなく、情報を与えるだけです。

本も情報を与えるのは同じですが、先述したように思考を伴います。理由は主体的に読む必要があるからです。理解できなければ調べるし、背景を考えます。読むのを止め、深い思考に沈む時間を作ることもできます。しかし、映像や音声は絶え間なく流れてきます。思考を許さないのです。

 

話と思考と記憶力

本を読むことは、著者と対話をすることです。著者の思考を読み解き、自らの思考を組み立てます。その過程で同調や異論などが起こり、アイデンティティを養います。

もちろん映像の中にも同じ効果をもたらすものがあります。しかし、作中では、そのような映像や音声はありません。漫画などの思考を伴わない本は許されているようなので、映像も内容が制限されているのでしょう。
対話や思考を必要としない情報は記憶する必要がありません。記憶するに足る情報が含まれていないからです。しかし、情報を得ている満足感は与えられます。自分の人生が満たされているような満足感です。思考を伴わない情報は中毒性があるのかもしれません。
昇火士は、それらの構造を維持するための仕事です。社会を支えていると言っていいでしょう。一方、本に接する機会が多いのも事実です。
焚書は本に大きな力がある証拠です。モンターグはその力に影響されます。本を持ち帰る行為はその表れです。加えて、クラリスや老女との出会いがモンターグに引き返せない一線を跨がせたのでしょう。

 

互監視と見せかけの平穏

焚書の目的は平穏な社会の維持です。本を読むことは思考を促進させ、アイデンティティを構築します。確固たるアイデンティティは、現状に異議を唱える可能性があります。だからこそ、現実の歴史においても焚書が起きてきました。反発を生み出した気もしますが、多くの人々は思惑どおりに動いたのでしょう。
しかし、昇火士がいても燃やすべき本がどこにあるか分からないとどうしようもありません。見つけ出す手段は情報を得ることです。本がどれほど有害なものかを植え付けることで、人々は密告します。相互監視社会の感性です。

社会には、他人を信用しない闇が存在します。平穏は見せかけに過ぎません。誰もそのことに気付かない。自ら考えることを放棄すれば、物事の本質に気付かないのは当然でしょう。

 

終わりに

我々を取り巻く現実も、作中の社会と類似点が多いのかもしれません。本を読む人が減り、映像で情報を得ようとします。

ネットで得る情報は片寄っています。検索履歴や閲覧履歴に基づいた記事や広告が表示され、興味のない情報は最初から表示されません。作中のように社会を操作することも可能かもしれません。半世紀前の作品ですが、現在に通じるところがあるのは興味深い。

最後までご覧いただきありがとうございました。