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コンビニ人間:村田沙耶香【感想】|自分と社会にとって「普通」とは何か?

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 第155回芥川賞受賞作。日常生活のどの場面でも「普通」は存在します。「普通」の圏内にいる人々にとっては意識しないことでも、そこからはみ出した人にとっては意識せざるを得ません。無言の圧力に止まらず、面と向かって「普通」を強制する。本作を読めば、多くの人がどこかに共感を覚えるかもしれません。「普通」の側か、そうでないかは別にして。 

 本作は芥川賞にしては読みやすい。文章も平易で、理解し難い比喩が用いられている訳でもありません。加えて面白い。コンビニを中心として描いているので、ありふれた日常とも言えます。しかし、登場人物たちの言動に引き込まれていきます。

「コンビニ人間」の内容 

36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?【引用:「BOOK」データベース】 

「コンビニ人間」の感想

「普通」の価値観

 本作で描かれている「普通」とは、どういう価値観のことを指すのだろうか。おそらく社会の大多数が共有する共通の価値観のことを「普通」と定義しています。必ずしも確固たる基準があり、それに適合することが「普通」という訳ではありません。相対的な基準で評価されているからこそ、そこに属することが出来ない人たちにとっては納得し難い。 

相対的でありながらも、絶対的な価値観として存在しているからです。 

 そもそもどういう状態を「普通」と言うのか。多数を占める共通認識を「普通」と言うのであれば、社会における様々な事象が「普通」か「普通でない」のふたつに分かれてしまいます。同じ事象に対する認識がふたつあった場合、より多数を占めた方が「普通」になると言うだけです。少数側は多数側に吸収されるか、存在を潜めるしかなくなってしまいます。
 少数派は必ずしも尊重される訳ではありません。どちらかと言えば、排除される傾向にあるのでしょう。排除される危機感を感じるから、少数の価値観は表出してきません。多数を占める「普通」だけが社会に現れてくる。「普通」に属することが、排除される危険から逃れ安心に繋がることにもなります。結果として、「普通」の価値観から逃れられなくなります。

 ただ、その価値観も相対的なものでしかありません。「普通」も時代とともに変化していく価値観に過ぎません。変化していく価値観に過ぎない「普通」が、自分の人生を規定していく。「普通」について疑問を感じる人は少なくないかもしれません。だからと言って、その価値観を否定したり逃れたりすることは難しい。曖昧としていながらも抗うことが難しい。 

様性を受容する社会

 統一化された「普通」の価値観しか許容できない社会は不健全なのでしょうか。そう問われれば、不健全だと答える人がほとんどだと思います。社会が人で構成されている以上、多かれ少なかれ多様性は存在します。人はそれぞれに違う存在だからです。

 ただ、社会は構成員たる人々の全ての多様性を許容できるかどうかと言われれば、難しいと思わざるを得ません。社会は個々の人々の集合体に過ぎませんが、それ自体でひとつの独立した存在です。その存在を維持するためには、ある程度の秩序が必要になってきます。その秩序は法律のように目に見えるものもありますが、「普通」と言う価値観も重要な要素です。構成員たる人々が同じ価値観を共有するからこそ、社会が円滑に動く側面は否定できません。 

社会には、許容が許される多様性と許されない多様性があるのでしょう。 

 そのこと自体は、それほど悪いことではないかもしれません。共同体を維持していくためには、ある程度の共通認識が必要です。共通認識が、社会にとって潤滑油のような役割を果たすこともあります。問題は、あらゆることについて「普通」を強要するかどうかです。先ほども書きましたが、個々の人々が多様性があるのは当然です。社会が受け入れることの出来る多様性は、誰によって決められるのでしょうか。誰が決めるものでもないのでしょう。逆に言えば、誰でも決めることが出来る。社会は独立した存在でありながら、個々の集合体でもあります。社会が許容できる多様性を決めるのは、社会ではなく個々の人々によって行われることになるのです。

 多様性を受容する社会を目指しながらも実現しないのは、受容するかどうかを個々の人間が判断するからかもしれません。「普通」に属する人々は、異質な存在は排除します。自分と違う存在を疎ましく思うのは自然なことです。受容するべきと考えながらも受容できないのは、実際に受容する社会が判断するのでなく個々の人々が判断するからかもしれません。社会と構成員たる人々に隔たりがあるのでしょう。 

会適合性

 「普通」であろうとするか、それとも社会に背を向けるか。社会に属さず生きていくことは出来ません。本作では、現在の社会における「普通」に溶け込めないふたりを軸に物語が構成されています。「普通」であろうとする恵子と、社会に背を向けた白羽。どちらも現代の「普通」から外れています。社会に対する向き合い方は違っても、社会適合出来ないことに変わりはありません。向き合い方だけでなく、普通に対する考え方も全く違います。同じ社会不適合者でありながら、全く違うと言えます。

 まずは、恵子です。彼女にとっての「普通」とは何なのだろうか。彼女の「普通」は、社会にとって異質だったのは間違いありません。彼女の「普通」はあまりにも社会とかけ離れています。個々人のそれともかけ離れています。それは、彼女の次のような行動に現れています。

  • 公園で死んでいた小鳥を母に見せ、「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言う
  • 喧嘩している同級生を止めるためにスコップで頭を殴り、「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」と言う
  • 女の先生が激しく喚き散らしている時にスカートとパンツを勢いよく下ろし、「大人の女の人が服を脱がされて静かになっているのをテレビの映画で見たことがある」と言う

 彼女の行動は合理的ですが、相手の立場に立って考えることをしません。彼女も、それが「普通」でないと理解しています。だからこそコンビニで働くまでは、自らの行動を自制し続けた生活をしています。彼女にとって、コンビニのマニュアルは理想的な「普通」の姿だったのでしょう。マニュアルに従えば、彼女も他の店員と同じ「普通」になれます。「普通」との隔たりを埋めるために何をすればいいのか。自ら考えることなく、社会に溶け込めます。彼女にとって最も居心地が良い場所だったのでしょう。その場所も年月の経過とともに、社会の「普通」に侵食されていくことになるのですが。

 白羽はどうでしょうか。彼が社会に適合できないのは、恵子とは違います。どちらかと言えば、白羽の方が現実的に感じます。恵子の性質より、白羽の方がより多く実在していそうです。彼の考え方に共感・同調出来る人は少ないのではないでしょうか。確かに、彼の考え方にも一理あります。結婚し子供を作る。就職し金を稼ぐ。そこから外れた人は「普通」として扱ってもらえない。硬直化した「普通」の考え方に異議を唱えるのは間違っていないかもしれません。共感できないのは、彼が努力しないからでしょう。社会に同調する気がないなら、同調せずに生きていける努力をするべきです。同調せずに生きていけないなら、同調すべく努力すべきでもあります。不満を口にして恵子に寄りかかり生きていこうとする様は、あまりに見苦しい。彼の言動に一理あったとしても共感出来ません。 

終わりに

 恵子はコンビニ店員に戻っていきます。彼女が求めたのは「普通」ではなくて、自らの存在意義だったのでしょうか。「普通」でなくても自分が社会にとって欠かせない存在だとすれば、彼女はそこまで「普通」に固執しなかったかもしれません。「普通」で有り続けないと、自らの存在意義を維持できなかった。そして「普通」であり続けるためには、細部まで規定されたコンビニ店員が一番馴染むことが出来た。

 結果的に、彼女は何かに目覚めたのでしょうか。彼女の内面に変化が訪れたとは思いません。白羽と出会い、コンビニ店員から離れることにより、彼女は再認識しただけに過ぎないのかもしれない。「普通」の人間になることは出来ないが、「普通」のコンビニ店員で有り続けることは出来る。社会にとって有意なのはコンビニ店員である恵子であり、また自分自身もそう感じていると。

 結局のところ、元の場所に戻ってきただけとも言えます。彼女がマニュアル化されたコンビニ店員であり続けることが「普通」を維持できる唯一の方法だとしたら、彼女にとって出口のない状況です。ただ、変化を求めていないのなら出口がないからこそ、安心できるということなのかもしれません。