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マチネの終わりに:平野啓一郎【感想】|大人の切なく美しい恋物語

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 主人公の「蒔野聡史」は38歳。「小峰洋子」は40歳。恋愛小説の主人公としては、年齢が高い。恋愛小説の主人公は、10代から20代くらいの若者の物語が多い。30代40代になると、不倫をテーマにした物語が多くなっている気がします。しかし、年齢を重ねたからと言って、人を愛する感情に曇りが生じるものではないはずです。蒔野と洋子が持っているお互いを愛する感情は、とても純粋なものだと感じます。

 ただ、40歳前後という年齢は、若いころに比べお互い抱えるものが増えています。仕事であったり、家族であったり、自分自身の考え方の問題であったり。これまで積み重ねてきた年月が、自分の感情に素直に従う自由さを奪ってしまうのでしょう。人生で積み重ねてきた理性が、感情の衝動に従う自由さを奪ってしまうのかもしれません。自立した人間だからこそ、相手のことも自立した一人の人間だと考えます。そのことが、自分自身の感情の衝動を抑えてしまう。果たして相手のことを考えることが、相手のためになるのかどうか。二人のすれ違いは、40歳という年齢が引き起こした結果かもしれません。 

「マチネの終わりに」の内容

天才ギタリストの蒔野(38)と通信社記者の洋子(40)。
出会った瞬間から強く惹かれ合った蒔野と洋子。しかし、洋子には婚約者がいた。
スランプに陥りもがく蒔野。人知れず体の不調に苦しむ洋子。
やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまうが……。   

「マチネの終わりに」の感想

40歳という年齢

 先ほども書きましたが、恋愛小説の主人公としては年齢が高い。しかし、人生で経験したことが多いほど物語に恋愛以外のテーマを含めることができるのでしょう。著者は、この作品について、次のように述べています。 

小説の中心的なテーマは「恋愛」ですが、そこは僕の小説ですので、文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代の困難、父と娘、《ヴェニスに死す》症候群、リルケの詩、……といった硬軟、大小様々なテーマが折り重なって、重層的な作りになっています。もちろん、全篇にわたって音楽の存在は重要です! 

 蒔野にしても、洋子にしても、それぞれが置かれた状況は今までの人生の積み重ねの結果です。蒔野のクラシックギタリストとしての栄光と現在のスランプ。過去の栄光が華やかであればあるほど、現在、蒔野が抱えるギタリストとしての苦悩が際立ってきます。人生の全てをクラシックギターに懸けてきた蒔野にとって、スランプは彼の存在を揺るがすほどの出来事でしょう。  

 洋子はバクダットで遭遇した自爆テロ以来、PTSDの症状に悩まされます。彼女はパリに帰ってきてから、パリの平穏な世界とイラクの混迷の落差に苦しんでいるように感じます。死が近くにある世界がある一方、あまりにも平和なパリの日常。イラクの現状を世界に報道することで、この問題を世界が共有すべき事柄だと伝えたかった。しかし、そこに居続けることが出来なかった自分自身に苦悩を感じているのかもしれません。 

 蒔野も洋子も、多くの深い苦悩を抱えていきます。そのことが二人の関係の進展に大きな影響を与えていくことになります。この苦悩は今まで歩んできた人生があるからこそ、ここまで大きく深刻なものになってしまうのでしょう。40歳と言う年齢は、人生を達観するにはまだ若い。しかし、何事についても無関心で済ますにはあまりに年齢を重ねすぎている。彼らはその苦悩の中で、自らが進むべき道を探す必要があった。しかし、それはあまりにも困難なことに感じます。  

命の出会い

 蒔野と洋子が、ともに生きることを確かめ合うまで、たった3度しか会っていません。初めて会った時に、これが運命的な出会いだと感じる。何をきっかけに、そのことを感じるのか。初対面であるにも関わらず。 

 相手のことを理解できていることが重要な事柄なのだと感じます。初対面であろうと古くからの付き合いであろうと相手のことを理解出来なければ、そこに運命を感じることはないはずです。逆に相手のことを理解出来れば、初対面であろうと惹かれるものを感じるということです。長い期間をかけて理解を深めていくことが、初対面で理解出来てしまう。そのことが運命的な出会いという表現になるのでしょう。蒔野と洋子の出会いは、まさしく運命的なものだった。ただ、その気持ちをその場で伝えるのは、彼らの年齢では難しいものがあったのかもしれません。 

感情だけに従うには、あまりに理性的な年齢ということです。 

 また、蒔野と洋子が双方向の運命的な出会いなら三谷はどうなるのでしょう。蒔野のマネージャーの三谷が、蒔野に抱く感情は純粋なものでしょう。蒔野のことを最も大事に考えていると信じて疑わない姿は、一途とも身勝手とも受け取れます。彼女が洋子に対して行った行為は、身勝手で許されないものかもしれません。三谷自身もそのように感じているからこそ、罪の意識を払拭出来ずに生き続けています。ただ、罪の意識から逃れるために自己肯定を行っている部分もあります。それは、精神の自己防衛の側面もあると思われますが。

 三谷にとって、蒔野との出会いは運命的なものだった。双方向の運命ではなく、三谷が一方的に感じる運命であった。自分自身が抱いている蒔野への愛情に対し、蒔野が何も返してくれない。だからと言って、三谷の行動が正当化される訳ではありません。しかし、私は三谷は加害者であるとともに、被害者でもあると感じます。彼女の人生を彼女自身が狂わせたという意味でです。 

しさと現実

 恋愛小説でありながら、ドロドロとしたものを感じさせません。

  • フィアンセがいる洋子を、蒔野が奪う。
  • 三谷が、蒔野と洋子を陥れる。

 恋愛模様としては、ドロドロとした印象を持ってもおかしくない状況です。何故、終始、美しさを感じるのだろうか。直接的には、性的描写がほとんどなかったことが理由のひとつだと思います。彼らの内面の心象描写に重きが置かれていたからだと。また、彼らの心象自体が、美しさと儚さと苦悩と寂しさに溢れています。そこに、ドロドロとした恋愛模様の入る隙はありません。 

 そして、表現自体もとても美しい。芸術や文学を要素として彼らの心象を描写することにより、彼らの内面自体に芸術性を感じます。蒔野と洋子の愛情が純粋であること自体はもちろんですが、その感情の表現が文学的・芸術的で、美しさを増しています。

 その美しさに対比するように、混迷するイラクの情勢。リーマンショックで家を失った人々が描かれています。現実の悲惨さの中で、彼らの心象の美しさは際立ちます。必ずしも、そのために現実の悲惨さを描いている訳ではないでしょう。しかし、その対比が美しさとともに悲惨さも強調しています。その悲惨さも、著者が伝えたかったことのひとつではないかと感じます。 

最後に 

 フランス語や舞台用語に詳しい訳ではありません。なので、マチネ(matinee)と言う言葉の意味を知りませんでした。フランス語で「朝・午前」の意味とのこと。そこから、舞台用語として「昼公演」のことを指すようです。小説中では、「午後の演奏会」のフリガナとして「マチネ」が振られています。 

 物語の結末で、タイトルに意味が与えられます。二人の関係に何らかの解決があったのかどうか。現実的には、何も解決していないのかもしれません。しかし、彼ら二人の心の問題としては、彼らにもたらされたものがあるはずなのでしょう。