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『夏物語』:川上未映子【感想】|生まれてくることの意味は・・・

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 こんにちは。本日は、2020年本屋大賞第7位、川上未映子さんの「夏物語」の感想です。 

  

 一部と二部から構成されています。一部は、2008年芥川賞受賞作の「乳と卵」を再構築しています。「乳と卵」は未読なので本作との関係性については言及できませんが、描き切れなかった部分があったということでしょうか。「乳と卵」を読んでみたいと思います。

 二部は、AID(非配偶者間人工授精)がテーマです。二部が「夏物語」の主軸だとすれば、子供を持つ(出産する)こと自体の価値観を問うているのでしょう。

  • 出産する立場
  • 生まれてくる者の立場
  • 環境の違いと生い立ち
  • 望まれるか望まれないか

 様々な立場の人間が、様々な価値観で登場します。現状の制度の中では異質に感じるものもありますし、そもそも制度とは何かという問題もあります。人間の本能的な感情に正しいものはないのかもしれません。

 一部は面白みを感じる部分もありますが、二部はテーマが深い。  

「夏物語」の内容

大阪の下町に生まれ育ち、東京で小説家として生きる38歳の夏子には「自分の子どもに会いたい」という願いが芽生えつつあった。パートナーなしの出産の方法を探るうち、精子提供で生まれ、本当の父を捜す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。

いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言い、子どもを願うことの残酷さを夏子に対して問いかける。この世界は、生まれてくるのに値するのだろうか―。【引用:「BOOK]データベース】  

 

「夏物語」の感想

しい家族の形はあるのか

 普遍的に正しい家族の形はあるのかどうか。生物学上と制度上の両方に分けて考える必要があります。子供を産むためには父親と母親が必要ですが、産むことと育てることは別です。父親と母親と一緒に暮らすことから外れると間違っているのでしょうか。間違いではないですが、一般的ではないと認識しているでしょう。

 正しい家族の形という認識が家族をややこしくします。不可抗力で一般的な形から外れると可哀そうに繋がってしまいます。家族に限らず、何事でも望まない形になるのは不幸なことだからです。しかし、形どおりだから幸せとは限らない。

 巻子と夏子が父親と住み続けていたら幸せだったとは思えません。巻子と緑子が二人だけで暮らしているから不幸だと限りません。父親がいることが経済的に恵まれていることに繋がる訳でもない。

 父親がいるかいないかがテーマなのでしょうか。母親と子供は出産という過程を経ることで密接に繋がります。父親の存在感は薄い。子供がいることは、どのような方法や過程を経たとしても、生物学上の父親と母親は必ず存在します。母親の不在は描かれず、父親に焦点が当てられています。父親の存在は不確実で不確かなものだと言っているのかもしれません。

 逢沢には育ての父親がいます。彼を愛し育ててくれた。実の父親を捜す理由は、隠されていたことを知りたい気持ちからでしょう。育ての父親を否定した訳ではありません。生物学上のルーツを知ることと、現状に満足していることは別物です。

 定型化された家族像は描かれません。正しい形がないとすれば、間違った形もない。現状をどのようにして生んだかであり、望んだ形かどうかが重要です。子供にとってはすでに出来上がっていた形であり、子供自身が望んだ形ではありません。子供は正しいかどうかでなく知りたいかどうかなのでしょう。 

 

理と感情

 倫理は普遍的に存在するものとそうでないものがある。感情は個々人で差がある。どちらも自身の力で制御することが難しい。

 子供が欲しいのは人間の持つ根源的な本能による感情でしょう。その感情と倫理の折り合いが必要な場合があります。子供を持つことに倫理が影響するのは、父親と母親の間に子供が生まれることが当然だという考えがあるからです。父親と母親は家族制度の中に存在します。婚姻を軸にする家族制度を維持するためには倫理が必要です。制度に伴う倫理なので、制度の違いで倫理も変わる可能性はある。

 これから先はどうなるのでしょうか。科学の進歩が子供の誕生の仕方を変えます。父親と母親の存在ではなく、精子と卵子の存在だけで子供の誕生を考えることになる。父親と母親という人間の存在は不要になるでしょう。重要なのは精子と卵子の存在であり、倫理は制度から存在自体の倫理へと変わります。従来の倫理では説明できないから、誰も正しさを示せません。

 一方、子供が欲しいという感情は、全員ではないにしろ変わらず存在します。倫理で定めていない領域で子供を産むことの正しさはどこにあり、誰が保証してくれるのでしょうか。全ての責任を個人が負うことになるのでしょう。子供が欲しいと思った時に、可能にする技術がある。可能だが選択しなければならないし、正しさは誰もが持っていません。立場と考え方次第でどのようにでも受け止めることができます。

 AID(非配偶者間人工授精)が物語の主軸であり、言葉どおりの行為であり、可能性は無限に広い。精子と卵子があれば可能です。可能だからこそ悩みます。選択することが悩みを生むのは当然です。

 夏子の周りには多くの意見があり、あまりに違う意見と立場が入り混じります。感情に従うことが正解なのかどうか。子供の人生は夏子の人生とは別です。子供の人生に責任を取る必要があるのどうか。親の責任とはいったい何なのか。倫理と責任は一体かもしれません。外れれば責任の所在はたった一人に押し付けられるのでしょう。すでに画一的な倫理は存在しないかもしれませんが。

 

んで生まれる子はいない

 子供自身が生まれることを望むことはありません。望まれて生まれてくるかどうかです。生まれることと育てることは別であり、幸福に育てられるかどうかで生まれてきたことへの肯定感は変わるでしょう。

 登場人物は、皆、立場や考え方が違います。子供に対しても、産むことに対しても、育てることに対してもです。父親に対する考え方と言っていいかもしれません。理想的な父親像はあまり描かれない。逢沢の育ての親が愛情を持って育ててくれたくらいです。子供の置かれた環境は親の影響を受けざるを得ません。父親や家族に対する考え方は生きてきた環境で変わるのは自然なことです。

 善と逢沢は同じように父親の分からない子供として活動しています。善は生まれてこなければ苦しみを知ることはないと思っています。苦しみを与えられた者でしか分からないのでしょう。逢沢の苦しみは父親を知らされなかったことであり、隠されていたことです。善の具体的で実際的な肉体的・精神的な苦しみとは違います。

 善が抱く子供を産むことへの嫌悪は、彼女の環境が生み出したものです。望ましい環境を与えられない苦しみが、存在自体を自己肯定できない現在の彼女を生み出したのでしょう。

 夏子と逢沢の子供は、二人の希望と欲求だけで生まれてきます。当然ですが、子供の意思はありません。だからと言って、親が身勝手だと言い切れるでしょうか。

 善の考え方も分かる。夏子の気持も分かる。逢沢の思いも分かる。彼女たちは真剣に向き合っています。子供を得るかどうかを選択できるからこそ悩みます。もちろん、従来から子供を産むかどうかは親の選択です。しかし、方法が広がり、社会のコンセンサスがない状況が悩みを大きくします。

 

親の存在感

 家族の形として両親の存在が一般的ですが、父親がいなくても精子があれば子供は産まれます。不要さを言い出せば、母親も不要になってしまうかもしれませんが。

 父親の不存在は、育っていく環境での不存在生物学上の不存在があります。精子の提供だとしても生物学上は父親は存在します。育つ環境での不存在は、必ずしも望ましくないことに直結しません。父親の人間性によるところも大きい。一緒にいないほうが良いこともあります。

 母親の不存在については、それほど言及されません。母親になること自体の是非については、夏子と善のやり取りを通じて問うています。AIDをベースに物語を作っているので、あくまでも女性側からAIDの是非を問うているように感じます。夏子が会った精子提供者は、提供者であって当事者でないことが明白です。女性が選択する立場にあることは責任も負うことです。

 父親の在り方についての考え方は様々です。夏子と逢沢の選んだ形も、様々な考え方のひとつです。最終的な判断を子供に委ねるのは、責任逃れかもしれません。子供を第一に考えることと子供に選択させることはイコールではない気もします。

 

終わりに

 男性と女性で受け取り方は全く違うかもしれません。女性が読めば、共感もしくは反感のどちらかを抱くでしょう。男性が読むと、どこか他人事のように感じてしまうかもしれない。物語中でも、男性は当事者にはなっていません。逢沢はあくまでも子供としての当事者です。子供を産むか産まないか、どういう形で産むかの決定は、女性たちの視点で描かれます。

 科学の進歩がもたらした現状に倫理は追いつきません。それでも決断していかなければなりません。夏子と同じ立場や年代には心に響くのでしょう。問題提起のある深い物語です。