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『ノルウェイの森』:村上春樹【感想】|多くのものを喪失しようとも生き続けなければならない

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 「ノルウェイの森」は、過去に一度読んでいます。高校生か大学生くらいの時です。内容はあまり覚えていませんでしたが、性的描写が際立つ恋愛小説だという認識だったように記憶しています。今回、数十年ぶりに読み返しました。 

「ノルウェイの森」の内容 

暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。僕は一九六九年、もうすぐ二十歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。

あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと―。あたらしい僕の大学生活はこうしてはじまった。【引用:「BOOK」データベース】 

「ノルウェイの森」の感想 

失の物語

 表層的には恋愛小説という形ですが、本質は喪失の物語だと感じました。 第一章の冒頭で、次のように書かれています。   

僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。 

 失ったものを抱えながらも生き続けること。生き続けることで忘れられないと思っていた記憶でさえ、薄らいでいくことに対する不安と混乱。それでも、生きていくことの哀しみを描いているのかもしれません。今回再読して、そのように感じるようになっていました。 

 当時、本作のコピーとして「100%の恋愛小説」と帯に書かれていました。恋愛小説としての完成度も非常に高いです。その完成度と村上氏自身によるコピーのために、私は単なる恋愛小説それも性的描写の激しい小説としてしか認識できなかったのです。 

 しかし、その後の村上氏の話として、  

ほんとうは「これは100パーセントのリアリズム小説です」と書きたかったのだけれど(つまり「羊をめぐる冒険」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」とは違うということ)、そんなことを書くわけにもいかないので、「恋愛小説」という言葉を引っぱり出してきたわけです 

 と述べています。村上氏は、単なる恋愛小説としての書いた訳ではなかったということです。  

場人物 

  • ワタナベトオル(僕)・・・神戸の高校を卒業後、東京の私立大学文学部に進学。
  • キズキ・・・「僕」の高校時代の同級生で唯一の親友。高校3年の5月、何の前触れもなく自宅のガレージで自殺。
  • 直子・・・キズキの幼なじみで恋人。神戸にある女子高校卒業後、東京の女子大学に進学。キズキの死後は「僕」と会わなくなっていたが、中央線の車内で偶然再会した。その後、精神的な病気により京都の療養所で生活を送る。
  • 緑・・・「僕」と同じ大学で同じ授業を受講している活発な性格の女性。実家は書店を経営。
  • レイコ・・・直子がいた療養所の同室人の女性。年齢は38歳。かつてピアニストを目指していたが挫折し、3回にわたって精神病院に入院。
  • 永沢・・・「僕」が住む学生寮の上級生。東京大学法学部の学生。
  • ハツミ・・・永沢の恋人。東京のお嬢様女子大の学生。はっと人目を引く美人ではないが、上品で理知的かつユーモアがあり穏やかな人柄。
  • 突撃隊・・・「僕」が住む学生寮の同室人。生真面目で潔癖症。  

「ノルウェイの森」と死

 「ノルウェイの森」が喪失の物語であると最初に書きました。第一章において、直子が「僕」の前からいなくなっていることからも分かります。明確に死んだとも自殺したとも書かれていません。ただ「僕」の前からいなくなり、「僕」の中の直子の記憶でさえ遠ざかっていることが描かれています。 

 直子と過ごした19歳から20歳までの回想という形で物語は始まります。直子がいなくなったことが、直子の死であることは容易に想像できます。すなわち「僕」の回想として語られている直子が死ぬことについて、読者は最初から分かっています。物語の根底に死が流れ続けるのです。そして「僕」と直子の間に存在していたキズキという人物。彼も過去に自殺しています。直子自身に纏わりつく死と、「僕」と直子を繋げるキズキの死。読んでいて、死を意識せざるを得ない感覚が頭から離れません。  

 ただ、死に対し「僕」は次のように述べます。 

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。  

 生と死は、こちら側とあちら側という分離されたものではないと捉えています。キズキの死によって、キズキの死がキズキだけのものでなく「僕」をも捉えてしまったからです。死は、残された者を捉えてしまう。誰かの死は、生き続ける者の中に含まれてしまうということです。生きている者とともに、その死が生き続けるのだということでしょう。死という事実をもって喪失を表現し、残された者がその死を含んだまま生きなければならない苦悩を描いています。その死ですら記憶から薄れていく哀しみも描かれています。

 この小説の中では、喪失としての多くの死が「僕」の周りに起こります。もちろん、死以外の喪失もあります。「僕」の周りだけで3人の自殺が起こります。そして、緑の父親の脳腫瘍での死も起こります。 

これほど多くの死が身近に起こることは、現実にはほとんどないと思います 

 小説を読む上で重要な要素である「共感」を、この小説の登場人物の誰かに対して持つことは少ないかもしれません。だからと言って同じような経験がない人は、著者の本当の意図を理解できないということはないでしょう。要は、想像力です。死は誰にでも訪れますし、その死の形態がどのようなものであったとしても残された者を捉えるのは間違いありません。村上氏の小説は、彼の意図を理解するのが難しい。しかし、同じ経験がないから本質を理解できないと言うことは決してありません。 

と性 

 本作の性的描写は、いかに理解すべきなのか。大学生である「僕」には、根本的に違うふたつのセックスがあったと感じます。

 まずは単なる性処理としてのセックスです。永沢とのナンパで手当たり次第に女の子とセックスする。当事者である「僕」ですら嫌悪感を抱いてくるものです。それは、彼が生きていく上で必要としているものではないのでしょう。 

 そして、直子とのセックス。「僕」は直子を愛していたのかどうか。第一章の最後に「直子は僕のことを愛してさえいなかった」と述べています。その言葉を裏返すと、「僕」は直子を愛していたことになります。キズキを失い、喪失の中に生きている直子を救いたかったからなのか。精神的に弱った直子を普通の生活に戻してあげたかったからなのか。その動機ははっきりしませんが、「僕」が直子に惹かれていたのは間違いありません。直子も「僕」の気持ちを理解していたのでしょう。しかし、直子は「僕」のことを愛してはいなかった。「僕」と直子は、たった一度だけセックスをしています。 

愛していなかったのなら、その一度のセックスを、何故、直子は求めたのでしょうか。

 直子は、キズキの自殺により自分の死も無意識に意識していたのでしょう。自分の死が「僕」の生の中に生き続けるために、セックスという性をもって「僕」の記憶の中に残そうとしたのかもしれません。直子は、恋人であったキズキとセックスをしていません。それは、キズキの中に直子の生と死を記憶させる必要がなかったから。その時は、キズキの死が訪れることを想像もしていないでしょう。

 私の勝手な想像ですが、直子が「僕」とセックスしたのは、直子の中でキズキの生と死が遠く失われていくのを感じていたからかもしれません。だから、自分の生と死を「僕」に強く残すためにセックスをしたのでしょう。それは一度で十分だった。

 そのことは、レイコとの関係にも表れています。レイコは死ぬ訳ではありませんが、最後に「僕」の前から去ります。そして、二度と会うことはないということも分かっています。その時、お互いがセックスをしようと言います。それは、直子と「僕」のセックスに似たものがあるのかもしれません。死ではありませんが、お互いがこの先会うことがないと分かっている中で、セックス(性)により生を記憶させようとしたのかも。 

 もう一人「僕」との関係において重要なのが、緑です。緑は「僕」に好意を抱いています。しかし、「僕」は直子を理由に態度を保留し続けます。直子より緑を愛していると気付いてからも、セックスをしていません。緑は、「僕」の新しい出発として描かれるための存在なのでしょう。新しい出発の象徴として緑がいるのであれば、全てが終わった後で、緑との関係が始まるのが自然です。 

村上春樹自身の「ノルウェイの森」の捉え方 

 「村上春樹全作品 1979~1989 ⑥ ノルウェイの森」(講談社,1991)の序文「自作を語る」100パーセント・リアリズムへの挑戦と題された小冊子で、村上氏は『ノルウェイの森』について以下のように語っています。 

そしてこの話は基本的にカジュアリティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアリティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアリティーズについての話である。僕がここで本当に描きたかったのは恋愛の姿ではなく、むしろカジュアリティーズの姿であり、そのカジュアリティーズのあとに残って存続していかなければならない人々の、あるいは物事の姿である。成長というのはまさにそういうことなのだ。それは人々が孤独に戦い、傷つき、失われ、失い、そしてにもかかわらず生き延びていくことなのだ。   

 「ノルウェイの森」は、喪失と成長の物語だと言っています。しかし、この文章からは、その成長について必ずしもポジティブな印象を受けません。

  • 存続していかなければならない
  • それにもかかわらず生き延びていくことなのだ 

 成長とは、受け入れざるを得ないことを受け入れることだということです。そうだとすれば、「僕」は成長したということでしょう。哀しいことですが。