こんにちは。本日は、伊坂幸太郎氏の「アヒルと鴨のコインロッカー」の感想です。
複数の違うストーリーを絡ませながら伏線を張り、それらを結末で一箇所に収束させます。全く関係のないように思える出来事が実は繋がっており、全てが偶然でなく必然で引き起こされています。その手法の素晴らしさが、伊坂幸太郎の非凡な才能です。
個性溢れる登場人物、軽妙な台詞に彩られた仕掛けは読者を惹きつけます。文章を書くというより文章を編むという表現が似合います。複雑な伏線を最後に結びつけた時、読者は全ての事象に納得し物語を心に刻みます。
「アヒルと鴨のコインロッカー」の内容
引っ越してきたアパートで出会ったのは、悪魔めいた印象の長身の青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的は―たった一冊の広辞苑!?そんなおかしな話に乗る気などなかったのに、なぜか僕は決行の夜、モデルガンを手に書店の裏口に立ってしまったのだ!【引用:「BOOK」データベース】
「アヒルと鴨のコインロッカー」の感想
過去と現在
様々な伏線が最後に収束する様は見事の一言です。過去と現在をカットバック、交互に語ることで物語を描いています。現在は過去から繋がっています。過去の出来事が現在を作るのであれば、過去を語り過ぎると現在の出来事に謎が残りません。逆に、過去を隠し過ぎると現在に謎があるのかどうかも分からなくなります。
過去が要因で、現在が結果。そうであれば、要因がどんな結果を出したのか。結果がどんな要因から生まれたのか。それを複雑に伏線化しつつも、読みやすい文章になっています。
伊坂幸太郎の構成力の素晴らしさを感じます。
現在と過去のふたつの時間軸で語られる、ある3人の物語です。その3人の過去が、どのような現在を引き起こしたのか。それを過去と現在の異なるふたりの視点で描いています。
- 現在が「椎名」
- 過去が「琴美」
琴美は3人のうちのひとりです。残りのふたりは「河崎」とブータン人の「ドルジ」です。椎名は物語の傍観者であり、途中参加の当事者でもあります。そして、過去・現在を通して「河崎」が登場しています。「河崎」が物語の鍵となります。
椎名の視点から見る現在の物語
いきなり本屋強盗の現場というインパクトのある始まり方です。本屋強盗に至る過程も何もなく、いきなりのスタートです。もちろん、強盗に至る経緯は後々描かれますし、その背景も語られます。しかし、この過程を飛ばしていきなり現場から始めることにより、読者を一気に物語に引き込みます。
- 本屋強盗に巻き込まれた椎名がどういう人物なのか?
- 本屋強盗に巻き込んだ河崎がどういう人物なのか?
そのことを想像させるのです。椎名にとって一番知りたいこと。自分を本屋強盗に巻き込んだ河崎が一体何者なのか。何故、本屋強盗に自分を巻き込んだのか。それは読者が知りたいことと同じです。椎名を通して、読者も物語に参加しているような錯覚を抱かせる気がします。椎名が極めて一般的な大学生であることも、椎名に共感できる要素かもしれません。
一方、河崎は謎の人物です。一体、何を考えているのか分かりません。そのことが、漠然とした謎として存在し続けます。椎名と河崎のやり取りは、伊坂幸太郎らしく軽快な台詞と巧妙なストーリー展開で読んでいて面白い。その面白さの中にも謎めかしいものを散りばめ、伏線を張ってます。
河崎との関係以外にも、大学生の椎名には悩み事が多い。取るに足らないものばかりのように感じることが、実は物語の本質だったりするかもしれない。伊坂幸太郎の作品は全ての行動、台詞に対して気が抜けない。
琴美の視点から見る過去の物語
「琴美」「ドルジ」「河崎」の3人の物語を「琴美」の視点で描きます。この3人の物語も伊坂幸太郎らしい軽快かつ軽妙な台詞・行動で描かれていますが、現在の話とは根本的に違う部分があります。絶対的な「悪意」の存在です。もちろん、本屋強盗も、強盗の裏で河崎が企んでいた事も悪いことです。しかし、琴美が語る過去に出てくる「悪意」は比べ物になりません。
それはペット殺しを楽しむ3人の若者です。彼らの悪意と残酷さは、読んでいて目を背けたくなるほどです。その悪意を彼ら3人が楽しんでいる。残酷を娯楽として描く。この両極の事象をひとつの事象として描くことで、彼らの悪意を増幅しているのです。
よくここまで悪意を表現できたものだ、と感心してしまいます。
現在の話は、どことなくのんびりした雰囲気が漂っています。椎名のキャラによるところが大きいのですが。過去の話は、一転して緊張感が漂います。悪意が琴美を包囲し、そして包囲網が迫ってくるからです。現在の話では、「琴美」は出てきません。そして、過去において琴美が悪意に狙われている。その悪意が琴美に何をするのか。最悪の結末を読者は想像してしまいます。そのことが更に緊張感を与えるのです。
軽快な台詞で物語が進むほど、悪意の存在が大きくなってきます。訪れる未来を吹き飛ばそうと足掻いているように思えて仕方ありません。
3人のペット殺しの若者は「オーデュボンの祈り」の「城山」を思い出させます。彼も絶対悪として描かれ、読者に嫌悪以上のものを与えました。それに匹敵する悪に感じました。
過去と現在の織りなす世界
最初に書きましたが、過去と現在は原因と結果の関係です。現在を知ろうとするには、過去を知らなければなりません。この両輪をどのように絡ませていくのか。単に過去と現在を繋げていくことだけで、この小説が完結するのか。もしかしたら、それ以上のことが起きるのではないか。様々な憶測が頭に浮かびます。
過去を知れば、現在の椎名が置かれている状況の理由が分かります。しかし、それが分かって物語が終わるとはとても思えません。それ以上の何かを期待してしまいます。そして期待は裏切られることはありません。期待以上の結末です。ただ、とても寂しくやり切れなく、どのように気持ちを整理すれば結末に納得できるのかを考えざるを得ません。
最後に
本作には、とても大きなトリックが隠されています。そのトリックが明かされた時、今までの全ての出来事に意味が現れます。そして、結末へと導く理由にもなるのです。トリックが明かされたことで導かれる結末は、決して望ましいものではありません。先ほども書きましたが、寂しくやり切れないものです。
しかし、唯一、光を与えるものがあるとすればドルジの死生観です。ブータン人のドルジは、日本人と違う死生観を持っています。それは小説の中での何気ない日常会話で語られ、読者の心に染み込んでいきます。この死生観があることにより、わずかな救いを感じることができる気がします。
「アヒルと鴨のコインロッカー」を読めば、このブログに書いていることが、ほんの一部の感想に過ぎないことが分かります。単なるミステリーでなく、読者の一人ひとりの心に必ず何かを与えてくれるものだと信じています。