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『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想みたいなもの】|Ⅲ 絶望と希望

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 こんにちは。前回、「『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想みたいなもの】|Ⅱ 政治面の難題」の続きです。  

Ⅲ 絶望と希望

 前例のないテクノロジーの難題と政治的な対立は、自分たちの見方についてもう少し謙虚になれば対処できます。テロの脅威、グローバルな戦争、争いを起こす偏見や憎しみに対して何ができるだろうか。

 「テロ」「戦争」「謙虚さ」「神」「世俗主義」の五つの視点から、これらの課題を考察しています。それぞれに副題があります。

 

  • 「テロ」・・・パニックを起こすな
  • 「戦争」・・・人間の愚かさをけっして過小評価してはならない
  • 「謙虚さ」・・・あなたは世界の中心ではない
  • 「神」・・・神の名をみだりに唱えてはならない
  • 「世俗主義」・・・自らの陰の面を認めよ

 

テロ

 何故、人々はテロをこれほどまでに恐れるのか。テロの犠牲者はそれほど多くありません。交通事故で亡くなる人や生活習慣病で亡くなる人の方が圧倒的に多い。

 テロリストは人々の心に恐怖を植え付ける能力に優れています。恐怖を広げることで政治情勢を変えることを期待する戦略に過ぎません。このような戦略を取る理由は、絶対的な物的損害を与える軍事力がないからです。恐怖こそがテロリストの取り得る戦略です。テロリストの目的は恐怖を与えることで敵国に混乱を生じさせ、政治的・軍事的混乱を引き起こす。混乱は力の均衡を壊すかもしれない。

 テロは戦略として有効かどうかと問われれば、決して効率的ではありません。恐怖を与えることができても、敵国が混乱するかどうかは相手次第です。全ての選択権は敵国にあります。テロリストは結果を待つ以外に方法はありません。

 しかし、テロリストの行動に過剰に反応することで、テロよりも恐ろしい結果を招くことがあります。それこそがテロリストの脅威なのです。

 テロは物的損害を与えるのではなく、情動的衝撃を与えます。より人目を引き、強烈に印象の残り、恐怖を煽るテロを演出します。我々はテロリストの演出に乗せられてはいけない。過剰な反応をした時点で、テロに負けたことになります。

 テロリストも自分たちに勝ち目のある戦いだと思っていません。彼らの選択肢は少ない。その中で最も効果的な方法を選んでいるに過ぎないことを理解し、冷静に対処することが必要だろう。

 だとしても、国家はテロに過敏に反応してしまいます。物的損害は圧倒的に小さいにも関わらず、何もしなければ国家の正当性を失わせるからです。国家は国民に対して、公共の領域に暴力を持ち込ませないことを約束しています。どんな大惨事であろうと正当性を失わせなければ政権は持ちこたえるし、どんなに些細な被害であろうと正当性を失わせれば政権は揺らぎます。

 西洋社会は公共の場所での暴力を排除することに成功しました。その成功がテロに過敏に反応する理由かもしれません。起こるはずのない場所で起こった脅威は、実害以上のインパクトを与えます。もはや、それを放置することはできなくなります。

 これからは微々たる被害をもたらすテロの脅威だけでは済まなくなります。大きな物的被害を与えるテロの手法が生み出されました。核テロやサイバーテロ、バイオテロです。これらはとてつもない被害をもたらすので、国家は対処せざるを得ません。これまでのテロ対策とは根本的に違う対策を講じなければならないだろう。従来のテロと核テロなどを全くの別物として扱わなければならない。

 

戦争

 国家間の大規模な戦争はしばらく起きていません。暴力行為で亡くなる人の割合も低い。しかし、リーマンショック以降の世界は不安定さを増しています。軍事支出が増え、挑発行為が増している。何がきっかけで戦争が起こるか分からない情勢と言えます。

 一方、戦争がもたらす成果は必ずしも魅力的ではありません。過去の戦争では、戦勝国は国土や権力の増大を見込めました。しかし、現在では戦争に勝利することでもたらされるものは小さい。むしろ戦争で得るものはないと言えるかもしれません。直接的な軍事衝突を避ける理由です。どれほど挑発的なことを言ったとしても、現実に戦争に突入することはないだろう。

 勝利の定義にもよりますが、相手国を打ち負かし経済的な利益を得ることが勝利ならば、戦争に勝利することは難しい。世界情勢も経済も変わってきているからです。過去の戦争で得るものは経済的資産でした。敵国から資産を奪うことで利益を得ることができた。

 21世紀の経済的資産は知識です。戦争に勝利したからといって、知識を奪うことは難しい。しかし、現在の情勢で戦争による成果を見つけ出すことができれば、戦争を止めることは難しくなるかもしれません。

 戦争は利益を生まない行為だとしても、絶対的な抑止力にはなりません。人間は冷静な判断を常に下せるとは限らない。愚かな存在だと認識しておかなければならないだろう。

 

謙虚さ

 人は自分を中心に物事を考えます。主観的に世界を捉えれば、自分が中心になるのは自然なことです。そのことと自身が属する文化や思想が世界の中枢を占め、今日の人類の発展をもたらしたと考えるのは別です。しかし、多くの集団がそのような思想を持っています。

 特定の宗教や思想や文化がなければ、人類の発展はなかったというのは間違いです。そのように考えるのはうぬぼれに過ぎません。それでも世界のあらゆる発展を自身が属する文化や宗教に結び付け、自分たちの優秀さを誇示しようとします。

 人類に対する科学的な貢献は、特定の宗教や文化ではなく個人の能力による貢献だろう。個人には属する文化や信仰する宗教があるかもしれませんが、そのことと彼らが成した科学的貢献とは直接的な繋がりはありません。

 倫理的な面であっても、特定の宗教が果たした役割は小さい。宗教が生まれる以前より、人類は倫理や道徳を持っていました。体系的に教義として明確にしたかもしれないが、それも都合の良い形になっているかもしれません。宗教や文化は個人に対し謙虚さを求めておきながら、それら自体は謙虚さを持ち合わせていません。

  

 一言で神と言っても、それが指す意味は様々です。

 人が神について語るのは、自身の無知を説明する時です。疑問の答えについて説明できない時に神の名を持ち出します。哲学や人生を語る時に登場する神であり、この神について具体的な説明をすることはできません。

 もう一つの神は、厳格で世俗的な立法者でもある宗教上の神です。信者が神を語る時、人間の理解の限界について語ります。理解できないことは、神の仕業以外の何物でもないと話します。その上で、神の行うことに間違いはないと言います。神の絶対性を語ることで、世俗的な立法を正当化します。神が決めたことに間違いはないのだから、神が決めたことには従わなければならない。

 しかし、神の存在と世俗的な立法がどのような理由で繋がるのだろうか。宇宙の神秘が深いほど、世俗的な立法にまで神が関わるのだろうかという疑問が出てきます。

 宇宙と世俗的な立法を繋げるのが聖典や経典です。定められている規則は宇宙の神秘に関わりがなさそうですが、それを繋げるのが聖典などの役割です。宇宙の神秘は科学的に解明されていくだろう。宇宙の神秘の解明は科学が行い、もはや聖典や経典が果たす役割はありません。これらは人間の想像力によって書かれたに過ぎない。

 しかし、聖典や経典は社会秩序を守るために必要であり、その点では宇宙の神秘は全く役に立ちません。一面的な見方では、詳細な戒律が社会制度を安定させる役割を担い、人々を道徳的に行動させます。

 戒律がなければ、人々は道徳をなくし社会秩序は崩壊するのだろうか。その点においては疑問が残ります。社会の規模の違いはあっても、人類は宗教が誕生する以前から道徳を持ち、社会生活を維持してきました。むしろ神がもたらすのは、自身の神を信じないものへの怒りなのだろう。

 

世俗主義

 世俗主義は宗教の立場から見ると否定的に受け取られがちです。しかし、世俗主義者たちは肯定的に捉えています。世俗主義は宗教に反対の立場ではなく、一定の価値基準によって定義されています。

 宗教はそれぞれに特定の立場を持ち、それ以外の立場を否定する場合があります。世俗主義は、道徳も英知も人類が自然に受け継いできたものとします。全ての人類が共有しており、特定の宗教の成果ではありません。

 世俗主義が重要だと考えるのは真実です。この場合の真実は、観察と証拠に基づいています。宗教において信仰する真実(信念)ではなく、科学的な真実です。真実はどこにでも存在し現れてきます。特定の場所にだけ現れるものではありません。

 思いやりも重視します。世俗主義の倫理は宗教の聖典や経典に基づくものではなく、苦しみを理解することで生まれます。絶対的な神に従うのではなく、相手に対する思いやりで行動します。一方、神の戒律に従わず自身の判断で行動することから、難しい判断に迫られることもあります。

 人間社会は複雑です。誰かの苦しみを取り除くことで、別の者に苦しみを与える結果になることもあります。その場合に、世俗主義者は状況を分析し、利害の比較をし、引き起こす害が最も小さいものを探します。世俗主義者は倫理や社会的責務を欠いて訳ではありません。