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『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想みたいなもの】|Ⅳ 真実

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 こんにちは。前回、「『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想みたいなもの】|Ⅲ 絶望と希望」の続きです。  

Ⅳ 真実

 「ポスト真実」の概念から、現在のグローバルな情勢をどれだけ理解できるか。悪行と正義をどこまで区別できるのか。自らが作り出した世界を理解できるのか。 

 「無知」「正義」「ポスト・トゥルース」「SF」の四つの視点から、これらの課題を考察しています。それぞれに副題があります。

 

  • 「無知」・・・あなたは自分で思っているほど多くを知らない
  • 「正義」・・・私たちの正義感は時代遅れかもしれない
  • 「ポスト・トゥールース」・・・いつまでも消えないフェイクニュースもある
  • 「SF」・・・未来は映画で目にするものとは違う 

 

無知

 自由主義も民主主義も、独立した合理的な個人を基盤に成り立っています。個人が最もよく知っており、常に正しいという考え方です。しかし、人間はそれほど合理的でも物知りでもありません。物事を決定する時、人間は合理的な思考ではなく情動や経験に基づくことが多い。

 独立性についても疑問があります。人間は単独では行動せず、集団や社会の中で生活しています。集団であることで解決できる問題も多い。集団は個人が全てを知っていることを要求しません。集団として機能すれば問題はないからです。集団が大きくなればなるほど分業が進み、多くの物事を知らなくてもスムーズに生活できるようになります。

 集団の誰かが持っている知識を、まるで自分の知識のように錯覚する現象も現れます。全てを知ろうとする意識はなくなりますが、他者の知識を頼ること自体は悪いことではありません。大きな集団を形成し効率的に発展させるために有効な形なのだろう。

 しかし、社会が複雑になり過ぎることで、現在起こっていることの知識がないばかりでなく気付けないことも多い。知識を持っていない分野で意思決定を下すことが起きます。

 人々は無知をなかなか認めません。自分の知識が正しいと思うための情報に積極的に接することで、自身の考え方の正当性を確かめようとします。人々に正しい情報を与えたとしても、集団に属する限り、その集団全体の思考から逃れることは難しいだろう。個人の知識より集団の思考の方が、力が大きく囚われやすい。

 

正義

 人間の道徳性は長い進化の過程で形作られています。人間が持つ道徳性はそれほど変化していませんが、我々が直面する問題の規模は大きくなった。同じ道徳性で対処できるほど簡単な問題ではなくなりました。

 正義を行使するためには因果関係をはっきりさせる必要があります。両者が結びつくことで、望ましくない結果をもたらす原因を正義を持って取り除くことができます。

 しかし、世界はグローバルで複雑になり過ぎました。我々の身の回りにあるもの、起こっていることの背景に一体何があるのか知ることは難しい。知ったとしても、直接的な因果関係を認めにくい。認めたとしても現実感を伴うことは少なく、何をすればいいのか分かりにくい。

 我々の行っていることがどんな結果をもたらしているのか知ることも同様です。我々の行動が環境破壊や児童労働などを引き起こすとしても現実感を抱きにくい。抱いたとしても、自分ひとりに何ができるだろうかと考えてしまいます。社会は大きく、個人の力はそれに太刀打ちできません。複雑な社会は知らないままでいることを簡単にし、知ることをとてつもなく難しくします。

 世界の複雑さを解消することで問題は解決するだろうか。問題の規模を縮小することで物事を単純化し可視化することも方法のひとつです。具体的な目に見える形でドラマを作り出すことも方法のひとつです。善悪の二極化を図ることも複雑さを無くします。これらは複雑な世界を単純化しようとする方策ですが、必ずしも問題の本質を捉えようとするものではありません。

 全人類が共有する絶対的な正義を作り出すことで問題は解決するだろうか。人々は複雑すぎる事象から逃れるために、単純な指針を与えてくれる何かに逃げ込みたくなる欲求を持っています。絶対的な正義というものがあれば、有効な手法かもしれません。しかし、何をもって絶対の正義というのだろうか。集団にはそれぞれに偏った思考があります。そして集団の思考は簡単には変化しません。 

 

ポスト・トゥールース

 真実の時代は過ぎ去り、我々は嘘と作り事ばかりの世界に生きています。歴史や国家すら嘘で作られる。しかし、そもそも真実だけの時代は存在しません。どのような時代であっても嘘や作り事は存在し、国家はそれらを利用し国民を扇動してきました。

 人間は虚構を創り出すことで大きな集団を形成し、発展してきました。共同体は虚構を信じることで維持されてきました。宗教も虚構を利用しているもののひとつだろう。もちろん信仰している者にとっては、その宗教は真実そのものです。

 しかし、そうなれば他の宗教はどうなるのだろうか。自身の信仰している宗教以外は全て虚構と言い張るのだろうか。どれが真実でどれが虚構かという問題ではなく、何を信じるかということなのだろう。信じることで、信仰者にとっては真実になります。

 国家についても虚構が利用されることが多い。国家の正当性を作り強化するために虚構を作り出し、効果的なプロパガンダで扇動します。本質的な嘘が、現実的な真実に変わることはあるのだろう。宗教や国家にとどまらず、企業や人種などにおいても虚構は作られ利用されています。真実よりも虚構の方が人々を惹きつけるのかもしれません。

 これからの我々に必要なのは虚構と現実を区別する力です。虚構の裏には何らかの現実があります。虚構はその現実から目を逸らすために作られている可能性があります。全てを見抜くことはできませんが、少なくとも努力はするべきなのだろう。 

 

SF

 人間が大きな集団を作り協力しているのは、虚構を信じているからです。虚構は必ずしも負の面ばかりを持つ訳ではありません。人類の発展のために重要な役割を果たしてきました。

 神についての虚構を作り出すために詩人や画家が重要だったように、21世紀における重要な芸術のジャンルはSFです。人類はAIやバイオテクノロジーの劇的な進歩の真っただ中にいます。しかし、我々はそれらに関する知識を持ちあわせていません。一部の科学者だけが、それらの知識を有するに過ぎない。しかし、それらを理解するように努めることも難しい。

 そこで重要になるのがSFです。SFで描かれる世界が、人々の未来への理解を決めていくだろう。SFは誤った理解を与える可能性があることを認識し、より大きな責任を負う必要があります。我々は無条件に信じる訳ではありませんが、少なくとも一つの可能性としてSFを受け止めます。誤った認識を与えると人々の意識が間違った方向へ向いていき、人類の発展自体が誤った方向へ向かうかもしれません。発展を止めることにもなりかねない。

 SFは虚構に過ぎません。しかし、その影響力を十分に認識しなければいけないのだろう。